2006年08月05日

「エロスの涙」 われらの狂気を生き延びるためには

ジョルジュ・バタイユ著『エロスの涙』

ここ最近、この世界のあり様をぼんやりと眺めている時に、人間の心が抱える”過剰なもの”について考えをめぐらすことが多くなった。社会が閉塞感に覆われ、そこに暮らす人々の心が抑圧的な方向に大きく傾く時には、その心の奥底に閉じ込められようとするある種の”激しさ”が、人々の意識とは別のかたちで、とても醜い姿となり果てて剥き出しにされるものなのかもしれない。人間は、自身が抱える悪魔とどう対峙し、付き合っていけばいいのだろうか。

les_labmes_d'eros.jpgエロティシズムと涙を繋ぐもの。それは、人間の心の奥底から溢れ出るある種の”激しさ”である、とバタイユは言う。人間を”小さな死”へと駆り立てるエロティシズムと、究極の死に対する戦慄によって流される涙は、互いに混ざり合い、一体となって、人間が人間であるための根源的な部分、つまり、悪魔的な領域を露わにする。

本書は、バタイユが綴る文章と、その内容に沿った多くの図版によって構成されている。その前半、多くのページを割かれているのは、ラスコーの洞窟に描かれた壁画に関する叙述である。その洞窟の最も奥深い闇の中に描かれているのは、ペニスを勃起させたまま死亡し、横たわっているひとりの男と、そのすぐ傍に立つ、裂けた腹から内臓を垂れ下げた野牛の姿であった。バタイユは、野牛と男が死の近接の中で結び合わされている原初の芸術の中から、死とエロティシズムの合致を見い出すのだった。他の動物とは異なり、自らが死ぬであろうことを認識する人間は、その心の根源的な部分に、死の暗闇に対する畏怖の念と、そこから溢れ出る悪魔的な感情を抱えてしまう。現生人類の祖先は、その根源的な心の動きを抽象的な絵画に表し、そして洞窟の暗闇の中に隠したのだ。

*****

以降、国家と戦争の誕生や、キリスト教による断罪などによって、人間とエロティシズムの関係は大きく変化し、そして現代に至る。バタイユは、その変遷を辿りながら、それでも変わることのない人間の本性について、とめどなく溢れ続けるエロティシズムについて、その荒々しさと結びつくサディズムについて、そして究極の死がもたらす苦痛と恍惚について、その究極の姿を中国の「百刻みの刑」の受刑者に求めながら、人間の抱える悪魔的な心の闇の存在を、この世界に強く訴えかけようとしている。

確かに、阿片による恍惚の中で身を切り刻まれる受刑者や、羽毛や羊の血にまみれながら宗教的恍惚に浸るブードゥー教の信者の姿からは強い印象を受ける。さらに、その後に掲載されている2枚の図版がぼくにはとても印象深く感じられた。

「恐怖の伝統」と題された図版の1枚目は、アステカ族の人間の供犠を描いたもので、生贄となった人間の体を数人の男たちが押さえつけ、その胸を切り裂く様子が描写されている。その次に、”アステカ族の供犠の後では、<征服>による暴行”とコメントが加えられた、侵略者による殺戮の様子を描いた挿絵が載せられている。この2枚の絵を眺めながら、野蛮を排除するための野蛮について、様々な想いが頭の中をめぐった。

(関連記事:その図版の一部/2006/08/07)
posted by Ken-U at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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