2008年05月04日

「告白」 近代の自滅的妄想、人殺し

町田康著 『告白』 (中公文庫)

もう殺すしかない。

confession01.jpg河内十人斬り。この作品は、明治期の河内地方で起きた実話をもとにした小説で、赤坂水分という村の博徒であった城戸熊太郎と谷弥五郎による殺人劇がその題材となっている。しかし、これはなにかで読んだのだけれど、実話といってもこの事件に関する資料はほとんど残されておらず、町田康はこの悲劇を小説化するにあたって、調べ上げた事実を繋ぎ合せるという手法をとることをあきらめ、自らを城戸熊太郎という人物そのものに重ね合わせ、同化させることでこの事件に接近しようと試みたのだという。そのアプローチは『告白』という本作のタイトルにも反映されており、たしかに読み進めていると、10代の頃に読んだ『人間失格』などを思い起こしたり、近代画家が描く自画像のことなどを連想したりと、社会の近代化にともなって浮かび上がる個の輪郭と、その脆弱な境界線によってかたちづくられる個人という存在、その危うさから止め処なく湧きあがる不安に突き動かされ膨張を続ける自滅的な妄想のことなどに思いをめぐらせてしまう。

つまり、この『告白』に登場する城戸熊太郎は城戸熊太郎であるのだけれども同時に町田康でもあるのであって、さらには、読み進めていくうちに、ひょっとすると熊太郎はわたし自身でもあるのかもしれない、とさえ思えてくる。なぜなら、作中、いくつかの場面で、たとえば、いよいよ熊太郎が髪を乱したおぬいの姿に出くわしてしてしまったというときに、わたしの感情は熊太郎を追い越すように乱れ昂り、からだの中に流れる血をカーッと煮えたぎらせてしまうのだ。そのとき、わたしはわたしの中にたしかに熊太郎という人殺しが存在することを体感する。実のところ、わたしは人殺しであるのだ。ただし、わたしはわたしの手で人を殺めることをしない。という意味では、わたしは熊太郎よりもむしろ彼の周囲の人間に近いのかもしれない、とも思えてくる。なぜなら、熊太郎にしてみれば、周囲の人間どもは、おのれの手を直接汚すような下手な真似をしないだけで、みな等しく暴力的な存在であるのだ。実際、彼らが振るう目には見えない無数の暴力が熊太郎を、弥五郎を追い詰め、ふたりに最後の一線を越えさせてしまう。本作は、河内十人斬りという悲惨な殺人事件を軸に据えながら、その殺人劇の経緯を直線的に追うだけではなく、この社会に蔓延する無数の暴力をそこに絡ませ、この悲劇の背景である暴力の集積体としての社会の在り様を細やかに描くことによって、暴力の渦にのまれ圧しつぶされるように破滅していく熊太郎の救いのない在り様を際立たせようとしている。ただひとつ難をいえば、女性の描き方があまりに平坦なので、女性が本作を読んだときにどう感じるかという点が気にかかるけれども、その弱点を差し引いても強い魅力を感じる小説だった。

熊太郎は殺人という許されざる罪を犯してしまった。しかし、彼はその手で人を殺す前から殺人の罪に苛まれている。彼は、すでに気づいていたのかもしれない。
posted by Ken-U at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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