2009年08月31日

「Bulgarian Voices」 不協の和のなかの悦び

ブルガリア・コスミック・ヴォイセズ合唱団 『ブルガリアン・ヴォイス』 (東京文化会館)

指揮:ヴァニャ・モネヴァ

bulgarian_voice01.jpg知人から誘われ、上野まで足を伸ばした。実は、彼女はブルガリアの出身で、ブルガリア人と観るブルガリアン・ヴォイスってのもオツだなあ、なんて考えて、彼女の招待を素直に受けることにしたのだ。

コンサートは、1曲を除くとほかはすべてアカペラで、20人前後だったか、それぞれに異なる民族衣装をまとった女性たちが、彼の地に伝わる民謡などを独特の音色で響かせていて摩訶不思議な味わいがあった。摩訶不思議というのは、その声の重ね方がユニークなのだ。あとで調べてみると、ブルガリアの合唱スタイルは西欧のものとは少し異なり、その和声の中にいわゆる不協和音がつかわれるという。しかし実際に聴いてみると、その不協和音に不協は感じられず、むしろその不協が声の響きに独特の奥行きを与えているように思える。西欧でありながら西欧だけではなく、中東やアジア、あと、ロマなどの文化が混ざり合いながら熟成されたブルガリア、そしてバルカンの奥深さ。そこはきっと不協の和の半島なのだと感じた。

ちなみに、彼女はソフィアの出身で、彼女が教えてくれたその土地の民族衣装はいちばんきらきらと派手であった。
posted by Ken-U at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月30日

味スタ、選挙

fc_tokyo09082901.jpg

8月29日(土) 曇り

この日は連敗脱出をかけた大事なゲーム。なのに、彼らは敗れることを恐れたのか、消極的なプレーに終始していたのでイラつく。閉塞のなかに閉じ籠った選手たちは、無難なパスの連続の中、偶発的になにかが起きるのをじっと待っているようにみえた。当然、スタジアムには不満が募り、その負の感情はノイズとなってスタジアムに溢れた。萎縮している場合ではない。自力で打開しなければ将来はないのだ。

でも、さすが石川だと思った。唯一、彼の切れ込む動きが東京の前線に躍動を与えていたのだ。そして後半に入り、途中出場の大竹がよい触媒として働いたこともあって、その石川の突破が先制点の源泉となる。その時、歓喜でわあわあ浮かれはしたけれども、しかしその一方で、こうした動きが羽生にもあればチーム全体が躍動できるのにと残念に思った。ここ最近の東京は右に傾きがちである。

で、米本。そのとき、歓喜の中で鳥肌が立った。ぞくぞくした。あれは相当なものだと思う。彼は、あのスライディング・タックルもそうなのだけれど、イングランドっぽい熱いプレーをみせたりして好みの選手である。東京にはなくてはならない存在だと思う。あれは誰がみてもスーパーなゴールだった。

どうにか連敗を脱出することができた。が、前途多難。この蒸し暑い夏に選手を固定したせいか、選手の動きが重く感じられる。それに位置どりもどこがぼんやりとしているような。ここで新しい選手を試してみたいところだけれど、かといってナビスコ杯も落とせないし、当面、城福監督は苦しい采配を迫られるだろう。僕もやきもきしなければならない。

*****

8月30日(日) 小雨

午後、投票をすませた。小選挙区と比例では別の政党に入れたのだけど、やはり自民党には入れず。いまの自民党にはなんの取り柄もない。あと、変な名前の新党はそれ以下だと思う。

政権交代は大歓迎だが、小選挙区制による選挙結果の振れ方には違和感を覚える。
posted by Ken-U at 18:09| Comment(5) | TrackBack(0) | サッカー(国内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月25日

ENGLAND PREMIER LEAGUE #3

イングランド・プレミアリーグ 第3週

アーセナル vs ポーツマス

arsenal09082208.jpgアデバヨルのいないアーセナルがどうかと思ってみたのだけれど、これがえらい強くて驚愕した。グルーヴがあり、楽しかった。

アデバヨル?ああ、アデバヨルねってくらい躍動していたのが復活のエドゥアルドとファンペルシのツートップ。で、このふたりで崩して、その後ろのMF、例えばこの試合であればディアビ、あと、僕が注目しているラムジが決めたりして、いかにもアーセナルらしい流動性に富むスペクタクルなフットボールを堪能することができた。

まあ今年はアフリカ選手権の年だから、アデバヨルの放出はアーセナルにとって経済的であるという判断なのだろう。彼は以前から移籍に対する色気を匂わせていたし、出て行くのなら今年、ということなのだと思う。よくよく考えてみれば、アーセナルのFWは、上のふたり以外にもウォルコットやベラが控えているわけだから、層はそれなり。あとはベントナーがその秘めた能力を爆発させなければならないのだけれども、この試合をみる限りそれは難しそうだ。それでも彼を起用し続けるヴェンゲルの辛抱強さにはいつも感心させられる。

***

ウィガン vs M.ユナイテッド

ウィガンはよく守った。が、ユナイテッドが強すぎるのだと思う。あれだけ固められても、一瞬の隙を突くというか、多彩な攻撃で守備の網を破るというか、ゲームが膠着しているようで、気がつくと、いつもまにか1点、2点と点が積み重なっている。このゲームでは、ロナウドの不在がかえってチームに躍動をもたらしているようにみえた。

*****

アーセナル、ユナイテッドとも、スーパーな選手を放出して、しかしそれでもチームをスーパーなレベルに保っていて、さすが。サッカーからいろいろなことが学べる。
posted by Ken-U at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー(欧州) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月19日

イングランド開幕

せっかくの開幕なのだけれども、あまり集中できず。なによりアーセナルが観られず落胆。

イングランド・プレミアリーグ 第1週

チェルシー vs ハル・シティ

chelsea09081504.jpg青組の中にいるカルロ・アンチェロッティの姿に違和感を覚えた。で、ブルーのネクタイなんかして、クラブに気をつかっている。思えば、チェルシーがイタリア人監督を招き入れたのは、あのジャンルカ・ヴィアッリ以来か。調べてみたら、ヴィアッリが指揮をとったのは98年から2000年まで。あれからもう10年が経つ。

で、試合を決めたのは、あいもかわらずドログバ。ドログバが、二回も、ズドンと決めた。強かった。今季、アンチェロッティはチェルシーに落ち着きをもたらすかもしれない。

***

ブラックバーン vs マンチェスター・シティ

試合開始早々にアデバヨルがゴールを決め、はしゃぐ姿に違和感を覚えた。あと少し続きを観て、退屈して、で、そのまま...

***

マンチェスター・ユナイテッド vs バーミンガム

みないで寝ようとしたけれど、そうもいかず、TVを点けたり消したりしつつ、最後まで。ユナイテッド、懸念の右サイドは安泰であった。で、ルーニーが決めた。今季のルーニーは燃えているだろう。

*****

VVVの本田、ダイジェストでゴールシーンだけをみたけれど、凄い。尋常ではない。たいへんなことになっている。ダイジェストになるけれど、彼の今後に注目したい。
posted by Ken-U at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー(欧州) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月18日

盆休み、味スタ

fc_tokyo09081601.jpg

8月16日(日) 晴れ

今年の盆休みは四連休。なにもせず、ごろごろした。相当に疲れていたのだ。なにに疲れていたのかよくはわからないけれど、例年になくからだがだるく、この数週間、日曜の午後にたまらず昼寝をとりそのまま日が暮れてしまうこともたびたび。

この日は連休締めのイヴェントで味スタへ。外の風に当たりながら芝の緑を眺め、冷たいビールをきゅっと呑みながら、少し読書もした。

で、試合は無念のスコアレス。でも、ブルーノ、梶山、石川、長友の四人がいなかったからやむを得ないと考えるべきか...代役の、茂庭、金沢、田邉、椋原もよくやってはいたけれど、スタメンが一度に四人もかわるとさすがにチームの連係がきしんでしまう。今野、米本、徳永あたりがそれを個人技で補おうと奮闘していたけれど、しかし個の力で連係の埋め合わせなどできるはずもなく。

横浜の守備もよかった。とくに中央が堅かったから、もっとサイドで起点をつくりたかったのだけれど。実際は、前線の起点どころか、とくに田邉の位置が低すぎて、カボレ、平山が前線で浮いてしまった。で、金沢が上がったりもしていたのだけれど、その役割を金沢に求めるのも酷というもの...

しかし悲観することはない。これまで築き上げてきたサッカーが破綻したわけではないのだから。次節は、たぶん梶山、ブルーノのふたりは復帰するだろう。これだけでも中盤の落ち着きが違う。後半ばてばてで判断ミスを連発していた椋原がちょっと心配だったりするのだけれど、きちんと守備から入ってくれれば、まあ大丈夫だろう。山形戦でうまく立て直して、次の味スタ、大分戦で流動性溢れるサッカーをみせてほしい。
posted by Ken-U at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー(国内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月16日

「美というもの」 偶発の美、心の野生を解き放つ

『瀧口修造の光跡 T ‐美というもの』 (森岡書店)

水彩、デカルコマニーなど瀧口修造の作品群、約30点を展示。

takiguchi_shuzo.jpgウェブサイトに掲載されていたデカルコマニーに魅せられ、このイヴェントに足を運んだ。会場は、書店というより半ばギャラリーのような雰囲気で、決して広くはないけれど簡素で居心地のよい空間だった。室内の壁には瀧口修造作の水彩、デカルコマニーなどが掛けられていて、テーブルには関連書物が並んでいた。

最初は、展示されている画がどのように作られたのかよく解っていなかったのだけれど、それがデカルコマニーであることを知り、デカルコマニー?ってネットで調べて、なるほどそうかと了解した。デカルコマニーの魅力は、画があたかも自律的に運動しているように感じられる、というか実際そうなのだけれど、その湧き立つ感じがよいのだろう。瀧口修造のようなシュールレアリストは、この偶発の色彩を人間の無意識と繋げ、芸術の領域に押し上げようとしたのだと思う。瀧口修造の詩作にオートマティスムがつかわれたのも、これと同じ理由によるのだろう。

後日、詩の朗読会にも参加した。朗読会は初めての経験だったので、立ち振る舞い方がわからず、というかあくまでも聞き手なのでなにもしないでよいのだけれど、聴くときの態度など周囲の人たちの様子を眺めたりで集中力に欠いた。かといって、目を閉じることもできなかった。あと、詩を読む人というと、私の乏しいイメージとして、パティ・スミスであるとかニック・ケイヴあたりが思い浮かぶのだけれども、朗読家の岡安さんの声はそれとはまったく違っていてとても上品なトーンだった。

瀧口修造の時代に較べると、現在の精神分析、脳科学は相当に進歩しているのではないかと思う。とくに人間の無意識の捉え方などはこの十数年で大きく変化したのではないだろうか。という意味で、現在の脳科学に根ざした新たなシュールレアリズムが生まれるとしたら、それはどのようなアプローチをとるのか、みたいなことに興味を持った。芸術にとって、人間の無意識はいまでも大きなテーマであるはずだ思う。
posted by Ken-U at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月15日

「緑の資本論」 大量生産・大量消費を乗り越え、そして未来へ

中沢新一著 『緑の資本論』 (ちくま学芸文庫)

利潤否定のイスラム経済を高度資本主義の鏡に。

green_capital.jpg八年前の九月、崩落するビルの様子を茫然と眺めた。この『緑の資本論』が出版されたのはその半年ほどあと、2002年の春のことだ。それから約七年の年月が経ち今回の文庫化に至るのだけれど、とても残念なことに、七年の年月を経てもこの世の在り様はあいもかわらず。その後も続く暴力の連鎖はこの世から夢と希望を強奪し続け、極限まで膨張を続ける資本主義経済は自滅の道をたどり破綻しかけている。今年、アメリカで、そして日本で政権交代が実現するけれども、この先、この社会、この経済にどれほどの改善がみられるのだろう。たとえ政権が代わり、予算の配分に多少の変化がもたらされたとしても、その背景となる経済の構造そのものにはそれほど大きな変化がないようにも思える。というのも、この高度資本主義経済に代わる新たなシステムがこの世に存在しないからだ。

本書は、そうした現状認識に疑問を投げかけている。資本主義の原理にイスラム経済の基礎となるタウヒードの論理を突きつけることによって、資本主義の在り方を相対化し、その普遍性に異議申し立てを行っているのだ。また、この対比は、現在のキリスト教、イスラム教圏の対立の構図と重ねて捉えることができるため、単に経済の枠にとどまらず、キリスト教とイスラム教の差異であるとか、アメリカとイスラム原理主義の政治的対立の背景を読解するための助けにもなる。

イスラムは利子を否定する。純然たる一神教であるイスラム教では、神から離れた場所で貨幣が貨幣を生み、自己増殖することを決して認めることがないのだ。もし、貨幣が神から離れてひとり歩きを始めれば、貨幣増殖のために商品とその価格は規格化、画一化され、大量生産されて、やがてその膨大な商品の集積体が市場そのものを疲弊させ、やがてこの世を地獄へと変えてしまう。

*****

この後に認められるのはただ、経済的強者のみが貨幣の提供するこの機会をわがものとし、全力をつくして蓄財のための販売に走り、社会の内部に流通する貨幣を自分の宝庫にためこむために、生産、販売を継続する。彼らは徐々に流通する貨幣を吸収し、生産と消費の媒介としての交換のもつ役割を麻痺させる。そして多くの大衆を悲惨と貧困の淵に転落させてしまうのである。その結果生産活動が麻痺すると同時に、人々の経済的水準の低下と購買力の欠如が原因で、消費も停滞する。消費者の購買能力の欠如、低下は生産から利潤を奪い、停滞を経済生活の全部門に行きわたらせるのである。
(p.64 / ムハンマド・バーキルッ=サドル 『イスラーム経済』からの引用部分)

*****

大量生産・大量消費型社会の中で溺れるように生きていると、もっと人間に近い領域で営まれる市場、例えば本書で例示されている中東のスークの在り方などには考えさせられることが多い。正直、ひとりの商人として、すでに飽和しているようにみえるこの市場に向かってさらに商品を詰め込むという行為を仕事とすることには罪悪感というか半ば恐怖を感じてしまう。できることなら、この残酷な経済を乗り越え、よき未来のための新たな仕組みづくりに向かうための仕事に関わることができたらと思う
posted by Ken-U at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

「夕子ちゃんの近道」 過去の再編成、新たな価値の創造

長嶋有著 『夕子ちゃんの近道』 (講談社文庫)

瀕死のフラココ屋とその周辺。いろいろな人たち。

yuko_chan01.jpg長嶋有はいつも小さな世界を描く。しかも、描写されるのは目に見える些細な物事ばかりだ。しかし、その例外として記憶の領域があり、それがアクセントとして作品世界に味わい深いゆらぎを与えている。現実に目に見えているものではなく、かつて見た物事に対する描写。それはもちろん脳内で再編成された過去であるので、かつてみた現実とは少しずれがあり、それは知覚した現実が脳内で断片化し、ほかの記憶や妄想が入り混じることで生成されるある種の異界だということができる。彼の作品では、その異界がこの世の抜け穴のような役割を担っていて、なにかの時に主人公がふとそこに潜り込み、浸りながら時空を超えてあれこれ想いをめぐらせるのだけれど、その振り返りが作品世界に膨らみを与え、不思議な魅力を湧き立たせる。

でも、この『夕子ちゃんの近道』には過去の描写がない。少し噂話が添えられる程度で、あとはほぼ今だけが語られる。ただ、そのかわりに異界の役割を担っているのが「フラココ屋」なのだと思う。そこでは価値の転倒があり、既成の価値観から少しはみ出た人たちの心を惹きつけ、それぞれを繋ぎ合わせている。この摩訶不思議な魅力あふれる自称アンティーク店には、ところ狭しと過去の遺物が並べられている。断片化した過去と、その再編成。そして新たに生まれ直す価値。人間の創造のプロセスとフラココ屋の在り方にはどこか似たところがあるように思える。だから意外に多くの人たちの気を惹くのだろう。

ただ、忘れてはならないのはフラココ屋は瀕死の状態であること。意外に多くの人が関心を持ち、それなりに入店もあるけれども実売は乏しいのが現実で、その経営は厳しくなる一方だ。なんとなくいいなあ、なんて思いながら、そしてその存在の危うさが薄々わかっているとしても、誰もそこにカネを落とすまではいかないのだ。いうまでもないけれども、それがこの世の常なのである。

「買わないファンなんて」店長はけっという顔をした。(p.46)

はたしてフラココ屋に未来はあるだろうか。やはり、潰れてから、手遅れになってから、その存在を惜しむ声が上がったりするのではないだろうか。ああなんて冷酷な世界なのだろう、と落胆する一方、私は私なりのフラココ屋を持たなければ、と想いを巡らせてみたり。
posted by Ken-U at 00:17| Comment(2) | TrackBack(1) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月08日

「阿修羅展」 三面六臂の謎、生命力と憤怒

『国宝 阿修羅展』 (東京国立博物館)

ashura04.jpgまず最初に、中金堂基壇に埋納されていたという、金、銀、真珠、水晶、琥珀、瑠璃、瑪瑙などの七宝、そして銅鏡、刀剣、銀鋺、水晶玉などが展示されていて、その様々な種類の鎮壇具を眺めているうちに、先日の『阿修羅のジュエリー』(過去記事)の記憶が重なり、宝玉たちが脳内で色とりどりに輝きだした。この展覧会をきっかけに、くすんで地味な色合いだった平城京のイメージが、きらきらしい派手な色彩に変わった。

娯楽性の高い楽しい展覧会だった。並べられている仏像はどれも迫力があり、同時に深い味わいを醸し出してもいて、とても魅力的にみえた。本展の主役である阿修羅像はもちろんそうなのだけれども、鎌倉時代につくられたという四天王にも阿修羅像とは性格のまったく異なる凄みがあり、その荒々しさに圧倒された。また、仏像そのものが持つ生命力だけではなく、ディスプレイの方法ひとつでこうも空間の雰囲気が変わるものなのか、と感心させられた。

しかし、なぜ阿修羅は釈迦に帰依するようになったのだろう。インドでは鬼神であった阿修羅が、いつのまにか、どこかしらで改心して、あのように穏やかな涼しげな顔をして佇んでいる。しかも意外に派手な格好をしており、そのうえステージ上でスポットライトを浴びたりしてそれがまたよく似合っているのである。こんなことになるなんて、阿修羅自身もあの頃には予想してなかったのではないかと思う。生命の力、光、炎、怒り。それぞれは繋がり合いながらこの世の成り立ちを複雑怪奇に保っているのだけれど、しかし阿修羅の顔は涼しげ、娑婆に無数の修羅場を置き去りにして。
posted by Ken-U at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月02日

「不確かなメロディー」 叶わぬ夢、旅、すべては水の泡に

杉山太郎監督 『不確かなメロディー』 (ヒューマントラストシネマ文化村通り)

マジカデミルスターツアーはゆく。

f_melody.jpg『瀕死の双六問屋』(過去記事)の連載中、紙面で繰り返し告知していたのがラフィータフィーによる「マジカデミルスターツアー」というライヴ・ツアーだった。このタイトルは、小箱のライヴハウスでスターを間近に見よう、という意味の滑稽な語呂あわせであり、実際、忌野清志郎をはじめとするラフィータフィーのメンバーは、みんなで一台のマイクロバスに乗り込み、この列島を縦断しつつ各地のライヴハウスを渡り歩いたのだ。本作は、その道程を収めたドキュメンタリー映像である。

まず、ライヴの質の高さに驚愕した。正直、RCサクセションの頃(とくに後期)よりずっといいと思った。あの頃は、和製ローリング・ストーンズとしてのバンドの位置づけであるとか、その中におけるキヨシローの役割を彼ら自身が意識しすぎるきらいがあり、正直、それを苦手に思ったりもしていたのだけれど、このラフィータフィーはその呪縛から完全に解き放たれており、おまけにメジャー・レコード会社の束縛からも解放されていたりするので、じつにピュアに、活き活きと、ありのままに裸の状態で音を放っていて、痺れる。なんといえばいいのだろう、もうギュンギュンにグルーヴが渦巻いているのである。

そしてライヴ映像の合間には、忌野清志郎(とほかのメンバー)のインタビューが挿入されていて、それもよかった。そこでは過去を振り返った清志郎が音楽を始めるころから現在に至るまでのいろいろについて語っているのだけれど、その声を通して、たぶん彼は音楽に支えられながらここまで生きてきたのだろう、そして歌手になることでその恩返しをしたかったのだろう、と思った。だから音楽に対してあそこまで誠実でいられたのだろう。きっと、そうあらねばならなかったのだ。

ライブの只中で突然、「俺には夢がある!」と彼は叫ぶ。「イエー!」っていう客に続けて、それはこの世界から戦争がなくなること。人を殺すやつも自殺するやつもいなくなること、それが俺の夢だ、とシャウトするのだけれど、しかし、すべては水の泡に。ぎゅんぎゅんのライヴも、狂乱する人々の熱も、バスの窓からみえる霞んだ空も、質素なホテルの部屋でふかした煙草のけむりも、すべては過去の闇の中に消え去ってしまった。もうこの世には存在しないのだ。しかし、それでもブルースは続く。失われた母なるものを想いながら。
posted by Ken-U at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。