少女がたどるイニシエーションの様子が描かれる。作品は、「バスミルダ」−「サマリア」−「ソナタ」の三部から成る。
親友のヨゾンとチェヨン。ふたりの関係はとても親密で、チェヨンはヨゾンがいないと何もできない。ヨゾンとチェヨンはふたりでひとりというか、チェヨンはヨゾンの分身のように感じられる。冒頭、チェヨンは、ヨゾンに向かって自分はバスミルダだと告げるのだが、バスミルダとはインドに伝わる娼婦の名前で、バスミルダと交わった男たちはみな仏教徒になったという。ふたりはヨーロッパ旅行の費用を捻出するために援助交際をしている。チェヨンが体を売り、ヨゾンがマネージャー役を担当しているのだ。ストーリが進むにつれて、チェヨンがヨゾンの分身であるという印象が強くなっていく。チェヨンはヨゾンの身代わりに男と寝ているように感じられる。しかし、ヨゾンはチェヨンの売春行為に手を貸しながら、その行為に強く穢れを感じていて、そこに罪の意識を抱えているようにもみえる。売春行為の後、銭湯でヨゾンがチェヨンの体を執拗に洗い清め、キスをして抱き合うショットが印象に残る。
死の直前、チェヨンは客のひとりに会いたいとヨゾンに頼む。そしてヨゾンはその客を訪ねるのだが、そこで彼女はその男に処女を奪われてしまう。時を同じくして、チェヨンはこの世から去っていく。この時、チェヨンとヨゾンはひとつになったというか、互いの魂を交換したのかもしれない。ヨゾンは、チェヨンの残した手帳と現金を清め、チェヨンと寝た男たちを呼び出してはチェヨンのように微笑み、チェヨンが飛び降りたホテルの部屋でその男たちと寝るのだった。彼女はかつて支払われた現金を男たちに返していく。こうしてヨゾンはチェヨンのいた世界に触れながら、チェヨンと自分を重ねていくのだった。
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娘の行為を知り苦悩する父親は、ヨゾンに母親の墓参りを提案する。そして父と娘の旅が始まる。ふたりは車で山を登る。この旅が、ヨゾンのイニシエーションであるように描かれている。山中で擬似的な死と再生を経験することによって、ヨゾンは大人になる第一歩を踏み出すのだ。
山の中で、父と娘は浄化されていく。旅の途中、美しい山と空の境界線を映し出すショットが頻繁に挿入される。天と地を結ぶ山が持つ超越的な力が、親子の魂に変化をもたらしているのかもしれない。最後の儀式は河原で執り行われるのだが、これも、境界的な領域における、ある種の通過儀礼であるのだろう。
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他の作品同様、本作でも境界的な領域で物語が進められる。売春行為の後、ヨゾンとチェヨンは川の中洲につくられた公園で遊ぶ。河原も頻繁に映し出される。そして石。男がヨゾンを車で河原に連れ込む時、父親は車に向かって飛礫を打って妨害しようとするのだ。物語の終盤も河原。それに、山や大きな池、売春、娼婦も含め、これらの要素はキム・ギドク作品に頻繁に登場する。
バスミルダに関する知識がないので、このあたりをもう少し知りたい。いつもヨゾンに微笑みかけるバスミルダ(チェヨン)はとても魅力的である。しかし、チェヨンの背景は明かされないまま、彼女はこの世から去ってしまう。親友であるはずのヨゾンも、チェヨンの家族のことや、その連絡先さえ知らされていなかった。それも彼女を実存しない幻、ヨゾンの分身のように見せる要因になっている。
父親が車の中でヨゾンにキリスト教にもとづいた奇跡の話を聞かせることも気になる。男を仏教徒にするバスミルダとキリスト教の奇跡を語る父親。その狭間にいるヨゾン。そしてヨゾンと寝た男たちは皆、幸福を口にする。あと、以前も書いたけれど、「石」についてもう少し考えたい。河原の石。それを投げる男。このあたりも紐解くと面白いかもしれない。
(関連記事:飛礫 石を投げるという行為/2005/09/25)



間違いなく「水」は浄化の意味を持っていたのだろうとは思います、シャワーも河も。
たしかにギドク作品のメタファー解読地獄に陥ると、深みにはまって抜けられなくなってしまいます。
例えば「水」でいうと、父と娘が山小屋で1泊する際に観られた、小屋の脇に置かれた小舟のショットが印象的でした。小屋でひと晩を過ごすことによって、小舟の中が水で満たされていたという。これもまた示唆的なショットだと思いました。「水」、そして特に「池」は彼の作品の中で大きな意味を持っているように思えます。
まあ、そのあたりにはまり過ぎるのはよくないんですけどね。
「水」は重要な要素なんでしょうね。泣くのもそうですし、湖や川が頻繁に登場します。また「水」と同様に、「石」や「山」も彼の作品にはよく登場します。どれも人間の根源的なところと繋がりのあるものばかりなので、とても興味深く感じてしまいます。
TBさせて頂きました、また拝見させて頂きます。
キム・ギドクの作品はとても寓意的ですね。『春夏秋冬そして春』で扱ったテーマを、さらに広げたものが『サマリア』になるような気がします。
たしかに、寓意的でありながら現実から乖離していないという点は素晴らしいですね。乖離するどころか、少女売春という社会問題に結びつけているところを興味深く感じます。
こちらからもTBさせていただきますね。
母親の墓地がある山と河原で、浄化されていったのだ、と思いたいですね。
繰り返しでてくる「石」についても同じ感想を持ちました。関連でふれていらっしゃる、中沢新一、およびその父親、叔父さんの網野教授、みんながそれぞれ「石」にこだわっているのは、面白いですね。
障壁としての「石」、精霊が宿る「石」、武器としての「石」、そして指し示すものとしての「石」・・・そこに「河原」という隠喩が入ってくると、思いますね。
今後とも、よろしく。
人間と石の歴史を辿ると、原始の昔まで遡りますからね。その結びつきはとても深いんじゃないでしょうか。ですから、キム・ギドク作品における石の扱われ方を見ていると、どうしても関心がそちらに向いてしまうんですよね。