2009年05月05日

「チェンジリング」 絶望の中、微かに残された希望

クリント・イーストウッド監督 『チェンジリング』 (渋東シネタワー)

原題: 『CHANGELING』

警察の知らせを受け取ると、女は安堵した。行方不明だったひとり息子が無事保護されたというのだ。が、再会の日、彼女は愕然とする。眼前に現れた少年は彼女の息子ではない。見知らぬ赤の他人だったのだ。女は狼狽し警察に訴えるが、男たちはそれを棄却する。

changeling01.jpg1920年代のLAの景色を借りながら、この世の在り様が凝縮されて描かれている。残酷な世界。この世は残虐な者、冷酷な者たちで溢れかえっている。我々が引き起こす暴力の渦はあらゆるものを引き裂きながら膨張を続け、いまでは我々自身の意識をも混乱に陥れている。光と闇が複雑に交差するこの世界の中では、善人、悪人の区別でさえ判然としない。

例えば、作中で最も悪い人間であるはずの無差別殺人犯‐おそらく彼は多くの少年たちを殺害している‐ですら、どこか被害者の如くみえてしまう。法廷で、あるいは執行台の上で曝け出される彼の無様な姿の中に、かつて彼が負ったであろう心の傷跡が垣間見えてしまうのだ。その執行台で、彼は正義の名のもとに殺されなければならないのだが、しかしその殺人の様子から正義、善を見出すことは難しい。つまり、人殺しは人殺しに過ぎないのだ。しかし正義の名のもとに遂行される暴力、殺人行為はやはり善と呼ぶべきなのだろうか。

又、最も善き人間であるはずの牧師‐彼は警察と戦うために女を援護する‐にしても、最後、悪人たちが裁かれるとき、つまり彼自身の正義が果たされるときに、悪人と同様の言葉を女に吐く。彼女に対して、もう息子のことは諦めろと諭すのだ。ここで彼の正義と女の心の間にすれ違いが生じる。この時、彼女は彼の助言を受け入れようとはせずに、独りで自身の人生を歩む道を選ぶ。何故なら、彼女は正義のために行動したのではなく、彼女のたったひとりの家族、かけがえのない息子を取り戻そうとしたに過ぎないからだ。おそらく、その死の証拠がみつからない限り、彼女は息子がどこかで生きていることを信じ、いつまでも彼を探し続けるだろう。

その息子は彼女にとって未来そのものであり、希望なのだ。絶望的にみえるこの暴力の世界においても、その希望は微かに残されている。それは諦めない限りどこかに存在し続けている。希望とは意思であり、その意志により未来はつくられるのだ。
posted by Ken-U at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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