2008年08月15日

「浄土」 穢れ者、浄土に焦れる

町田康著 『浄土』 (講談社文庫)

穢土に身を置き、浄土を想う。

jodo01.jpg人生は滑稽で、同時に哀しくもある。そんなこの世の在り方を、町田康は細部の積み重ねにより見事な小説に仕立て上げる。でもこの作品の場合、『パンク侍…』(過去記事)や『告白』(過去記事)にくらべると哀しみがやや後退しているせいか、描かれている作品世界がより殺伐として感じられる。それは本作の舞台のほとんどが現代の都市であることと関係があるのだろうか。時代劇とは違って、作品世界がより身近に感じられるだけに、私がいま抱える殺伐とした感覚がこの小説群に重なって感じられるのかもしれない。

冒頭の「犬死」から引き込まれる。毎日、碌なことがない。碌なことがない中、男はジョワンナ先生の存在を知る。抑鬱的で滅入る心。気分は下降線をたどる一方である。がしかし、こうして落ち込めば落ち込むほど、心の中のジョワンナ先生が膨らんでしまう。気分がたどる下降線と反比例するように、ジョワンナ先生に会いたいという気持ちが上昇していくのだ。というか、もう会わなければ救いがない、というところまで男は追い込まれてゆく。

ここで巧いなあと思うのは、男の気分の落ち込みと株価の暴落が見事に重なるところ。読んでいて、ああもうすべてが破滅に向かっている、という気分にさせられる。というか、日常の隙間の中で私自身が覚える破滅感が思い出され、この文章の流れに重なり、大きな流れとなって心の中で濁流と化すのである。

たしかに、碌なことはない。終末を感じることもしばしばである。しかし、それでも朝が来れば顔を洗い、糞を垂れ、身支度をして足早に地下鉄の駅へと向かうのだ。娑婆ではもう糞まみれである。しかも、来る日も来る日もどぶさらえをしている。もう辟易する。そして帰宅後、シャワーで全身の糞を洗い流し、飯を食らい、眠り、また起きあがって、糞をたれ糞まみれになりながらさらにどぶさらいの毎日を続けるのだ。この糞まみれは死ぬまで続く。こうなったらもうやけ糞、糞食らえである。
posted by Ken-U at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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