2009年11月24日

「HARVEST MOON」 時の残酷

『HARVEST MOON』 (六本木ヒルズアリーナ)

高木正勝 (ピアノ)
ヤドランカ (ボーカル、サズ)
福井則之 (馬頭琴、ホーミー)

takagi_masakatsu_lightpark.jpg贅沢な時間。都会の真ん中で、野外で、さらに無料で高木正勝の音楽が聴けてしまうのだから、これを贅沢といわずしてなんといえばいいのか。しかも、生の演奏なのである。ステージで揺らぐ三人の姿、後方のスクリーンに照らし出される映像を眺めつつ、このまま時が止まってしまえばいいのに、とかなんとか、ありえもしないことを願う。

しかし時の流れとは残酷なもので、このつつましい幸福な時間をあっけなく終わらせてしまう。しかも、演奏の終わりをぐだぐだにして。あれは緊張の糸が切れたせいなのだろうか。周囲のノイズが悪かったのか。あるいは六本木という街にわく毒気がそうさせたのか...すべては謎に包まれたまま、見あげると、夜空。

いっそのこと、すべてを終わらせてくれればよかったのに...散会後、高木正勝さんが落ち込んでいるのではないかと心配になりながら、それでも初期の作品をライヴで観たのは収穫だったなあ、なんて思いながら、同じく観にいったふたりと一緒に夜半まで呑み、とぼとぼと、帰宅。そういえば、月はあの日のあの空に出ていたのだろうか。
posted by Ken-U at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像・音楽(高木正勝) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月23日

「ROCKS THE HOUSE」 響く歌、魂の祈り

ETTA JAMES 『ROCKS THE HOUSE』 (CHESS)

etta_j_rocks_the_house.jpg近所にカレー屋がある。とてもうまいオリジナル・カレーを出す店なのだけれど、その店はカレーだけではなく、音楽にもこだわりがあり、店内にいつもFunkyなR&B、あるいはJazzyなソウル・ミュージックを鳴らしていて、なので、週に一度くらいのペースでそこに通い、軽い夕食をとるようにしている。

ホットなカレーにソウルフルな音楽。魂を揺さぶる良心的な店だと思う。そんなある晩、店内に鳴り響いていたのがこの『ROCKS THE HOUS』だった。その頃は、清志郎のことがあり、ほかにもパティ・スミスやニック・ケイヴ、ジム・モリソンなどのヴォーカルに触れる機会もあって、なんというのだろう、体がソウルを求めていたというか、そんなときにエタ・ジェイムズの声に触れて、すっかり痺れてしまったのだ。で、会計のとき、バイトの女の子にアルバム名をメモしてもらい、それをポケットに入れて帰った。

本作におけるエタ・ジェイムズの声は、ライヴ感に溢れている。というか、これは実際のところライヴアルバムなのだけれど、ここで彼女は生録音であること以上に生々しい、生命力に溢れる声を響かせている。たぶん背景にゴスペルがあるのだろう、バックも彼女の情熱を煽るが如く熱の籠もった音を鳴らしており、とくにDavid T. Walkerのブルージーなギターの響きに痺れる。歌とはある種の祈りなのだと感じることのできる一枚。
posted by Ken-U at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

「汚穢と禁忌」 穢れもの、この世の肥しとして

メアリ・ダグラス著 『汚穢と禁忌』 (ちくま学芸文庫)

原題 『Purity and Danger』

穢れとは、この世界の秩序を乱すノイズである。

purity_and_danger.jpg本書のタイトルから、穢れに対する人間の心の動き、その変遷などが語られているのではないかと勝手に想像しながら読み進めたのだけれど、実際の内容は、『汚穢と禁忌』というタイトルから受ける印象とは少しずれがあるように思えた。ではどう違っているのかというと、細かな事柄は忘れてしまったけれど、本書では、人間の心の深層というより、どちらかというと社会の表層における穢れの扱いのことが主に語られていて、とくにその視座、つまり著者の立ち位置が予測とは違っていたところからそのずれを感じたのだと思う。

中沢新一さんの解説にあるように、おそらく、本書は英国保守主義の立場からこの世界を眺めている。その視座から、秩序ある清浄な世界を構築しようとすればそこから排除される不浄のもの(=異例なるもの)が必ず発生すること、その不浄のものをこの世界から完全に排除することは現実的でないこと、又、世界の未来のためには不浄のものを排除してはならず、むしろそれを「堆肥」として辺境領域に保持すべきであることなどを語っているのだ。だから読み進めていてずれを感じてしまうし、逆にいえば、英国保守主義の懐の深さを感じることができる。

以下、解説から少しの引用をする。

*****

「清らか」であることは、矛盾のない体系の中に経験を押し込めようとする試みであるが、手に負えない経験に直面しては、かならずや矛盾に陥らざるをえないだろうし、そのことを理解するのが、人間の成熟を意味する。(p.430)

ひと言で言えば、メアリー・ダグラスは、サッチャーのように失業者を切り捨てたりはしない女性なのだ。彼女は知恵ある英国の母親として、「異例なるもの」という文化体系にとっての失業者に雇用を与え、彼らの労働を堆肥と化すことによって、文化の土壌に豊かさをもたらそうと主張している。そのためわたしはときどき、彼女のけがれ論は、経済学におけるケインズ理論の人類学版なのではないか、などと思うことすらある。(p.431)

*****

「清らか」であることに偏執する社会。この未来なき世界に身を置きながら本書を読み、いろいろなことを想った。
posted by Ken-U at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

09-10 CL+

ac_milan_09102100.jpg

帰国以降、かわらずTVで欧州リーグをみ続けている。が、たらたらみているせいで、ここに記録できていない。どのゲームを観たのか記憶が曖昧なのだけれど、わかる範囲で書き留めておく。

*****

UEFA CHAMPIONS LEAGUE グループリーグ 第4節

アーセナル vs AZ

引いて守りを固める姑息なクーマン采配を、アーセナルが見事に粉砕した。セスクが早い時間帯にゴールを決めたので、それが決め手になったのだと思う。でも、セスクもたしかに素晴らしかったけれど、攻撃面ではアルシャヴィンの存在も大きい。

***

M.ユナイテッド vs CSKAモスクワ

ユナイテッドの楽勝かと思いきや、モスクワが大健闘をみせた。先制し、追いつかれて、また引き離す、という流れに、ロシアはタフだなあ、と感心。しかしユナイテッドの粘りにもまた感心した。好ゲームであった。

***

ACミラン vs R.マドリー

予想よりミランの出来がよかった。とくにロナウジーニョ。W杯に向け、少しずつ調子を上げているのではないか。でも、あの頃の輝きをとり戻すことはないだろう。ミランはパトに期待。

***

リヨン vs リバプール

拮抗したゲームだったけれど、バベルのスーパーなミドルがその均衡を破った。これでリヴァプールか、と思ったのも束の間、土壇場でリヨンが追いつく。ここにリヨンの意地をみた。

*****

UEFA CHAMPIONS LEAGUE グループリーグ 第3節

AZアルクマール vs アーセナル

ゲームはアーセナルが支配した。で、セスクの先制のあと、AZが一か八かのパワープレーに出て、結局、そのドサクサで同点に追いつく。若きアーセナルの脇の甘さ。クーマンの意外な一面。

***

R.マドリー vs ACミラン

久しぶりにみたパトは、ひとまわりも、ふたまわりも大きくなっていた。彼の活躍が、ミランを欧州に繋ぎとめた。

***

リヴァプール vs リヨン

ベナユンのゴールは素晴らしかったけれど、以後、リヴァプールは追いすがるリヨンを振り払うことができず、結局、ロスタイムに力尽きてドロー。ジェラードの不在は大きいけれど、シャビ・アロンソの移籍も大きいな、と、落ち着きのない中盤をみて思った。

***

バルセロナ vs ルビン・カザン

カザンなんて知らない、と甘くみていたのだけれど、彼らのサッカーをみてみて、自分の認識の甘さを反省した。この世界は果てしなく広い。

***

UEFA CHAMPIONS LEAGUE グループリーグ 第2節

M.ユナイテッド vs ヴォルフスブルク

ライヴでみていて、長谷部がいい感じのアシストをする場面を目の当たりに。あれは、なかなかだった。でも、まだまだ流れの中で仕事できていない。彼には日本のカカになるくらいのポテンシャルがあると思うのだけれどもなあ。それはいい過ぎなのだろうか。

*****

イングランド・プレミアリーグ 第12節

チェルシー vs M.ユナイテッド

最近、なんだかイタリア臭のするチェルシー。土壇場のどさくさで1−0にするあたりはまさにイタリアン。今季、バランスがよいのではないかと思っていたら、やっぱりそうか、という印象。そうはさせるものか。

*****

イングランド・プレミアリーグ 第11節

アーセナル vs トットナム

ダービー戦なのでさぞかし盛り上がるだろうと期待していたのだけれど、というか、実際、大いに盛り上がったのだけれど、でもその盛り上がりがダービーらしからぬ一方的なものだったので、やや拍子抜けした。いまのアーセナルは怖ろしく勢いがある。とくにファン・ペルシがのりにのっている。

*****

イングランド・プレミアリーグ 第10節

リヴァプール vs M.ユナイテッド

不調のリヴァプールが底力をみせた。で、その底力がまた泥臭いのなんの。最後は肉弾戦で戦術もへったくれもなく、激しくぶつかり合い、押し合い圧し合いの末、リヴァプールがとどめを刺したときにはもう爆笑。ひさびさにみた濃いゲームであった。

*****

リーガ・エスパニョーラ 第10節

バルセロナ vs マジョルカ

勢いに陰りのみえるバルサだけれど、どうにか勝利。結果だけをみると楽勝なのだけれど、内容は、とくに前半は重かった。でもまあ、あそこでズラタンのヒール・パスが出るのだから、バルセロナは強い。

*****

リーガ・エスパニョーラ 第9節

オサスナ vs バルセロナ

これも重い試合だった。好調のケイタが先制ゴールを決めるものの、あとが続かない。で、最後の最後に追いつかれるという嫌な展開。バルサは、この苦境を乗り越えなくてはならない。

*****

この五年間を通して思うのは、やっぱりサッカーはスタジアムで観るのが正解なのだなあということ。TVは意識が散漫になり、料理をしながら、食べながら、調べものをしながら、気づくとゲームが部屋のBGNと化している。
posted by Ken-U at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー(欧州) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

「アロイーズ展」 無垢の楽園、虚しき官能と死

『アロイーズ展』 (ワタリウム美術館)

アロイーズは31歳で精神を患い、その後の46年間を病院内で過ごす。

aloise.jpg静かな盛り上がりをみせるアウトサイダー・アート。あらゆる創造の領域が経済に食い荒らされているこの世界で、真に創造的な芸術を探し求めようとするとここに行き着くのかもしれない。

統合失調症(精神分裂症)を患ったアロイーズは、以後、78歳で亡くなるまで入院生活を強いられる。そこで彼女は、誰に勧められるでもなく絵を描き続けた。最初は包装紙の裏などをつかって描いていたが、彼女の作品に注目する医者、学者などがあらわれ始めると、創作のためにノートや色鉛筆などが与えられるようになり、アロイーズは創作の幅を広げてゆく。

彼女の作品群を眺める中でいろいろなことを感じたけれど、もう細かいことは憶えていない。ただ、いまも印象に残るのは、ピンクや淡いブルーを配置した温かな色づかいと、男女が交わす抱擁や接吻、そして青く塗りつぶされ表情を奪われた架空の人々の姿で、そこに彼女が死ぬまで想い続けたであろう楽園のきらびやかさと切なさを感じた。

晩年。アロイーズの作品に対する評価が高まるにつれ、周囲の期待も増し、作業療法士が付き添い彼女に助言を与えるようになる。すると彼女は衰弱しはじめ、翌年、ついにこの世を去ってしまった。この人生の結末には創造の儚さが凝縮されているように思えるけれど、わたしは彼女の生涯から、作品から、アウトサイダー・アートから何を学ぶことができるのだろう。
posted by Ken-U at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月12日

「POLART 6000」 即席是空

荒木経惟 『POLART 6000』 (RAT HOLE GALLERY)

ギャラリーの壁に、6,000枚のポラロイド写真。

araki_polart6000.jpgポラロイドに埋め尽くされた壁と向き合い、その迫力に圧倒された。そしてしばらく遠目から眺めたあと、そろそろ近づき、視線を無秩序に飛ばしながら、それらポラ写真のどれもが猥雑で、それでいてユーモアに満ち溢れていることに感心した。生命の、写真の不思議。なかでもとくに不思議に思えたのは、性的ではないはずの被写体、とくに食べ物を写した作品が笑ってしまうくらいに卑猥だったことで、たとえばサンドウィッチからはみ出したソーセージが卑猥なのはまだあれだとしても、どんぶりの上から眺めるラーメンのどろどろした在り様だとか、あとはなにがあっただろう、まあ、とにかくアラーキーの手にかかると、即席であるはずのポラロイド写真が淫らな荒木の色に染まり、そして月日の流れの中でほどよく色褪せ、その褪せたトーンがある種の無常感を醸し、悦びと哀しみを混ぜ合わせて、その群れをあたかもこの世の凝縮体の如くみせる。

展示最終日。ギャラリーに向かう階段を降りるとき、ガラス越しに関係者と歓談している荒木氏の姿が視界に入り、ぎょっとした。緊張し、ギャラリー内にはなかなか入れず、入り口ちかくの書棚やカタログなどをちらちら眺めているうちに彼が出てきて、例の調子でスタッフのひとりに声を掛け、お連れに囲まれつつ賑やかに去っていった。荒木さんと出くわすのはこれが三度目なのだけれど、初回は手足が震えて近づけず、二度目は見なかったことにして逃げ、三度目の今回は背後からその姿を視線で追い、声に耳を傾けるのみだった。この先、もう少しよいかたちでお会いする機会はあるだろうか。
posted by Ken-U at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 写真(荒木経惟) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

味スタ、敗北

fc_tokyo09110801.jpg

11月8日(日) 曇りのち晴れ

昨晩、悪夢のせいで何度となく目を覚ましては寝、覚ましては寝、の繰り返し。しかし負けずに少し早起きして徒歩にて下北、タイ料理屋でグリーンカレーをいただき、その後、井の頭線に乗り味スタを目指す。

試合前、選手を迎え入れるときに立ち上がり、拍手をした。いつもは座ったままなのだけれど、さすがに今日それはまずいと思い、というか、気づいたら立ち上がって手を叩いていた。そして選手たちの挨拶。大きな旗が振られている。日が差してきた。

しかし、今年こそは、と思ったけれど、現実は厳しい。疲れもあったのだろう、あとひと押しが足りなかった。相手が自陣に引き、とくにペナルティーエリア前を固めていたせいもあったと思う。しかし、チャンスはあったし、少なくとも引き分けにはできたような気がする。無念。

疲れといえば、とくに椋原の動きが悪かった。原口には抜かれ、攻撃のときにも流れを止めがちで、クロスもあらぬ方向へ飛んでいく始末。彼は、ボールを受けるときのファーストタッチに工夫が必要だと思う。そこで一旦ボールを止めてしまうために、すぐに相手に詰められてしまう。

という意味で、椋原を最終ラインに残し、今野を前に上げるという最後のスクランブルは一理あった思う。が、やはり最前線のオプションがないのは苦しい。この試合、近藤、大竹に出番がなかったことを残念に思うし、今後の彼らの奮起に期待したい。

とても残念だが、仕事の都合があり、年内のスタジアム観戦はこれが最後になるかもしれない。
posted by Ken-U at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー(国内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

FINAL

11月3日(火) 秋晴れ

2009 Jリーグヤマザキナビスコカップ ファイナル (自宅にて)

会心の勝利。メディアは圧倒的に川崎有利の報道、試合を中継していたTV局も川崎寄りの立ち位置だったのでよけいに痛快だった。

fc_tokyo09110303.jpg五分だと思っていた。というか、内心では東京有利とさえ感じていた。たしかに、カボレの移籍、石川、長友の怪我は痛かったけれど、ここ最近の東京は残された選手たちでよいパフォーマンスをみせていたし、とくに赤嶺が慣れ、成長著しい椋原が安定したプレーをみせていたので、このファイナルも、これまで通りの流れでサッカーすることができればいいところまでいけるのではないか、と期待していた。

で、あの米本のミドル。その瞬間、脳内麻薬が噴出した。あのタイミングで、フリーだったとはいえ、瞬時に判断して打てるのだから彼はただ者ではない。そして平山のヘッド。鈴木のクロスも素晴らしかったけれど、あんなヘディングができるだなんて、彼も役者だなと思う。

しかし、ゲームに対する集中っぷりを思い出すと、この勝利は全員の力で得たのだということがわかる。ピッチ上と、ベンチに控える選手たちと、彼らの抱える藤山、浅利、それにカボレへの想い、さらには観客席、TV、PCの前などで勝利を信じる多くの人たちの祈りなど、様々なエネルギーが重なり、混ざり合って、この結果を生み出したのだ。

*****

観戦後、渋谷に出て映画観賞。泣けた。歓喜にへらへらしたり、感慨に耽ったり、かと思うと切なさにしんみりとしたり、なにかと起伏の激しい一日であった。Tシャツにパーカーだけだと寒いなあ、なんて風を感じながらセンター街を抜け、地下に潜った。
posted by Ken-U at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー(国内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

夏の十字架、秋の十字架

ラフィータフィー

left: 『夏の十字架』 / right: 『秋の十字架』 (Swim Records)

忌野清志郎のバンド、ラフィータフィーの二枚。

two_crosses.JPG業界への怒り、世間に対する違和感を爆発させながら、彼は、その熱を原動力に大人のロックを炸裂させる。ひさしぶりにバンドサウンドを聴いたけれど、熟成が進んでいるからなのだろうか、どちらかというと、あとにリリースされた『秋の十字架』を繰り返し聴いた。

恐いもの知らずの若者が勢いでがなりたてるのでもなく、ナイーヴに夢物語を歌うのでもない。かといって達観したふりをして世間を上から見下ろすような真似をするでもなく、むしろ娑婆で泥まみれになりながら、その悲哀を悲哀のままにせず、熱に転換させ、ソウルのこもったロックにして、ギターを掻きむしりシャウトする。ブルージーなロック。おそらく、これが彼の目指した大人のロックなのだろう。

映画『不確かなメロディー』(過去記事)が思い出される。あの中で印象に残っている清志郎の言葉のひとつに、ソロで音楽をつくっても音を完成させることはできない、という彼の音づくりに対する考え方があるのだけれど、この二枚のアルバムを聴いてみて、バンドサウンドの不思議についてあらためて考えさせられた。旅をしながら、みんなで音を出し合って、紡ぎ、熟成させてゆく。そうしてグルーヴが生み出される。その波動が関わる人々を幸せにする。当時、彼が過去にすがることなく、かっこ悪いこともなにもかも引き受けて、それを新しい音楽に向かうための転機と捉え直して突き進むんだことも含め、これらのアルバムから学ぶことは多い。たしかに、この世界で生きることは必ずしもかっこよいことではないし、むしろかっこ悪い、というか、ある種の気まずさがつきまとうものだと思う。そんな無様で滑稽な世の中であっても、命ある限り、大切な物事を大切にして生きていきたい。
posted by Ken-U at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。