利潤否定のイスラム経済を高度資本主義の鏡に。

本書は、そうした現状認識に疑問を投げかけている。資本主義の原理にイスラム経済の基礎となるタウヒードの論理を突きつけることによって、資本主義の在り方を相対化し、その普遍性に異議申し立てを行っているのだ。また、この対比は、現在のキリスト教、イスラム教圏の対立の構図と重ねて捉えることができるため、単に経済の枠にとどまらず、キリスト教とイスラム教の差異であるとか、アメリカとイスラム原理主義の政治的対立の背景を読解するための助けにもなる。
イスラムは利子を否定する。純然たる一神教であるイスラム教では、神から離れた場所で貨幣が貨幣を生み、自己増殖することを決して認めることがないのだ。もし、貨幣が神から離れてひとり歩きを始めれば、貨幣増殖のために商品とその価格は規格化、画一化され、大量生産されて、やがてその膨大な商品の集積体が市場そのものを疲弊させ、やがてこの世を地獄へと変えてしまう。
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この後に認められるのはただ、経済的強者のみが貨幣の提供するこの機会をわがものとし、全力をつくして蓄財のための販売に走り、社会の内部に流通する貨幣を自分の宝庫にためこむために、生産、販売を継続する。彼らは徐々に流通する貨幣を吸収し、生産と消費の媒介としての交換のもつ役割を麻痺させる。そして多くの大衆を悲惨と貧困の淵に転落させてしまうのである。その結果生産活動が麻痺すると同時に、人々の経済的水準の低下と購買力の欠如が原因で、消費も停滞する。消費者の購買能力の欠如、低下は生産から利潤を奪い、停滞を経済生活の全部門に行きわたらせるのである。
(p.64 / ムハンマド・バーキルッ=サドル 『イスラーム経済』からの引用部分)
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大量生産・大量消費型社会の中で溺れるように生きていると、もっと人間に近い領域で営まれる市場、例えば本書で例示されている中東のスークの在り方などには考えさせられることが多い。正直、ひとりの商人として、すでに飽和しているようにみえるこの市場に向かってさらに商品を詰め込むという行為を仕事とすることには罪悪感というか半ば恐怖を感じてしまう。できることなら、この残酷な経済を乗り越え、よき未来のための新たな仕組みづくりに向かうための仕事に関わることができたらと思う