
多くのヤブユム像があった。方便(慈悲)の象徴である男尊(父)と、空の智慧(般若)の象徴である女尊(母)の交わりがかたちづくられているそれらの像には、首にいくつもの頭をつけ、肩から無数の手を伸ばしているものもあって、そのどれもが黄金色にきらきらして眩かった。厳かでありながらきらびやかな、そして淫靡な神々の姿。解説によると、それらの合一像にはある種の永遠性が籠められているといい、その無数の頭と手は、苦しむ人々を救うためにあるのだという。
そして驚くほど多くの神々が、髑髏のついた冠、首飾りを身につけ、あるいは髑髏の杖を持ち、鋭く邪鬼に睨みを利かせていて、それが不思議なことに、その髑髏の不気味さが神々の聖性をさらに際立たせているように感じられた。ここで髑髏は不浄の象徴とされていて、つまり、これら無数の髑髏を通して、悟りのためには不浄のものが必要である、という仏教の奥深さが表されているらしいのだけれど、しかしなぜだろう、この髑髏の装飾にはまだ深い謎が隠されているように思えてしまう。髑髏とはなにか。なぜ、髑髏を身につけるのだろうか。
仏性とは、なんて複雑で多義的な成り立ちをしているのだろう。かたちづくられる神仏の風貌やその姿勢、あるいは身体の前で結ばれた印など、それらの意味を想像すると果てしがない。無限にイメージが膨らんでゆく。