こころをもってしまった。

この世界は代用品で溢れている。豊かさのため、この世に送り出される無数の代用品群は、それらを求める人々と出会い、使い古されて、最後はゴミとなり果て捨て去られる。もちろん、女の代用品である空気人形もその例外ではない。心を持ち、揺らし、恋をして、嘘をつき、信じ、裏切られて。でも、この残酷な運命から逃れることはできないのだ。
とはいえ、代用品ではない存在なんて、この世にどれほどあるのだろう。彼らが言うように、みな中身は空っぽなのかもしれない。外側ばかりで、中は虚しいのだ。では、虚しさの中に心はあるのだろうか。それはどこから来て、どこへ消え去ってゆくのだろう。そして生命は。誰も、なにもわからない。
海辺で、ラムネの瓶を拾い上げて、ビー玉をからから鳴らす様子が綺麗だった。瓶は、太陽の光を浴びてきらきら輝いていた。星を見上げた。バイクで走り回った。船で川を下った。欄干の人たちに手を振った。映画のことを憶えた。それがすべて。でもひょっとすると、それで十分なのかもしれない。
少し不思議な色合いをしていたけれど、描かれている世界は確かにこの世と地続きだと思った。ファンタジーのようで、でもどこか妙な現実味があり、眺めていて、切なくなる。ぺ・ドゥナが綺麗だった。思ったよりも肉感的で、少しどぎまぎして、官能と、哀しみと、フェティシズムと、そしてあの空気をめぐる交感シーンに痺れた。
たぶん人は、あのラムネの瓶のような存在なのだろう。空っぽで、でも光を浴びるときらきらして。そしてガラス玉の心を揺らし、その響きがほかの誰かを魅了するのだ。そしてその響きのつらなりが、音楽になる。
監督が語るところによると、人形がゴミ捨て場に横たわっているラストで、
ラムネの瓶が並んでいるのは、バースデイケーキのろうそくを
(りんごはバースデイケーキのイチゴを)重ね合わせたとのことです。
丸く並んでいなかったので、私はスクリーンで見たときにそれに
気づかなかったのですが…ともあれ、このラストは印象深いものでしたね。
これまで人形は何も食べられなかったのに、食べ物を口にしたところは、
人形が人間になったことを意図しているのだと思います。
ほか、ラムネの瓶のビー玉の音と、風鈴の音が呼応していたりと、
脚本そのものは理知的なものなのですが、それに血を通わせたのは、
やはりペ・ドゥナの演技によるものなのでしょうね。
ああ、そうえいば、ラムネの瓶が並んでいたような気がします。ラムネの描写をめぐる諸々については上の文章を起こしているときにふと思いついたので、ラストのラムネのことはすっかり忘れてました。もし、あそこでラムネ瓶がろうそくに見立てられているのだとしたら、今、僕はラムネ瓶に人間の在り方を重ねてみる立場なので、そこで人間の命とろうそくが繋がり、その生命の儚さがより際立って感じられてしまいます。で、ビー玉の音と最初の風鈴の音が呼応しているとなると...なんだか、身悶えしそうな表現の重ね方ですね。
僕もあの「つくりもの」的な東京の描写が妙に生々しく感じられました。人形と、自分の存在と、どう違うのだろう。とか、いろいろと考えさせられます。先日、公式サイトで製作日記を読んでいて、リハーサルでぺ・ドゥナが泣いてばかりいたという事実を知り、彼女もいろいろ感じることがあったんだなあ、などと考えるうちにまたぐっときてしまいました。ほんと、この作品は素晴らしくよいし、ぺ・ドゥナがその出来栄えに大きく貢献しているのは間違いありません。丞相さんが本作をベストに選んだのもよくわかります。
丞相さんのおかげで、作品に対する理解が進みました。いつもありがとうございます。りんごの扱いも含め、それらを念頭に入れながら本作を再見したいと思います。