「ぶらぶら病」に冒された南方熊楠は、故郷を離れ、サーカス団とともに北米を放浪したのち、イギリスへと辿り着いて博物学と出会う。その後、南紀へと戻り、熊野の森の暗闇に身を潜めながら、人間の心の奥底へとダイブし、あらゆる不思議がこの宇宙をとり巻く様子を曼荼羅と捉え、その体系化を試みようとする。

私はこの本で、南方熊楠の生涯のうちで、「もっとも深く体験されたもの」、それだけを注意深く取り出そうとした。論文や書簡に表現されてあるものをこえて、そこに表現された言葉の下ないしは内部で、ひそかに歌われていた歌を聞き取ることのほうに、私は全神経を集中した。こういう方法で、私は彼について語られてきた「一切の認知しうる歴史」をこえて、南方熊楠という法外な生命体の、もっとも内奥に潜む思想のマトリックスに、たどりつこうとしたのである。(p.4)
カイエソバージュ・シリーズT『人類最古の哲学』(過去記事)で重要な役割を担っていた熊楠の論文『燕石考』が本書でもとりあげられている。燕の巣の中に隠されていて、女性の安産を助ける魔力を持つとされるこの幻の石に関する民俗と、さらにそれを読み解く構造人類学的な分析を読み進めながら思考をめぐらせていると、ふと本書が熊楠の「思想の子供」をとり出すための「燕石」であることに気づかされる。生命体の生と死、この世とあの世、男と女、そして動物と植物といった隔てられた領域の境界線をこえて、さらにその奥に広がる秘められた領域に迫りながら、「多様と統一を結ぶものについて、連続と非連続をつなぐものについて、また変化と創造をひきおこす力について(p.44)」、熊楠が南方曼荼羅としてつかみかけた思想の胎児を、言葉による「燕石」の魔力をつかってこの世に取りだそうとしたのがこの『森のバロック』なのではないだろうか。そして10年余りの歳月を経て、この「思想の子供」は、「対称性人類学」と名づけられ、また「芸術人類学」へと成長と遂げたのだと思う。
名づけられる前の段階にあったこの「思想の子供」は、まだ「学」としての輪郭を持ち合わせてはいないために、ときに荒々しく、また中沢氏自身がいうように「怪物的な」立ち振る舞いをみせる。しかし、ぼくはその野生的な部分にとても強い魅力を感じた。とくに、すべての人間が心の中に抱える暴力的で残酷な部分、あるいはその残酷を隠蔽する近代人の冷酷な態度、その背景にある心の脆さ、そしてその脆さを代償するための妄想的な精神の装置(例えば「美しい国家」というフィクション)など、今現在のぼく自身が強く興味を抱いている物事が、燕石などの伝承や粘菌の生態、そして熊野の森の暗闇などと繋がりあいながら、それが大きな流れとなってひとつの宇宙樹を描いていく様子は刺激に満ちたものだった。
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最後に、人柱の伝承をめぐる南方民俗学に関する文章を一部引用して、このエントリーを結ぶことにする。
南方民俗学は、ひとつの主体をつくりあげようとしているのだ。それは、社会の中にある主体ではなく、社会化のプロセスを生きる主体であり、カオスに身を置いて、散逸構造を生きる主体であり、「本源的暴力」が不断にくりひろげられている精神の始源に触れる主体であり、主体化のプロセスだけがあって、主体などはどこにも存在しないような生命にほかならない。一言で言えば、人柱は現実であり、私の内部では人柱の残酷な儀礼が、つづけられている、と断言するのが、南方民俗学の主体なのだ。犠牲に捧げられているのは、私なのだ。犠牲の殺害者も、私だ。そしてのその犠牲を要求する水の神もまた、私なのだ。(p.239)