2005年02月10日

「悪党的思考」 悪党的感性の魅力

中沢新一著『悪党的思考』 (平凡社ライブラリー)

akutou.jpg本書は、後醍醐天皇による建武の新政を切り口にしながら、中世以降の王権が抱えていた権力の二重性を指摘し、表舞台からは見えることのない裏側の世界と結びつこうとする魔術王としての天皇の姿を描いている。その裏側の世界とは、いわゆる悪党的世界を指す。そしてこの建武の新政を臨界点として、日本の権力空間が大きく変化したのだという。

では悪党、悪党的人々とはどのような存在なのか。具体的な例をあげると、供御人、山の民、川の民、海の民、商人、密教僧...彼らは流動的な「なめらかな空間」に生きる人々だ。ピュシス(自然)の力と直接関わる境界的存在。それは職人的人々とも表現できる。この「悪党的なるもの」についてさらに引用すると、

「職人」に分類された人々のおこなっていた「技芸」のおおくに共通するものをさぐってみると、それが自然のプロセスとのあいだにつくりあげる特殊な関係に、つながりがあるのではないか、ということが見えてくる。職人のなかには、海や山にすむ動物たちをとっては殺したり、そのからだから肉や毛皮をとることを職業とする人々がいる。そういう職人たちは、とうぜんのことながら、動物の体内から流れでる血と触れあわなければならない。いや、もっと正確なことをいうと、彼らの「技芸」は動物たちのからだから自然(ピュシス)の力を、カタストロフ的にあふれださせ、その力をこの世界のなかにむきだしにすることをおこなうのだ。そのままでいれば動物たちのからだは、そんなふうに激しいかたちでピュシスの力を、自分のからだからあふれださせたりはしない。ところが、狩猟や漁労の「技芸」は、いきもののからだからピュシスをむきだしのかたちで、いわば暴きたてるわけだ。

この「技芸」は、鉱物や粘土からピュシスの本質を抽出して造形する人々、人間のからだからピュシスの力をとり出して破壊してしまう殺人の技術に長けた人々(悪党的武士)、音楽や踊りなどの芸能や性愛の技術によって人間の体の中に通常は隠れてしまっている力を溢れ出させる能力を持つ人々にも共通して保持されている。

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「なめらかな空間」からもたらされる海の幸、山の幸、それに若くて美しい娘たちは、古代より贄(にえ)として律令体制をクッションにしながら天皇へと奉げられていた。しかし後醍醐天皇は蔵人所と検非違使庁を設置し、貴族の合議体制であるこの律令体制を骨抜きにしながら、「なめらかな空間」に生きる人々を供御人を介して直接支配しようとしたのである。さらに自らの貨幣を鋳造して商業という「富」の発生する境界場の掌握を試みた。「稲の王」としてだけではなく、悪党的な力を直接的に結集しながら鎌倉幕府を倒し、古代天皇制の復活をとなえようとしたのが建武の新政であると述べられている。

一方、武士による王権とは、「仕切られた空間」を支配することで成り立つ権力である。開拓された土地と稲作を結び付け、合理的に計量することで徴収する税額を算定する。悪党を商人にかえて「幸」を「商品」にかえる。計量や契約など合理性をベースとする「法治する王権」。これはまさにフラットな世界の原形ではないだろうか。鎌倉幕府は倒れたが、その後の武士による統治の中で「なめらかな空間」は解体され、封じ込められながら、「仕切られた空間」が膨張し、社会の中にいきわたっていく。この国をさらなる近代化へと向かわせるための下地づくりが、ここで行われたのだと考えることができるだろう。

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この時期に突如歴史の表面に現れ、また消え去っていく悪党たちは、その後の社会においても、そのあり方を変化させながら影響力を発揮し続けた。特に文化面、ファッションや芸能・芸術、そして遊郭における「粋」の世界の中でそれは発揮されたのである。

この歴史的事件は様々な角度から読むことができると思うけれど、ぼくはまずこの悪党たちの存在に強く惹かれてしまう。「仕切られた空間」とその外側にあるピュシスの世界との境界領域である「なめらかな空間」に生きる人々。ピュシスの世界から引き出され、その技芸により立ち上がる創造世界は、ぼくの想像力を強く刺激し、魅了してしまうのである。


posted by Ken-U at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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