水彩、デカルコマニーなど瀧口修造の作品群、約30点を展示。

最初は、展示されている画がどのように作られたのかよく解っていなかったのだけれど、それがデカルコマニーであることを知り、デカルコマニー?ってネットで調べて、なるほどそうかと了解した。デカルコマニーの魅力は、画があたかも自律的に運動しているように感じられる、というか実際そうなのだけれど、その湧き立つ感じがよいのだろう。瀧口修造のようなシュールレアリストは、この偶発の色彩を人間の無意識と繋げ、芸術の領域に押し上げようとしたのだと思う。瀧口修造の詩作にオートマティスムがつかわれたのも、これと同じ理由によるのだろう。
後日、詩の朗読会にも参加した。朗読会は初めての経験だったので、立ち振る舞い方がわからず、というかあくまでも聞き手なのでなにもしないでよいのだけれど、聴くときの態度など周囲の人たちの様子を眺めたりで集中力に欠いた。かといって、目を閉じることもできなかった。あと、詩を読む人というと、私の乏しいイメージとして、パティ・スミスであるとかニック・ケイヴあたりが思い浮かぶのだけれども、朗読家の岡安さんの声はそれとはまったく違っていてとても上品なトーンだった。
瀧口修造の時代に較べると、現在の精神分析、脳科学は相当に進歩しているのではないかと思う。とくに人間の無意識の捉え方などはこの十数年で大きく変化したのではないだろうか。という意味で、現在の脳科学に根ざした新たなシュールレアリズムが生まれるとしたら、それはどのようなアプローチをとるのか、みたいなことに興味を持った。芸術にとって、人間の無意識はいまでも大きなテーマであるはずだ思う。