2006年02月13日

棄民の歴史と現状 ドミニカの場合

NNNドキュメント『楽園は 何処に… 祖国を訴えた日本人』

戦後、ドミニカ共和国に棄てられた日本人は1,319人にのぼる。その経緯と現状、行政を相手に起こされた訴訟の様子などにカメラが向けられる。

dominica01.jpg戦後の復興期、植民地からの引き揚げやベビーブームなどによる人口増加は政府の懸案事項であった。これを解消するため、政府は移民政策を推進する。

1956年、ドミニカ共和国への農業開拓移民が募集される。その際、農地300タレア(18ヘクタール)の無償譲渡という好条件が提示されたこともあって、多くの人々がこれに応じた。1959年までの3年間に249家族、1,319人の日本人がドミニカへと渡った。番組では、その移民のひとりである山本福槌さんとその家族を取材している。

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政府の約束は果たされなかった。山本さんとその家族は入植地であるダリボン(ハイチとの国境地域の町)に着いたが、約束されたはずの土地は80タレアのみしか与えられず、現地の植民法を理由に譲渡も拒否された。しかも土地には水が引かれておらず、水田をつくることは不可能であった。そのため、山本さんは国際協力機構(JICA)に借金をし、別の土地を購入した(しかし法的には登記されていない)。

他の入植者たちも同じような境遇に立たされていた。与えられた土地は約束の半分以下で、そのうえ塩が吹き、無数の石が転がるような場所であった。窮状を大使館に訴えても聴き入れられることはなかった。ある役人は、3年経てば石も砕けて肥料になると言い放った。追い込まれた移民の多くはその土地を去っていく。その行き先は日本や南米など様々だった。中には絶望のあまり自殺する人もいたという。当初の249家族は、6年後に49家族にまで減少した。

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現地にもカメラが入り、その様子を記録していた。入植以来、約40年間は電気もない生活を送っていたという。山本さんがJICAから借りた金額は24,000ドル。当時は11万ペソだったものが、ペソの暴落によって80万ペソにまで膨れあがった。JICAの督促は現在も続いている。

その暮らしを助けるため、山本さんの孫が日本に出稼ぎに来ていた。神奈川の自動車部品製造工場で時給1,200円の仕事に就き、ドミニカへ毎月10万円を送金していた。しかし孤独に耐えられなくなった彼は、その後ドミニカへと帰国してしまう。

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2000年、ドミニカ移民は政府を相手に訴訟を起こすが、外務省との主張は真っ向から対立している。2004年には小泉首相が非を認めたものの、外務省はその発言を否定している。その間、裁判は遅々として進まず、この5年間に15人の移民がこの世を去ってしまった。山本福槌さんもそのひとりである。判決はこの春に言い渡される。


posted by Ken-U at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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