2008年08月10日

「狩猟と編み籠」 視覚的音楽としての映画、その洞窟性

中沢新一著 『狩猟と編み籠 対称性人類学2』 (講談社)

『高度の(最高の?)段階にある対位法は、その基本的特徴において、人間活動の最も原始的な段階に存在した二つの本能的原理を反復しているように、私には思われる。(中略)
 私の念頭にあるのは、きわめて原始的な二つの人間活動―つまり、狩猟の仕事と編み籠の技能―である』(S.エイゼンシュテイン著「無関心な自然でなく」p.56-57)


die_jagd_und_ein_gewebter_korb01.jpg中沢さんの新著の題材が映画であると知ったときは、少し意外な感じがした。けれど、ふと思うと、コアな映画ファンが劇場に執着する(映画は暗闇の中、スクリーンを通して観る必要があると考える)ことからもわかるように、映画の構造は古代の洞窟における儀礼に通じるところがあり、だとすれば、中沢さんが映画論を執筆してもなんの不思議もない。実際、本書の大半はこの映画の「洞窟性」に関する叙述が占めている。現生人類が暗闇の中で心の奥底に触れるための儀式を執り行っていた十万年以上の昔、すでに近代における映画の出現が予言されていた、と彼はいうのだ。

中沢氏は、人間が生み出すイメージを以下の3群に分けている。

第1群:流動的知性に触れる抽象的イメージ。
第2群:「イメージ第1群」が物質と触れることで生み出される具象的な像。
第3群:複数の具象的な像が水平的に結びつくことで生み出されるイメージ群。物語を生む

これら三つのイメージは、ともに古代の洞窟に描かれた絵画の中に見出すことができるが、同様に、近代の映画の中にも存在する。と、中沢氏は指摘する。

また、映画史の中で、こうした映画の「洞窟性」に最初に着目したのはセルゲイ・エイゼンシュテインであるといい、上に引用した彼の言葉が紹介される。さらに、ショットとして切り取られたイメージの断片を「モンタージュ」的に構成することで視覚的音楽の流れをつくりだす、というエイゼンシュテインの言葉がいくつか紹介されている。その一部を以下に引用する。

『厳密にいうと、純粋に造形的見地からすれば、あらゆるショットの表面全体は、いかなるものであれ、独自の音調的あるいは色彩的「風景」である。しかしその理由は、ショットが描写している内容にはなく、モンタージュ断片群の連続的流れの内部で全体として知覚されるショットが担うべき情緒的感覚にある。(前掲書p.174)』

たしかに、優れた映画を観ていると、ショットのひとつひとつやその流れから様々な情感が湧きあがってくるし、その情感はしばしば描かれるショットの表層を超え、その内部、あるいはその底部を突き抜けてあらぬ方向へと流れ、膨らんでいく。だからよい映画は対位法的な構造をしているのだろうし、その視覚的音楽の響きにわたしの心が共鳴するとき、深い感動が得られるのだ。

映画とは音楽である。と考えるときに思い浮かぶのは、『アワーミュージック』(過去記事)という映画のタイトルである。本書を読み進めつつ、そのうちこのゴダール作品を再見して、『戦艦ポチョムキン』にも挑もうと思った。本書を通して、自分の脳内で、映画と音楽、そしていま少しずつ読み進めている『神曲』やあるいは貨幣、贈与、精霊などの多種多様なイメージが繋がり、そしてある種の旋律が奏でられた。この本もまた音楽的であるなあ、と感じた。


posted by Ken-U at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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