環境のエコロジー、社会のエコロジー、精神のエコロジー。

『したがって、実践的かつ思索的、倫理‐政治的かつ審美的な新タイプのエコゾフィーこそが、旧来の宗教的、政治的、連合的などなどのアンガージュマンの形態に取ってかわらねばならないと私には思われる。それは内面への自閉にむかうということでもなければ、古いタイプの「活動家主義」の単なる刷新でもない。むしろ、分析的で主観生産的な諸装置と諸審級を設置することをめざす多面性をもった運動が大切なのである。個人的・集団的な主観性が、自己同一性に囲い込まれ、「自我化」され、個人的に仕切られた境界区域からいたるところではみ出し、社会体の方向だけでなく、機械領域、科学技術的な参照の場、美的世界、さらには時間や身体や性などの新たな「前‐個人的」理解の方向へと、全方位的にみずからをひらいていくようにならなければならない。再特異化の主観性が欲望や苦痛や死といったようなすがたをまとった有限性との遭遇を真正面からうけとめることができるようにならなければならない』(p.70-71)
エコロジーを謳う商品が大量に生産され、消費され、それが塵として灰になり果て、あるいは地中にそのまま埋め立てられて腐乱していく。そうした過程を眺め、想像しているうちに、エコロジーという価値観そのものが塵化して廃棄されているような気がしてきて、絶望的な心持ちになる。が、それではいけないのだ。本書に触れ、私は私にできうる限りのことをしようと思った。それはやはり環境保護に限ったことではなく、どちらかというと、再特異化に向かう意思というか覚悟といえばいいのか、とにかく私は、反エコロジカルな力に飲み込まれてその運動に同化し、平坦に均されることをこれからも拒否し続けたいと思う。
『生産のための生産、成長率を上げようという強迫観念は、資本主義市場であれ社会主義経済であれ、とてつもない不条理にいたりつくのです。人間活動の唯一受け入れ可能な合目的性は、世界との関係を持続的なやり方でおのずから豊かにしていく主観性の生産にあります。主観性の生産装置は、巨大都市のレヴェルでも、詩人のことば遊びのレヴェルでも、ひとしく存在しうるものです。このような主観性の生産の奥深いバネ−存在を自己創造していく意味の切断―を把握させていくためには、今日、私たちにとって、おそらく、経済学や人文諸科学を寄せ集めたもの以上に詩から教えられるところの方が多いのではないかと思われます』(p.100)
日常の中の違和感をもっと大切にしたい。