長屋という言葉の響きには不思議な魅力がある。ぼくは今でこそ低層マンション暮らしをしているけれど、将来、結婚できない駄目人間が集う長屋を建設する計画があるので、そこにぼく自身も入居しようかと考えている。ぼくはこの計画を、10年以上前から周囲に吹きまわっているのだけど、年を重ねるごとに賛同者は増える一方である。世の中、それでいいのだろうか。

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戦(いくさ)のない平時に生まれた武士たちは、仇討ちというフィクションを拠りどころとして暴力の連鎖を生み出そうとする。彼らはそれ以外に生み出せるものがないのだ。その一方で、長屋で暮らす人々は、自らの手を汚しながら食い扶持を稼ぎ、その日その日をどうにか生き延びている。彼らは糞を肥にして商売することも厭わない。
武士が生きるフィクショナルな世界と、長屋の住人が生きるリアルな世界が対比されながら、宗左衛門の復讐をめぐる物語が軽快に紡がれている。宗左衛門は、そのふたつの世界を行き来しながら自らの気持ちを少しずつ変化させる。武士道というフィクションが彼の心の中で解体されていくのだ。そしてついに丸腰になった宗左衛門は、剣の代わりに筆を執り、フィクションを乗り越えるための新たな物語を綴る。彼は武士の呪縛から解放され、筆の力で生き直そうと決意するのだ。
と、ここまで書いたところで思いついたことがある。これは是枝監督の自伝のような作品なのではないだろうか。第二次大戦中、是枝氏の父親は兵役についており、戦後、彼自身も自衛隊官舎で育ったという話を以前TVで観た記憶がある。とすると、この作品で描かれている、存続すら危うい長屋とは日本映画界のことであり、筆はカメラということになるのだろう。彼はこの作品を通して、映像作家としての決意表明をしようとしたのかもしれない。
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宗左衛門の物語に寄り添うように描かれていた、そで吉とおりょうの物語が心に沁みた。このふたりの物語からは、前作『誰も知らない』と通じるものが感じられた。あの作品の続編的な要素が込められていたような気がする。
大予算をもってつくられた商品として成功しているかどうかは別として、ぼくはこの娯楽劇を楽しんで鑑賞することができた。これからも、是枝作品をフォローしていきたいと思う。
(関連記事:「忘却」 社会の外側へ消し去られるもの/2005/05/06)