2009年09月06日

「それでも恋するバルセロナ」 満たされぬ欲望、アメリカ

ウディ・アレン監督 『それでも恋するバルセロナ』 (ル・シネマ)

原題:『VICKY CRISTINA BARCELONA』

ふたりはバルセロナに旅立つ。そして出会う。

vicky_cristina_barcelona03.jpgアメリカに対する強い皮肉を感じる作品だった。今に満足できないアメリカ女がふたり、ひとりは足りないもの探しに積極的、もうひとりは消極的な態度をとり続けるのだけれど、そのふたりがバルセロナで芸術家と出会い、恋をして、で、その恋心を捨て去るまでの過程が喜劇的に描かれている。

強欲のアメリカ。クリスティナがあのふたりに別れを告げたときに、ペネロペ・クルス扮するマリアが彼女を罵倒するのだけれど、なぜかその態度、言葉に共鳴した。たしかに、マリアとアントニオはクリスティナに多くのものを与えていた。その最大の贈り物はやはり愛なのだと思う。クリスティナはその愛を全身に浴び、彼らとの暮らしを謳歌していたはずなのだけれど、ふと心変わりをして、ふたりのもとを離れることを決意したのだ。その理由はよくわからないけれど、思うに、彼女はもっと確かなものが欲しかったのかもしれない。心が満たされていたとしても、その暮らしがふたりの(気まぐれな?)芸術家に支えられていたとしたら、そしてその暮らしが彼女の知る秩序の外に位置していたのだとしたら、おそらく、彼女はその満ちた世界が孕む不確実性にどこか不安を覚えていたのだと思える。あるいは、彼女はふたりの愛をすでに消費し尽していたのかもしれない。とにかく、クリスティナはそこを離れることにしたのだ。彼女は盗人であり、裏切り者なのである。

創造する者は、奪われ、その挙句に狂人扱いされなければならないのだろうか。バルセロナの休日は、アメリカ女たちの心の中にいったいなにを残したのだろう。非日常を消費し、再び日常に帰る者、あらたな非日常を求めて旅立つ者。いろいろあるのだろうが、どちらにしても、彼女たちの心がアメリカから離れることはないのだろう。あのラスト、彼女たちの姿は囚われ者のようにみえた。その行く末に自由はあるだろうか。幸福はあるのだろうか。
posted by Ken-U at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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