もう殺すしかない。

つまり、この『告白』に登場する城戸熊太郎は城戸熊太郎であるのだけれども同時に町田康でもあるのであって、さらには、読み進めていくうちに、ひょっとすると熊太郎はわたし自身でもあるのかもしれない、とさえ思えてくる。なぜなら、作中、いくつかの場面で、たとえば、いよいよ熊太郎が髪を乱したおぬいの姿に出くわしてしてしまったというときに、わたしの感情は熊太郎を追い越すように乱れ昂り、からだの中に流れる血をカーッと煮えたぎらせてしまうのだ。そのとき、わたしはわたしの中にたしかに熊太郎という人殺しが存在することを体感する。実のところ、わたしは人殺しであるのだ。ただし、わたしはわたしの手で人を殺めることをしない。という意味では、わたしは熊太郎よりもむしろ彼の周囲の人間に近いのかもしれない、とも思えてくる。なぜなら、熊太郎にしてみれば、周囲の人間どもは、おのれの手を直接汚すような下手な真似をしないだけで、みな等しく暴力的な存在であるのだ。実際、彼らが振るう目には見えない無数の暴力が熊太郎を、弥五郎を追い詰め、ふたりに最後の一線を越えさせてしまう。本作は、河内十人斬りという悲惨な殺人事件を軸に据えながら、その殺人劇の経緯を直線的に追うだけではなく、この社会に蔓延する無数の暴力をそこに絡ませ、この悲劇の背景である暴力の集積体としての社会の在り様を細やかに描くことによって、暴力の渦にのまれ圧しつぶされるように破滅していく熊太郎の救いのない在り様を際立たせようとしている。ただひとつ難をいえば、女性の描き方があまりに平坦なので、女性が本作を読んだときにどう感じるかという点が気にかかるけれども、その弱点を差し引いても強い魅力を感じる小説だった。
熊太郎は殺人という許されざる罪を犯してしまった。しかし、彼はその手で人を殺す前から殺人の罪に苛まれている。彼は、すでに気づいていたのかもしれない。