
7月4日(土) 曇り
昼、蕎麦を食べてそのまま地下鉄に乗り、表参道で下車。うろうろして、ベルトとシューズを買う。どちらもよい買い物であった。
いったん帰宅後、夕刻に再度外出。茅場町下車。人生初となる詩の朗読会へ。先日、画をみにいった際、直々に案内があり、せっかく声をかけていただいて、それにその企画、会場を軽く流してしまうのはもったいないという思いもあって、参加を決意。で、行ってよかった。が、おのれの集中力の欠如を痛感。
夜、自宅で神戸vs東京をTV観戦(録画)。いまの東京はとてもよい。
*****
7月5日(日) 曇り
昼、蕎麦を食べてそのまま地下鉄に乗り、上野にて下車。待ち合わせて、ブルガリアン・ヴォイスのコンサートを観る。当初は、中沢さんのイベントに行くつもりで、抽選にも当たってわくわくしていたのだけれど、金曜の夜、知人から招待されて急きょ予定を変更した。ブルガリアの人からブルガリアのイベントに招待されたら、それはもう行くしかないだろう。しかも、以前からバルカンがらみで面白い情報があったら教えてほしいと伝えてあったのを憶えていてくれて、今回、本当に連絡をとってくれたのである。さらに大使館経由でチケットまで手配してくれて、彼女はなんて親切なんだろう。たがいの立場を越え、プライベートを共有できたのもよかった。じつは、彼女は転職斡旋のエージェントであるのだ。正直、僕はその職業があまり好きではない。が、それはきっと人それぞれなのだろう。なんてことを考えつつ、これがふたりだけの企画ではないことに落胆などしていないと言い聞かせつつ、観賞後すぐに解散でも拍子抜けなどしていないと脳内で復唱しつつ、ひとり渋谷へ。うろうろして、帰宅。
*****
少しだけいつもと違う週末を過ごした。小さな冒険をした。その甲斐はあっただろうか。というより、たいせつなのはその姿勢だと思う。できるだけ縮こまらず、場違いをおそれず、これからもいろいろな経験を積み重ねていきたい。
以下、いまだ記録できてない諸々を羅列しておく。
阿修羅のジュエリー、グラントリノ、不確かなメロディー、69猥景、阿修羅展、瀕死の双六問屋、夕子ちゃんの近道、緑の資本論、瀧口修造の光跡、ブルガリアン・ヴォイス。



















言語の自己表出性は、言葉の流れを生み出すためにつかわれる品詞、例えば助詞や感嘆詞の中に強く含まれている。また、この表出は言葉が生み出す価値と深い関わりを持つ。というか、吉本氏がいうように、はじめて海岸に迷い出た狩猟人が眼前に広がる青い海原をみて思わず「う」と呟いたのが「海(うみ)」という言葉の始まりであるとしたら、つまり自己表出が言語の発生そのものに深く関わっていたとするならば、この自己表出という言語要素は品詞を問わず言葉のあらゆる部分に含まれていると考えられ、言葉の並び、流れ、捩れ、うねりなどにより生みだされる言語の価値(美)に大きな影響を与えていると考えられるだろう。
既成の服地や他のオブジェクトを再利用し、新たな衣服をかたちづくる。たとえば、蝶ネクタイ、ショッピング・バッグ、ボトルの王冠、造花、ウイッグ、クリスマス・ガーランドなどがいくつも繋ぎ合わされ、それらがドレスやジャケット、ネックレスなどに変容する。あるいは、ヴィンテージのバッグを黒いマスキング・テープで被い、それを新しいバッグとして再生する。こうしたマルジェラのアプローチは、彼の衣服に対するオマージュがその背景になっているらしいけれど、僕はこれをマルタン・マルジェラの洒落、遊び心の結晶として眺めた。既成品の破壊とその再構築。こうした型破りなコレクションをコレクションとしてつくる方もつくる方なのだが、それを受け入れる側も受け入れる側で、その、つくり手と受け手の呼応、響き合いがこの「ゼロ」を成り立たせているのだと思う。
すべてがぐるぐる、ごろごろと回り転がりながら、それでも迷いなくハッピーエンドへ雪崩れ込む展開にわくわくした。その様子はさながらサーカスのようで、連続するアクロバティックな光景にこころ躍った。皆が、笑ったり、歌ったり、泣いたり、怒ってみせたりして、そのうえ回転したり、宙吊りになったり落っこちたりでもう愉快なのだ。無数の弾丸が飛び交い人々の命が危機に陥る場面もあるのだけれど、しかしその雨あられの如き弾丸は彼らを避けるように飛ぶのである。ファンタジーの世界。ここで未来は保証されているのだと知れ、安堵して皆の行方を見守ることができた。
ギャラリーの奥、黒の毛糸が張り巡らされた一角があり、それが塩田千春の作品であるとすぐにわかる。そしてその張り巡らされた黒い糸の向こう側には、古いミシンと椅子が据えられているのがみえる。記憶の闇。彼女の作品には、無意識の奥底に眠る記憶の断片が投射されているのだと思う。その記憶は暗いものばかりに感じられるけれど、しかし不思議とその作品から陰惨な印象を受けることはない。むしろ、黒い癒し系というか、彼女の作品と向かい合うとなにか安心するというか、どこかほっとするなにかが感じられる。扱われるモチーフは、今回のミシンのほかには服、ピアノ、靴などがあり、それらはおそらく極私的な経験にもとづくオブジェクトだと思うけれど、同時にある種の普遍性を感じとることもできる。その、極私的な領域を外に開いていく力が彼女の作品には溢れている。今後も、彼女の作品は欠かさず観ていきたい。