2006年09月16日

「愛と経済のロゴス」 覆い隠された贈与と資本主義経済

中沢新一著『愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュV』(講談社選書メチェ)

cahier_sauvage_III_1.jpg古代の柔らかな社会では、富とは、あくまでも人間の世界の外部、つまり自然界からもたらされるものだと考えられていた。食物や、あるいは人間の生命でさえも、人々には決して手の届かない闇の向こう側から贈られる、神の領域からの贈与であると認識されていたのだ。本書において「純粋贈与」と呼ばれるこの自然界からの贈り物は、人々や共同体の間で交わされる「贈与」によって絶え間なく社会の中を流動し、その「贈与」の連鎖がさらなる「純粋贈与」を誘発することによって社会の富を増殖させていくのだと考えられていた。このような贈与型の社会で暮らす人々は、贈り物に潜むただならぬ力(ポリネシアのマオリ族が”ハウ”と呼んでいる力)を感じとりながら、そこから富をすくい取り、共同体を、そして人々の命を維持しようとしていたのだ。

貨幣とは、この流動する富を固定化し、共同体の、あるいは個人の内部に蓄積するための、モノを超越したモノであると考えられる。王権による硬質な社会、つまり国家の誕生と共に、この冷たい富の表象は生み出されたのだ。炎の力によって滑らかな流動体となった金属を、再び冷やし、叩くという儀式を通してつくられる貨幣は、固定化される富のあり方そのものを表している。金属によって生み出された兵器が自然界と人間との関係を変えてしまったように(過去記事)、貨幣もまた、経済活動の表層から「贈与」を後退させながら、自然界を開発可能なモノの塊へとつくりかえてしまったのだ。

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マルクスは、資本主義社会の本質を「巨大な商品の集積によってつくられている社会」と説明した。つまり、貨幣を媒介とした交換の原理によってこの世界は覆い尽くされているというのだ。たしかに、貨幣は無限の増殖を続けながら、我々の生活の隅々にまで行き渡り、全てのモノを乾いた数値に置き換え、合理化し尽くしているようにも感じられる。

しかし、中沢氏はそれを否定する。例えば、クリスマスが迫ると、人々は忘れかけていた記憶を甦らせ、贈与へと向かう。そして、人々が生み出すこの贈与の連鎖が、交換の原理に基づく現代の経済を活性化させている。この現象は、普段は経済活動の表層からみえないところに隠されてしまっている「贈与」が、古くから伝わる冬の祭りを通して活性化されることにより引き起こされているのだと中沢氏はいう。つまり、経済は、「交換」、「贈与」、そして「純粋贈与」の三つの要素が三位一体となって成立する活動であるというのだ。さらに、経済を突き動かしているのはあくまでも人間の欲望であり、その欲望の根源が人間の心の奥底に潜む深い闇の部分に触れている限り、経済活動のすべてを合理的に解釈し、管理することは不可能であるとも指摘している。

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本書の内容は、先日の『二十一世紀の資本主義論』(過去記事)と重なるところも多いのだが、こちらは経済学の範疇を大きく逸脱して、貨幣をめぐる神話やラスコーの洞窟に描かれた壁画(過去記事)、そしてアメリカ先住民の贈与の記録、キリスト教の聖杯と化したコルヌコピアの観念、さらに、資本主義経済の三位一体と同一構造を持つキリスト教の精神などを紐解きながら、資本主義経済のあり方を、資本の増殖によって快楽を得ようとする人間の心も含めた全体性の運動として捉え直そうとしている。

限りない膨張によって「贈与」を覆い隠し、「純粋贈与」を「搾取」に置き換えようとしている「交換」の原理は、中沢氏がいうところの「経済の三位一体」のバランスを崩しながら、この世界を疲弊させてしまっているように思える。果たして我々は、この閉塞状況の先に「贈与」を取り戻し、自然界との調和を復活させるような新しい経済のあり方を見つけることができるだろうか。見通しはどこまでも暗いが、それでも目を凝らし続けるしかない。
posted by Ken-U at 19:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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