2005年10月28日

「日本の歴史をよみなおす」 人間が抱える畏怖の変遷を読む

網野善彦著「日本の歴史をよみなおす」を読了。

aminoyoshihiko_nihon.jpgこの「日本の歴史をよみなおす(全)」は、91年刊行の「日本の歴史をよみなおす」と、96年の「続・日本の歴史をよみなおす」を併せて1冊にしたもの。その前半部分を読み終えた。講演の内容をまとめた文章なので、表現も比較的平易で読みやすかった。

まず「はじめに」の内容が面白い。網野氏と今の若者との間には大きな世代の隔たりがあるのだけれど、その中でも、人間と自然との関係、そして人間が抱える恐怖の対象が、この世代間で全くといっていいほど異なっているという点が指摘されている。
例えばトイレの問題。網野氏の世代に属する人々とは違い、現代しか知らない人々はトイレの臭さとは無縁の暮らしを送っていて、さらに、家の中に暗闇がなくなってしまったことで便所に行くのが怖いという経験も持たなくなっている。身近なところに恐怖の対象となるような暗闇が存在しなくなっているのだ。この例に限らず、得体の知れない怖いモノは、現在も我々の日常から排除され続けている。

この「怖いモノ」は、人智の届かない超越的世界と深く繋がっている。古来から、人間はこの恐怖の対象を、神仏に対する畏怖の念と重ねて考えてきた。つまり、怖いモノは、神仏の領域に属していたり、あるいはその領域と深い繋がりを持っていると見做されていたのだ。
しかし、そういった人間と神仏の関係は、時代が進むにつれて変化していく。神仏に対する畏怖の念が、時代とともに後退していくのだ。その一方で、人間がかつては神仏のものだった領域に侵入するようになる。そして社会の世俗化が進む。そうした、聖なるモノを神仏の領域から「開放」する動きは、近世から加速し始め、今ではその極限まで推し進められようとしている。「自由化」の流れは、数百年も前に始まっているのだ。その大きな転換点は14世紀の南北朝の動乱期であると網野氏は指摘している。

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本書で語られているのは、日本人と、あるいは日本女性と文字の関係や、文字と神仏の繋がり、そして片仮名と平仮名や、口頭と文字との違い。さらに女性や貨幣、市場や金融と神仏との繋がりの歴史など。
そして天皇。さらに天皇の直属民である、ある種の職人としての非人や遊女の存在と、その社会的位置づけの変遷について。

14世紀に起こった大転換の後、神仏の力が後退するとともに、「聖なるもの」への畏怖の念は薄れ、「穢れたもの」への賤視へと変わる。非人や遊女は差別の対象となる。そして社会の構造は硬質化しながら世俗化の道を辿る。

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こういった社会の変容は、共同体や政治のあり方に影響を及ぼすだけではなく、個人の精神活動にも深い繋がりを持つのだと思う。というのも、神仏の領域とは、人間の脳内で自活的に活動している無意識の領域の表象でもあるからだ。社会の硬質化・均質化の動きは、このカオス的に活動をしている無意識の領域を抑圧してしまうことと密接に繋がっている。だから抑圧的な社会の中では創造性が後退していくのだろう。

これからさらに進められるのであろう社会の均質化とどう関わりながら生き延びていくのか。ただ乾いた現実を受け入れながら無為に過ごすのか、それとも拒絶し滅びてしまうのか。あるいはそのどちらとも違う、オルタナティブな道を開くことができるのか。答えはどこにも見当たらないが、その問題を考えるためのよい刺激を受けることができた。

(関連記事:「続・日本の歴史をよみなおす」 日本史の表層を引き剥がす/2005/11/14)
posted by Ken-U at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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