原題: 『WARPED PASSAGES』
わたしたちが知るこの宇宙は、人間の知覚を超える高次元空間の一部分にすぎない。

それでも、この宇宙の向こう側には余剰次元が横たわっている。そうでなければ、重力だけがこの宇宙のほかの力に比べて極端に弱い理由を説明することができないのだ。しかしその余剰次元が何次元まで存在するのか、その大きさは無限なのか有限なのか、有限だとしたらどのくらいの大きさなのか、はっきりしたことはまだ解っていない。とくに、ひも理論が語る宇宙はどこか妄想的で収拾がつかないものになりがちなようだ。さらにいえば、「次元」という概念そのものが曖昧なのだという。あるひも理論研究者は、「空間と時間は幻想だと、私はほぼ確信している」(p.598)と語っている。そもそも、この宇宙の始まりだといわれているビッグバンにしても、それがなぜ起きたのか、あるいは、それが本当にビッグバンだったのかどうかすら科学的に説明できてはいない。わたしの目の前に広がるこの世界において、現実と幻の間に明確な境界線を引くことは可能なのだろうか。
ただし、うまく説明できないとはいえ、この宇宙は、対称性の自発的な破れによって生まれているらしい。原初の宇宙では、あらゆる力(電磁気力、強い力、弱い力、重力)は同じものであったというのだ。しかし、なにかのきっかけで対称性が破れ、それまで渾然一体であったすべてが引き裂かれて、四次元に隔離された膜(ブレーン)が生まれ、その膜の中に閉じ込められた粒子の振る舞いがこのわたしをかたちづくっている。
『対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしているのだ。私にとって、物理学研究の最もわくわくする側面の一つは、非対称的な世界のなかで対称性を意味あるものにする関係性を探求することだ』(p.280)
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科学の進歩により、科学の限界が露呈される。本書を読み進めながら、『対称性人類学』(過去記事)や南方曼荼羅(過去記事)のことを思い出した。科学が描く宇宙の像は、仏教がすでに示している曼荼羅にこのまま接近を続けていくのだろうか。