2010年01月31日

「ラグジュアリー:ファッションの欲望」 これからの贅沢とはなにか

『ラグジュアリー:ファッションの欲望』 (東京都現代美術館)

社会の遷り変わりとともに変化する「贅沢」のあり方について。

luxury.jpg「贅沢」という価値の移り変わりが、モードの変遷というかたちで可視化される。中世の貴族がまとったクラシックなドレスから、ブルジョアや現代の「セレブ」が好むモダンなドレスに至るまで、その贅沢の質の変化が、衣服のシルエット、ディテールの素材やかたちなどに反映されており、その変化を肉眼で辿ることができた。

おそらく、贅沢とは希少なものの過剰な消費である、とかつての貴族は考えたのだろう。当時の服飾には、異国で採られた宝石や貴金属、生地がふんだんにつかわれ、それらが特別な技術を持つ職人の手により複雑に編み込まれて、緻密できらびやかな衣服をかたちづくっている。その後、近・現代まで時代が下ると、華美な装飾より機能性を求める傾向が強くなり、身体に負担をかける過剰な装飾は削ぎ落とされ、闊達さ、安楽さが新たな贅沢の要素となる。そして今、この社会における贅沢のあり方は大きく揺らいでいる。

遷りゆく贅沢の価値。では、これからの贅沢とは何か、という問いが本展の大きなテーマだったのだと思う。最後はコム・デ・ギャルソンのアーカイヴとマルタン・マルジェラのラベルナンバー「0」(過去記事)で締めくくられていたのだけれど、私的にはやはり、さらにその先にある、たとえば『musuburiの布と10年1着』(過去記事)のような古くて新しいタイプの小さな贅沢が脳裏をよぎる。大量消費型のビジネスモデルから解脱し、究極の「一点もの」を極私的なレベルで実現する試み。たぶん、同じような営みはそれ以外にもこまごまとあるのだろう。今、彼女たちは既存の流通システムによらず、アートギャラリーなどをつかってダイレクトに消費者と繋がりを持ちながら新たな価値を興している。この動きが互いにつながりあい、新たな波となって、さらなるうねりを創造することを密かに期待している。
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2010年01月30日

「musuburi x 10年1着」 贅沢であること

『musuburiの布と10年1着』 (森岡書店)

musuburi_10nen1chaku.jpgムスブリは個人で営まれているオリジナルの生地屋さんで、手で機を織ってサンプルをつくり、それをベースに量産して、卸したり、個人に切り売りしたり、ユニークな活動をなさっている。生地は、泥染め、草木染め、竹炭染めなど、こだわりの天然染色。

10年1着は、10年着つづけられる特別ではない特別な服、をコンセプトに、カスタム・オーダーを受けたり、既製服をウェブ販売したり、こちらも個人で商売をなさっている。ウェブでそのアーカイヴを眺めるとそれぞれに小さな物語が籠められていて、読んでいるうちにその世界に引き込まれてゆく。

このイヴェントは、ムスブリの生地をつかって10年1着で服を作る、というたいへん贅沢な企画で、店内に並べられた生地をみているだけで、大興奮。それから生地を選んで、どんな服を作りたいか相談を進めるのだけれども、こうした面白い試みが、いわゆる「業界」ではなく、その外部であるはずの「書店」で行われているところに複雑な想いを抱く。
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「ファッションから名画を読む」 モードの変遷、その目撃者たち

深井晃子著 『ファッションから名画を読む』 (PHP新書)

芸術家はモードを愛した。

mode_art.jpg時代とともに変化するモードの歴史が、その時々の名画とあわせて語られている。扱われる絵画は主にルネサンス期以降のもので、中でも、印象派の画家たちとモードの繋がり、女性の身体を拘束し続けるコルセットの在り方などに重きが置かれている。

政治や産業の遷り変わりともに、衣服の素材、かたちが変化していく。たとえば、欧州の貴族階級に身を置く女性たちは、産業革命による綿織物の普及とともに、絹素材で仕立てられた複雑な構造を持つ衣服ばかりでなく、綿をつかった簡素なドレスを身につけるようになり(素材だけではなく、スタイルそのものが簡素な英国風となる)、あるいは鉄の大量生産によりコルセットが普及すると、衣服だけではなく、身体そのものが本来の輪郭から大きく引き離され、歪められてしまう。こうした衣服(身体の輪郭)の変遷は、かつて絵画の主流であった肖像画から多くを読み取ることができる。

十九世紀以降、産業構造の変化により新富裕層と中産階級が生み出されると、それぞれの市場に向けてオートクチュール、プレタポルテが創出され、又、ヴァカンスの普及など、女性のライフスタイルに多様なヴァリエーションがみられるようになり、モード界はかつてないほどの華やぎをみせる。さらに二十世紀には、ポール・ポワレが先陣を切り、コルセットから開放された女性の身体をきらびやかな衣服で包み、続くココ・シャネルは機能性を重視するアクティヴな衣服を提案して、社会進出を目指す女性たちから熱狂的な支持を受ける。印象派の画家たち、そしてその後に続く抽象画家たちはその変遷の目撃者であった。

ほかにも、染料の開発・普及とモード、絵画の発展の関係であるとか、東洋趣味とジュエリー、パラソルの関係など、先日の『阿修羅のジュエリー』(過去記事)にも繋がる文章がみられ、また読了後に観た『ラグジュアリー展』のよい予習にもなった。やはり、モードは社会と個人の関係を映す鏡なのだと思う。
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2010年01月27日

「聖地チベット」 結ばれる異性、その果てには

『聖地チベット』展 (上野の森美術館)

tibet.jpgチベットは中国の一部、という前提が強調された展覧会だったので、その政治色に少し違和感を覚えてしまったのだけれど、それを差し引いても、様々な種類の彫像、タンカ、装飾品の現物をみることができて、よい眼の保養になった。

多くのヤブユム像があった。方便(慈悲)の象徴である男尊(父)と、空の智慧(般若)の象徴である女尊(母)の交わりがかたちづくられているそれらの像には、首にいくつもの頭をつけ、肩から無数の手を伸ばしているものもあって、そのどれもが黄金色にきらきらして眩かった。厳かでありながらきらびやかな、そして淫靡な神々の姿。解説によると、それらの合一像にはある種の永遠性が籠められているといい、その無数の頭と手は、苦しむ人々を救うためにあるのだという。

そして驚くほど多くの神々が、髑髏のついた冠、首飾りを身につけ、あるいは髑髏の杖を持ち、鋭く邪鬼に睨みを利かせていて、それが不思議なことに、その髑髏の不気味さが神々の聖性をさらに際立たせているように感じられた。ここで髑髏は不浄の象徴とされていて、つまり、これら無数の髑髏を通して、悟りのためには不浄のものが必要である、という仏教の奥深さが表されているらしいのだけれど、しかしなぜだろう、この髑髏の装飾にはまだ深い謎が隠されているように思えてしまう。髑髏とはなにか。なぜ、髑髏を身につけるのだろうか。

仏性とは、なんて複雑で多義的な成り立ちをしているのだろう。かたちづくられる神仏の風貌やその姿勢、あるいは身体の前で結ばれた印など、それらの意味を想像すると果てしがない。無限にイメージが膨らんでゆく。
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2010年01月20日

ハイチ大地震 義援金

haiti_earthquake22.jpg

「ハイチ当局、大地震の死者7万人を埋葬 20万人死亡説も」(CNN.co.jp)

ポルトープランス(CNN) カリブ海のハイチでマグニチュード(M)7.0の地震が発生してから、19日で1週間を迎えた。当局はこれまでに7万人の遺体を埋葬したが、推定死者数の約3分の1との見方も出ている。 (link)

義援金に関する情報を以下に羅列しておく。

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「ハイチ大地震被害の救援金を受付けます」 (日本赤十字社)

被災地における救援活動等を支援するため、皆様からの救援金を受付けています。
振込口座などは下記のとおりです(link)


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「ハイチ地震救援金」 (Yahoo!ボランティア)

2010年1月12日の現地時間午後5時(日本時間13日午前7時)頃、カリブ海地域のハイチ(人口1,000万人)で、マグニチュード7.0の大地震が発生しました。
現地政府からは まだ詳細な被害状況についての発表はありませんが、同国首相は10万人以上が死亡したとの見解を表明しています。(link)


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「ハイチ地震の被災地で緊急援助活動を展開しています」 (国境なき医師団)

現地時間1月12日午後、マグニチュード7.0の地震が、首都ポルトープランス近郊を震源に発生しました。現地で活動中の国境なき医師団(MSF)は医療体制を増強し、緊急援助を展開しています。(link)

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「ハイチ地震:最新情報・現地からの写真と緊急募金のお願い」 (国連世界食糧計画)

中南米の国ハイチで12日(現地時間)、マグニチュード7の地震が発生し、首都ポルトープランスの周辺では人々が家を失うなど被害が拡大しています。今回の地震は、過去200年間のハイチの歴史上最も規模の大きいものと言われており、WFPは緊急食糧支援を開始しました。(link)

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haiti_earthquake20.jpg

報道によると、アメリカの赤十字では携帯メールで募金ができるらしい。日本でも同様の仕組みができれば利便性がぐんと高まると思うのだけれど。

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「米赤十字の携帯メール募金、19億円を突破 ハイチ地震」 (CNN.co.jp)

米赤十字社は18日、携帯メールを通じて寄せられたハイチ地震被災者支援の募金総額が2100万ドル(約19億円)を突破したと発表した。 (link)

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ハイチ、これからどうなってしまうのだろう。

関連記事: 『利権闘争とアメリカ ハイチの混乱』 (link)
posted by Ken-U at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月14日

「空気人形」 ガラス玉の心、きらきらして

是枝裕和監督 『空気人形』 (シネマライズ渋谷)

こころをもってしまった。

kuki-ningyo.jpg生命の宿った空気人形が、ひとり窓辺にたたずみ、垂れるしずくを手に受けて、きれい、とつぶやく。たしかに、ぽつりと垂れるしずくは綺麗にみえる。でもあのとき、窓の向こうに広がる世界は彼女の瞳にどう映っていただろう。

この世界は代用品で溢れている。豊かさのため、この世に送り出される無数の代用品群は、それらを求める人々と出会い、使い古されて、最後はゴミとなり果て捨て去られる。もちろん、女の代用品である空気人形もその例外ではない。心を持ち、揺らし、恋をして、嘘をつき、信じ、裏切られて。でも、この残酷な運命から逃れることはできないのだ。

とはいえ、代用品ではない存在なんて、この世にどれほどあるのだろう。彼らが言うように、みな中身は空っぽなのかもしれない。外側ばかりで、中は虚しいのだ。では、虚しさの中に心はあるのだろうか。それはどこから来て、どこへ消え去ってゆくのだろう。そして生命は。誰も、なにもわからない。

海辺で、ラムネの瓶を拾い上げて、ビー玉をからから鳴らす様子が綺麗だった。瓶は、太陽の光を浴びてきらきら輝いていた。星を見上げた。バイクで走り回った。船で川を下った。欄干の人たちに手を振った。映画のことを憶えた。それがすべて。でもひょっとすると、それで十分なのかもしれない。

少し不思議な色合いをしていたけれど、描かれている世界は確かにこの世と地続きだと思った。ファンタジーのようで、でもどこか妙な現実味があり、眺めていて、切なくなる。ぺ・ドゥナが綺麗だった。思ったよりも肉感的で、少しどぎまぎして、官能と、哀しみと、フェティシズムと、そしてあの空気をめぐる交感シーンに痺れた。

たぶん人は、あのラムネの瓶のような存在なのだろう。空っぽで、でも光を浴びるときらきらして。そしてガラス玉の心を揺らし、その響きがほかの誰かを魅了するのだ。そしてその響きのつらなりが、音楽になる。
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2010年01月10日

「最後に見た風景」 屍とエロス、モードとのつながり

伊島薫 写真展 『最後に見た風景 - Landscapes with a Corpse』 (BLD Gallery)

izima_kaoru00.jpg不思議なもので、被写体が死体を演じているというだけなのに、モード写真が持つ艶かしさがさらに際立ってみえてくる。

最新のモードを身につけ、床に、路上に、あるいは草原の上に横たわる女たち。眼は見開かれているけれど、その瞳は虚ろ。やはり、この生気のない瞳がよいのだろう。あと、だらりと弛緩した肢体。魂の抜けた肉体に宿る悪魔的な魅力。モノである人形にはどこか得体の知れない恐さが感じられるけれど、その恐さが生身の肉体の上に宿っている、という印象。人形と人間の中間を漂う擬似死体という魔物とエロス、そしてモード。それらになにかしらの繋がりはあるのだろうか。

「連続女優殺人事件」という連載があったことは、なんとなく憶えている。そのうちいくつかの作品は、当時、立ち読みで見た。とまあ、当時はそれほど熱心なわけでもなかったのだけれど、今こうして眺め直してみると、素直によい企画だと思える。モードとエロス、その繋がりについて想像を膨らませてみたい。
posted by Ken-U at 19:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月09日

「扉をたたく人」 合理が生む不合理、分断への怒り

トーマス・マッカーシー監督 『扉をたたく人』 (下高井戸シネマ)

原題:『the Visitor』

歳をとり、妻に先立たれて、殻に閉じ籠もるように日々をやり過ごしていた男が、思わぬ出会いをきっかけに心を開き、殻から足を踏み出す。

the_visitor00.jpg過去の講義資料を使いまわすために、大学教授である男が書類の日付を修正液で塗り消すショットであるとか、細部の描写にそつがなく、又、それぞれの俳優も味わい深い演技をしていて、配役も絶妙で、役者とその演技を軸とした、地味だけれども繊細に作り込まれた良作だと思った。

ジャンベに限らず、太鼓の音が好きだ。だから、男がジャンベの音に魅了され、心を開き、その響きに導かれるようにこの世界と繋がり直すという話の筋には素直に魅力を感じた。たしかに、グルーヴは人の心を繋ぐ。がしかし、忘れてならないのは、高度な世界はグルーヴなるものを必要とはしないという残酷な事実で、だから男は大切な友人たちとの繋がりを断ち切られてしまうのだ。彼にはそこに不合理を感じ、憤る。が、高度な世界にしてみれば、それは合理性追求の結果に過ぎない。だからこの世界は、この場合、不法移民収容施設の係員を窓口として、その冷酷な現実を彼に伝えるのだ。

この世は捻じれ、歪んでいる。そしてその歪みはしばしば罪なき人の足をすくい、疎外し、あるいは人と人との繋がりを断ち切ってしまうのだ。あの施設の街は殺伐としていた。係員はアフリカ系ばかりだった。ふと、ヒースロー空港のセキュリティ・チェックの係員が中東系とアフリカ系ばかりだったことを思い出した。理由はよくわからないけれど、きっとその方が合理的なのだろう。この世の正義である合理性の追求。その正義が生み出す不合理に直面すると腹立たしくなり、無性にジャンベを叩きたくなってしまうのだけれども、彼は、あのあとジャンベをどうしたのだろう。それでもジャンベと、それを通じて出会った人々の記憶は彼の人生を豊かなものにするに違いない。
posted by Ken-U at 23:27| Comment(3) | TrackBack(1) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月07日

「権現の踊り子」 この世の歪みに足を取られて

町田康著 『権現の踊り子』 (講談社文庫)

短編集。表題作を含め、七編。

gongen.jpgこの世のゆがみに足を取られ、男は七転八倒する。もがき、苦しむ。なぜ俺ばかりが。当て所なき問いを呪詛の如く繰り返すうちに曇天、意識が遠のいてゆく。

話の筋が荒唐無稽で、そのうえ超現実的な場面に度たび出くわすにもかかわらず、ふと気づくと小説の中の男たちに我が身を重ねている。滑稽でありながら、悲惨で、切なくなるというか、この世に生きることの泣き笑いが複雑に交差しながら脳内をめぐる。

とくに印象に残っている場面は、「工夫の減さん」の中で、白昼、二日酔いの男が布団に包まりもぞもぞするところで、どんな体勢をとろうが己の苦しみを取り払えるわけでもないのに、その呪わしい現実から目を逸らせて気を紛らわそうと、ああでもない、こうでもない、と寝返りのたうちまわるのだけれども、その男の無様で滑稽な様子に己の生き様を見た。

町田康の小説を読むたびに、この世が滑稽で哀しい成り立ちをしていることを再発見する。追い討ちをかけるように、たしかにこんなんだよなあ、と思う。で、しばらくするとまた次を読みたくなるのだ。わたしは彼の小説にいったいなにを求めているのだろう。
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2010年01月03日

初詣

また年が明けた。

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昼すぎ、ふと思い立って、うちから少し離れたうどん屋へ向かう。で、かき揚げうどんと京いなりのランチセットを注文。店が混んでいたせいか待たされたが、満腹になり満足する。

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店を出ると曇天。徒歩にて神社まで。人出は少ないが、絶えることはない。社殿までのぼり、無心で祈る。

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次、うちの近くまで戻り、寺へ。まず本堂を参る。

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続いて聖徳太子が祀られる御堂を参る。

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御堂からあたりを見渡す。向こうにみえる墓地は、放浪記で、夜中、林芙美子がさまよったあの墓地である。当時、彼女はその裏手にある長屋に住んでいたのだという。

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少し歩いてまた神社へ。ここには町の鎮守が祀られている。賽銭をいれ、手を合わせる。

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また歩く。門であるようなないような境を抜ける。

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ひっそりと佇む御不動様を参る。寂れている。周囲に人なし。

例年の如く、神社、寺社それぞれ二箇所、計四箇所を巡った。おそらく、今年は変化の年になるだろう。人生、いろいろあるけれど、これから訪れるであろう変化を善きものとしたい。
posted by Ken-U at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常のひとコマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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