2006年09月07日

「マッチポイント」 貨幣の過剰が生み出す悲劇

ウディ・アレン監督『マッチポイント』。原題『MATCH POINT』

プロテニス・ツアーの苛烈さに嫌気がさしたクリスは、プロの世界から身を引き、イギリスの会員制テニス・クラブで職を求める。そこでコーチとして雇われた彼は、資産家の息子であるトムと出会い、意気投合して、トムの家族と共にオペラを観にいく機会を得る。さらにクリスは、そこでトムの家族、とくに父親のアレックと妹のノラにいたく気に入られ、それを足がかりとして、それにドストエフスキーの後押しもあって、イギリス上流家庭の中に自分の居場所を見出すのだった。彼は、アイルランドの貧しい家庭から、イギリスの富裕層の世界へとのぼりつめることに成功する。

match_point_00.jpgクリスは多くの富と高い地位を手に入れる。と同時に、ある種の罪悪感や嫌悪感が複雑に入り混じったような、なにか得体の知れない恐怖に襲われるようにもなる。つまりクリスは、ある種の高所恐怖症に陥ってしまうのだ。だから彼はアスピリンを飲まなければならない。しかし、薬では症状をやわらげることができなかったクリスは、その硬質で乾いた世界の外側へと抜け出し、渇きを癒すため、女を捕らえて、その肉体から体液を貪り取ろうとする。

*****

現状に対する不安から逃れるために、友人の恋人につい手を出してしまう...これは、ウディ・アレン監督がこれまで度たび利用してきたプロットである。きっと、その経験から負った傷跡が、年老いた今も彼の心の中で疼いてしまうのだろう。しかし、この作品は彼の極私的な恋愛経験を綴っただけの物語ではない。苛烈なアメリカ映画業界に嫌気がさし、イギリスの、それもBBCで映画製作をすることになった彼の現状や、あるいは私的な領域を超えて、富める世界を守るために振るわれるいわれ無き暴力の問題、さらにはその暴力に対するユダヤ系アメリカ人としての苦悩、といったいくつものテーマを繋げ合わせ、幾重にも重ね合わせることによって生み出すことのできた作品であるように思える。そして、扱われているもうひとつのテーマが、人生における不確実性という問題である。

前作『メリンダとメリンダ (MELINDA AND MELINDA)』において、ウディ・アレン監督は、メリンダの人生における悲喜劇性を1枚のコインの表と裏のように描き分けた。たしかに、人生とは悲劇的であり喜劇的でもあって、それはコインを媒介とした表裏一体のものであるようにも思える。つまり、コインのどちらの面が上になるかで、その物語が悲劇と喜劇のどちらに転ぶのかが決まってしまうのだ。さらに、視点を逆転させてコインの側から人生を眺め直してみると、貨幣が生み出す過剰なエネルギーが、人生を悲劇的に、あるいは喜劇的に仕立て上げているのではないかとさえ思えてくる。

この『マッチポイント』という作品は、その貨幣の過剰が生み出す悲劇的な面を、とてもオーソドックスな不倫劇の体裁をつかって描き出そうとしている。だから、”マッチポイント”の時点で柵にぶつかったあの指輪が、柵のどちら側に落ちたとしても、クリスの人生が悲劇的であることにかわりはない。つまり、ゲーム前の”コイントス”の段階で、彼の運命はすでに決められていたのだ。
posted by Ken-U at 23:43| Comment(2) | TrackBack(8) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Ken-Uさん、こんにちは。TB&コメントありがとうございました。
冒頭にクリスが読んでいたドストエフスキーにしても、
『罪と罰』を脇に置いてその解説書を読んでいたというのが、
クリスのキャラクターを特徴づけていましたね。
クリスは運に恵まれたあまり、成功するにしてもその「プロセス」が
抜け落ちていたのかもしれません。
自分でもなぜ成功したのか説明のつかないところが皮肉でもありました。
『メリンダとメリンダ』は、本人の気の持ちようで人生がコインの裏表のように
変わってくるというものでしたが、『マッチポイント』は人生は運次第というのを
押し進めたのだと思います。
Posted by 丞相 at 2006年09月12日 07:41
丞相さん、こんにちは。

あのドストエフスキーにまつわる一連のプロットは興味深かったです。たしかに、彼の成功には「プロセス」が欠けています。だからこそ、一度手にしたものにあれだけ執着してしまったのでしょう。その弱さがあのような悲劇を生み出す原因になってしまったのだと思いますが。
Posted by Ken-U at 2006年09月12日 21:10
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