「黄金比の朝」、「火宅」、「浄徳寺ツアー」、そして芥川賞受賞作である「岬」の四篇を収録。

近世以降、社会が硬化するとともに、新たな社会階層がかたちづくられる。国家は、ある種の境界領域に触れる人々を、穢れ多き人、人で非ざる人と見做し、彼らを一般社会から引き離した。また、女性を貞淑な妻と穢れた遊女に引き裂き、非人同様、穢れた女たちをこの世界から隔離してしまったのだ(過去記事)。その引き裂かれた階層に生まれた者の苦悩が、この作品群では描かれている。彼らは、さらなる高度化を推し進めようとする社会の流れに強い抵抗を感じながらも、自らの思考と経済の基盤が近代に根ざしているがために、そこから逸脱することができない。逸脱するどころか、むしろ社会のさらなる硬質化に加担せざるを得ないのだ。
「岬」で描かれる、土方を生業とする青年の姿がとても印象深い。彼は、淡々と大地につるはしを打ち込み、そこにコンクリートを流し込んで、柔らかなものであった大地を、硬く、平板な乾いた砂の塊で埋め尽くそうとする。ここで描かれている大地は、おそらく女性的な、あるいは母性的な何かと結びつけられているのだろう。まだ童貞であるその青年は、心のどこかで女性を拒絶しているようにもみえる。しかしその一方で、女性的なもの、あるいは母なるものへの強烈な想い、ある種の郷愁のような感情を抱いているのがわかる。そしてその想いは、ラストの娼婦との交わりの中でついに爆発する。相反すると思われる様々な感情が、彼の心の中で混ざり合い、そのひと塊が、そそり立つ彼の男根を通して女のからだをつらぬくのだ。喘ぐ女のからだの上で、獣のような衝動に身をまかせながら、彼は、すべてを突き破って、その穢れたからだと溶け合い、ひとつになろうとする。
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読み進めるうちに、なぜか自分の70年代の記憶が蘇ってきた。ぼくと中上健次の出自はとても遠いものだと思うけれど、考えてみると、今、自分が身を置くこの世界と、当時のぼくが暮らしていた世界との間にも驚くほどの違いがある。すでに断片化して意識の奥底に沈みこんでしまっているあの頃の記憶は、今の自分にどのような影響を与えているのだろう。
ところで、去年の四月に入社した会社を先月いっぱいで辞めました。山本勘助ふうに言えば、「いまは浪人の身」つまり無職なのですが、何だか見えてくるものがたくさんありますね。社会のことが。
秋幸は童貞でしたね。彼は女性や母というより、実際は父親に対して複雑な想いを抱えているので、自分のペニスに対して嫌悪感を抱いているというか、性交に抵抗があるみたいでしたね。これはとても凄みのある作品で、圧倒されてしまいました。
会社って、基本的には酷いところですからね(笑)。辞めちゃいますよね、どうしても。個人的には、会社の中にずっぽりと入ってしまうよりも、たまにはその外に出ていろんなことを眺め直すことも大切なんじゃないかと思います。次の機会が見つかるまでは、無職を楽しんでください。