2006年11月04日

「神の発明」 神の誕生と死、そして流動を続けるスピリットの関係

中沢新一著 『神の発明 カイエ・ソバージュW』(講談社選書メチェ)

脳内で瞬く光のイメージが神を生み、その死後、残された精霊たちの残骸が資本主義経済を突き動かす原動力となるまでの過程をたどる。

cahier_sauvage_IV_01.jpg古代を生きた現生人類の祖先たちは、様々な儀礼を通して脳内で活動する「流動的知性」と向かい合い、そこで瞬く光の像を太陽の神、月の神、海中の神、火の神など、森羅万象の神々(スピリット)と捉え、その姿を自然界のあらゆる領域に投射した。ここでいう光の像とは、「内部閃光」という脳内に映し出される様々な光のイメージのことを指す。そのイメージは、瞑想や薬物によるトランス状態を通して、あるいは感覚遮断タンクの中に身を置くことによって「見る」ことが可能な内的な視覚現象だと考えることができる。我々の祖先は、神話的思考を駆使して脳の無意識の領域に迫り、さらにその内的な野生の領域と自然界とを結びつけることによって、スピリットと共にある柔らかな世界を維持しようと努めていたのだ。この時、人々は、生と死の領域がメビウスの帯のように滑らかなひと繋がりになっていると考えていた。

しかし、時代が進むと共に、この多神教的な神の捉え方は変化を強いられる。調和が保たれた世界の内外から猛烈な圧力が加えられることによって、世界の対称性が破れ、あの世とこの世が引き裂かれると同時に、森羅万象の神々の中でもひときわ大きな力を持つとされる高神(グレート・スピリット)が、スピリットの世界から飛び出し、さらなる高みへとのぼり詰めて、いわゆる一神教的な神(ゴッド)へと生まれ変わるのだ。またその一方では、引き裂かれたメビウスの帯を縫合するための来訪神が誕生する。このふたつのタイプの神は、例えば、南西諸島の「御嶽(うたき)」と「アカマタ・クロマタ」にその名残りを見出すことができる。あるいは、本土の「神道」と「祭り」の関係にもその面影が僅かに残されているという。対称性が破れた世界に生きる人々は、このふたつのタイプの神を崇めることによって、多神教的なスピリットの宇宙を維持しようと努めたのだ。しかしその後に、高神が他の神の存在を許さない唯一神に変貌を遂げると、来訪神をはじめとする神々(スピリット)は抑圧され、この世界の表層から大きく後退してしまう。

*****

本書で語られる現生人類の宗教観の変遷は、シリーズ第2作である『熊から王へ』(過去記事)の内容とリンクしている。『熊から王へ』は、超越的な力を自然界の奥底に据えることによって保たれていた社会の均衡が、あるきっかけで破綻し、その裂け目から王権と国家が現れるまでの過程を辿っていたのだが、本書では、その社会の構造の変化と並行して移り変わる人間の思考の動きに注目し、その仕組みを紐解こうとしている。

近代の始まりと共に神は死んだ。そしてこの世に残されたのは、精霊の残骸としての商品の集積体であり、乾いた国家の横暴である。しかし、神の死後も、人間が純粋な無神論者になることは不可能であると中沢氏はいう。現生人類の脳の構造がその原初の状態から変わらぬ限り、超越性の領域はその内部に存在し続けるというのだ。果たして人類は、この内的な「野生の領域」と出会い直すことによって、中沢氏のいう「あらゆる宗教のあとに出現するもの」を生み出すことができるだろうか。その見通しはどこまでも暗く感じられるが、その暗闇の先にあるはずの何かを見出すためには、闇と対峙し、目を凝らし続けるしかないのだろう。

(関連記事:「脳と創造性」 不確実性の海へ/2005/05/02)


posted by Ken-U at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術人類学(中沢新一) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。