
河野は大学講師をしながら、妻の名義でバーの経営を手掛けている。銀座のバーを切り盛りしているのは三保、河野の妾である。しかし戦後開いた銀座の店は老朽化が進み、時代の流れに沿わなくなったため、河野はこれを担保に入れて新たな店を出すことにする。妻の綾子は、新宿に開く新しい店のマダムにルリ子を指名する。新しい店には若い娘の方が合うのだという建前からそうしたのだが、三保はその事実を知り、心を乱す。
銀座の店をめぐって、そして河野の子供たちをも巻き込みながら、妻と妾は互いを責め、諍いを続ける。しかし、このふたりはどちらも被害者である。この悲劇の責任は夫にあるのだから。女を妻と妾に引き裂くのは男である。しかし河野は体面ばかりを気にしながらおろおろとするばかりで、この諍いの責任を引き受けようとはしない。
ワタシはただワタシのために生きる。近代が生み出した利己的な価値観は男だけのものにはならず、女や子供たちにも浸透していく。そして女は男の偽善を暴き、子供は家から逃げ出していく。父権的共同体は、やがて抜け殻に成り果てる。偽装された共同体は自ら滅びていくのだ。
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やはり、成瀬作品には高峰秀子だと思った(司葉子も素晴らしいが)。妻を演じる淡島千景もさすがだと感じた。成瀬巳喜男は女性を撮るというけれども、しかし、成瀬が撮っているのはやはり男なのだと思う。女性の視点を借りながら、父権的な近代社会の偽善を撮り続けたのではないだろうか。近代は自然を殺し、女を排除する。成瀬は被害者の立場から、偽装社会に光を当てたのだろう。社会の西欧化が加速するに連れ、成瀬作品に込められる厳しさが増し、悲劇的なラストで結ばれるようになるのも、社会の変容と共に、成瀬自身が抱える怒りや絶望が増したからなのではないだろうか。
「近代は自然を殺し、女を排除する」というのは、どういうことでしょうか?
もっと聞きたいです。
オープニングから踏み切りのショットで始まります。終盤にも踏み切りは出てくるんですが、成瀬監督はこの踏み切りや線路、電車をよくつかいますね。
ご指摘の言葉は最後に付け足したんですが、近代は世界の非対称を進めるといった意味合いです。女性はその犠牲になったという側面があると。まあ軽く読み流してくださいw
世間の常識・良識の代表(?)のようなおばあちゃんの存在が痛かったです。三保のことを思っていながら、思っているからこそ、三保を追い詰める感じが。。。
たしかに、あのおばあさんの存在は三保を追い詰め、苦しめてしまいますね。彼女はよかれと思ってやってるだけに、見ていて辛いものがあります。