シリーズ完結編。第五巻。

3年ほど前からずいぶんと長い間、働きもせずに毎日ぶらぶらとしていた。そのぶらぶらした日々や、去年の春、熊野の森に初めて足を踏み入れたり、それから会社に復帰をしてみたりと、いろいろと私的な経験を積み増したこともこの(再)発見の背景になっているのだと思う。日常の暮らしの中でも、過去の自分とは感じ方が変わったというか深まったことを実感する機会が増えた。経験の蓄積とともに、自己は更新され続ける。加齢とともに変化しつつ、自分が自分自身に近づいているという不思議な感覚を味わうことができている。
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ところで、我々が暮らすこの世界は、人間の知覚を超える高次元空間の一部分に過ぎないのだろうか。この『カイエ・ソバージュ』全編に渡って繰り返される「流動的知性」という言葉と、その「流動的知性」が必要とする「高次元空間」について考えていると、例えば南方熊楠の「南方曼荼羅」(過去記事)やダライ・ラマが語った「空(くう)」(過去記事)のことなどが思い起こさる。それは、この「対称性人類学」が仏教の影響を強く受けているせいなのだが、このイメージにリサランドール博士の「五次元空間理論」(過去記事)を重ね合わせてみると、「高次元空間」や「曼荼羅」という概念が概念の枠を超えてこの宇宙の未知の領域と繋がってしまう。宇宙を高次元の成り立ちをしたマトリックスだと考えるランドール博士の理論が、仏教における曼荼羅の概念ととても近しいものであるように思えてしまうのだ。
本書によると、高次元空間においては、全体と部分との違いがなくなり、時間という概念でさえその意味を成さなくなるという。おそらくその超越的な領域は、極限的にエロティックな空間だと考えることができるだろう。永遠と一瞬が混在する領域の中では、あらゆるものの境界が溶け、すべてが渾然一体となる。そしてその特別な領域に呑み込まれる個体は、すべてを粉々に打ち砕かれ、強烈な苦痛とともにえもいわれぬ悦楽によってその全身を貫かれるのだ。
この世界は、本当にそのような超越的時空に覆われているのだろうか。もしそうであるのなら、一体であったものが永遠に引き裂かれ続けるのがこの宇宙の根源であるというビッグバン理論が根底から覆されてしまうだろう。そしてこの宇宙に身を置く人々は、あらゆる価値観を更新する必要に迫られる。宇宙の広がりは無限であるだけに、ぼくのこの宇宙をめぐる妄想も際限なく膨張を続けてしまうのだった。
講談社メチエ、ちょうどヘーゲル読んでるんですが、中沢さんのも気になってたんですよね、なんでシリーズなんだろうって。読んでみようかなぁ。
このカイエ・ソバージュのシリーズはどこから読んでも楽しめると思います。お勧めですよ。