まだ幼い厨子王と安寿は、旅の途中、巫女と名乗る老女に騙され、母親と引き離されて、山椒大夫が支配する丹後の荘園に売り飛ばされる。彼らは人買いが仕組む罠に掛かってしまったのだ。ふたりはそこで奴隷となってしまうが、その生き地獄に耐えながら、両親との再会を夢見て懸命に生き延びようとする。そして十年の歳月が流れる。

出口のみえない生活に絶望し、その挙句の果てに、山椒大夫の言いなりになって日々をやり過ごしていた厨子王は、妹の安寿との口論をきっかけにして、「慈悲のないものは人ではない」という父親の言葉を思い起こす。そして、クニを追われた父親と再会するために、母と旅していたあの頃の様子が思い浮かぶ。厨子王は、その荘園を抜け出すことを決意し、安寿にそれを告げる。
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左右に流れながら物語を捉え続けるカメラ・ワークや美術、それにキャスティング、そのどれをとっても素晴らしくて、圧倒された。いわゆる勧善懲悪的な展開ではなく、それにハッピーエンドで結ばれるわけでもないこの物語を、溝口監督は一流の娯楽作品に仕立て上げることに成功している。涙あり、拍手ありの劇場の様子は、公開当時(1954年)の観客の反応とそう違わないのではないだろうか。思うのは、描かれている世界と自分が身を置くこの世界が確かに地続きである、ということだ。だからこそ、観客は厨子王に自分自身の姿を重ねることができるのだろう。観る側も厨子王と同じように、なにか大切なものを失い続けながら生きているのだ。その痛みがこの作品には焼き付けられている。
それも容易に想像できるほど大傑作だったと思います。
本作もまた小舟のシーンが美しかったですね。
安寿の入水もまた然り。
予定より京橋に行く機会が作れなくて困っています。
もっと溝口を堪能したい…
安寿の入水シーンはとてもよかったですね。あと個人的には、厨子王が山を下り、京で関白に直訴するシーンが印象に残りました。
溝口作品を劇場で観る機会はこれからあまりないでしょうから、ぼくももっと観ておきたかったですね...
今から半世紀ほど前にこれほどの映画が作られていたとは驚くべき
ことですね。ヨーロッパで評価されるのも、説話ならではの物語設計、
人物造形があるからではないでしょうか。
山椒大夫のようなキャラクターは、説話にはよくあるものですから。
それとともに、Ken-Uさんのおっしゃるように、1954年当時、
さらにはそれより後の日本社会を反映しているのは凄いですね。
ラストシーンは本来やりきれない内容なのに、別の印象を引き起こすのは、
やはり映像の力があったからだと思います。
こういった作品が「娯楽作品」として製作できたのも、戦後から高度成長期にかけた、この国の激変期(あるいは過渡期というんでしょうか)だからこそなのかもしれませんね。
それに、昔の日本映画を観ると、職人のものづくりの技を強く感じることができます。目に見える部分ももちろんそうですが、物語設計などの目に見えないところにも技が活かされているような気がします。
他の作品も是非ご覧になって、そちらのブログでレビューしてください。楽しみにしています。