2005年08月30日

終わらないチェチェン紛争の背景

chechen04.jpg

NHK-BS 戦後60年 歴史を変えた戦場
『チェチェン混迷の11年 紛争とテロの背景』(制作:英BBC)

11年間続いている紛争によって、10万人以上のチェチェン人が犠牲になったという。かつての人口の約半数は死亡、もしくは難民として国外へと避難している。また、ロシア軍に連行され、その後行方不明になったチェチェン人は3,000人以上にのぼるともいわれている。現在もロシア兵による掃討作戦は続行されていて、1週間当たり約3人のチェチェン人が連行され、行方不明になっている。

*****

紛争の発端

チェチェンとロシアの紛争は18世紀に端を発する。のちの旧ソ連におけるスターリン体制下では、チェチェン人の強制移住が実施され、かわってロシア人がチェチェンに移り住むようになった(1944年)。スターリンの死後、1957年にチェチェン人は帰郷を許されたが、その後もチェチェン文化に対する抑圧は続いた。イスラム教にもとづくチェチェン文化は野蛮だとされたのだ。この間、チェチェン人のロシアに対する憎悪は強まっていく。

1991年のソ連崩壊をきっかけに、チェチェン共和国は一方的に独立を宣言し、初代大統領としてジョハル・ドゥダエフが就任する。その後、ドゥダエフはロシアに対して強硬な姿勢を貫きながら、国内の武装化を推進する。この頃、チェチェン国内には武器が溢れ、露店では対戦車砲がわずか150ドルで売られていた。

*****

第1次チェチェン紛争

chechen07.jpg1994年11月26日、エリツィンの指示により、ロシア兵が傭兵を装って首都グロズヌイに侵入し、ドゥダエフ政権の転覆を謀るが失敗に終わる。
同年12月11日、エリツィンは4万の兵力をグロズヌイに投入し、本格的なチェチェン侵攻を開始する。その後12月31日に総攻撃を仕掛けるが作戦を全うすることはできなかった。

年明け後、ロシア軍は1日に5万発の砲弾を浴びせる集中攻撃を実施する。この攻撃により、グロズヌイは廃墟と化した。それから数週間に渡る戦闘の末に、ロシア軍はグロズヌイの占拠に成功し、チェチェン人は山岳地帯へと撤退する。この時、約27,000人のチェチェン市民が犠牲になったといわれている。

山岳地帯での戦闘が始まった当初、ロシア軍は慣れないゲリラ戦に苦しめられる。ゲリラ化したチェチェン人がロシア兵を惨殺する様子はVTRに収められ、中東のイスラム主義者の手に渡った。チェチェン人のロシアに対する戦いはジハードと見做され、中東から潤沢な資金と過激派のテロリストが流入するようになる。

半年後、継続されるロシア軍の攻撃によって、チェチェン武装ゲリラは窮地に立たされる。しかしロシアの病院を占拠し(1995年6月)、約1,500人の患者や医師を人質にとったことをきっかけに、チェチェン・ゲリラは息を吹き返す。この病院占拠事件を指揮したのは、当時チェチェン野戦司令官であったシャミーリ・バサーエフだとされている。

この事件をきっかけに、ロシアのチェルノムイルジン首相は停戦を呼びかけるようになるが、その後も紛争は続く。1996年4月には、ドゥダエフ大統領がミサイル攻撃により爆殺される。しかし大統領の死後も、チェチェン・ゲリラは野戦司令官に統率され、ロシアに対する反撃を継続する。紛争はまだ終わらない。

*****

和平合意とイスラム過激派との連携

当時の野戦司令官のひとり、アフメド・ザカエフの証言によると、その後、ゲリラ隊は山岳地帯から移動し、ロシア軍の駐留が手薄になったグロズヌイへと向かう。そしてエリツィンの就任式(2期目)の数日前に、ロシア軍に対して奇襲攻撃を仕掛ける。この奇襲は功を奏し、その後チェチェン側はロシアとの和平合意にこぎつけ、独立へのきっかけをつかむことに成功する(1996年8月)。

チェチェンの新しい大統領には、ゲリラの参謀総長であったマスハードフが就任する(1997年1月)。しかしチェチェン・ゲリラの統率は乱れ、野戦司令官たちは勝手な行動をとるようになる。そして国外から入ってきたイスラム過激派との結びつきを強めていく。

国外から入ってきたイスラム過激派はワッハーブ派だが、チェチェンでは本来スーフィズムが信仰されている。過激派は豊富な資金をつかい、チェチェンの若者たちをワッハーブ派に取り込み、過激派の活動に利用するようになる。ワッハーブ派は、チェチェンの若者の経済的、そして精神的な支えとなっていく。

*****

第2時チェチェン紛争

chechen05.jpg1999年8月、KGB出身のウラジーミル・プーチンがロシア首相に就任するところから、チェチェンとロシアの関係は新たな局面へと向かう。

同月、チェチェンのゲリラが隣の共和国に侵攻する。と同時に、モスクワで連続テロが発生する。プーチンはこの連続テロをチェチェン・ゲリラの企てと断じた。
しかしロシアのFSB(連邦保安局)は2年前からこの動きを察知していたという証言もあり、連続テロの背後ではプーチンが暗躍、もしくはロシア側の自作自演テロとの説もある。

1999年9月、プーチンは和平協定の破棄を宣言し、チェチェンに再度侵攻する。その兵力は、94年の3倍の規模に強化されていた。徹底した空爆と砲撃の後に、戦車部隊が投入される。そしてチェチェン人口の4分の1に当たる、約25万人のチェチェン人が国外へ避難する事態となった。

プーチンは情報統制を徹底し、チェチェンから報道関係者を締め出す。紛争の状況はロシア政府からの報告のみ。このあたりの流れは、その後のアメリカを彷彿とさせる。

2001年9月11日をきっかけに、イスラムテロ組織と西側諸国の対立は鮮明になり、この状況の変化はプーチンにとって追い風となる。そして今日に至るまで、ロシアによるチェチェンの浄化は継続されている。


*****

国家の輪郭をを維持するために、反乱分子は抹殺されなければならない。クリーンで美しい国家。その社会の均質化は保守本流の根幹なのだと思う。
しかしチェチェン紛争の経緯を眺めていると、独立のための戦いというより、テロのためにテロを繰り返してるのではないかという印象を受ける。チェチェン国内のゲリラは主にサウジから入ってくる資金や過激派に煽られながら活動してるわけで、そのサウジアラビアは親米国であるはずなのに、その一方では過激派テロ指導者を多く生み出し、資金的にも支援を続けている。サウジアラビアの奥に広がる闇はとても深いのではないだろうか。

(関連記事:誰も知らない チェチェン紛争と女性テロリスト/2005/07/06)


posted by Ken-U at 02:37| Comment(2) | TrackBack(1) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ライフイズミラクルの記事をトラックバックした際、
この記事が目にとまり読ませていただきました。
ちょうどその時、『チェチェン・ウォー』という映画の
DVDを借りたばかりだったので。
おかげさまで大変役に立ちましたです♪
ので、レヴュー記事内にリンクをはらせていただきました。
Posted by かえる at 2005年09月07日 23:19
かえるさん、ご丁寧にコメントありがとうございます。この記事を拾っていただいたようで、重ねてお礼を言わせてください。

この番組はチェチェン問題を簡潔にまとめていてわかり易かったと思います。番組を観るだけではわからない、複雑な背景があるんだとは思いますが。

そちらの記事も読ませてもらいますね。
Posted by Ken-U at 2005年09月08日 02:29
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック

『チェチェン・ウォー』
Excerpt: 「あんたらジャーナリストは安全な場所から 人権侵害なんて題目を並べるが、これは戦争なんだ。」 そう、これが戦争なんだよな・・・。アクション映画とは違う。 リアルな緊迫感、そこにある戦いの不条..
Weblog: かえるぴょこぴょこ CINEMATIC ODYSSEY
Tracked: 2005-09-07 23:16
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。