原題:『THE DARJEELING LIMITED』
三兄弟はインドで再会を果たし、ダージリン急行で旅をする。

欠落を抱えた男がよろよろとしている。本作と『くっすん…』を結ぶもうひとつの共通点は描かれるディテールの妙味にあると思う。その中心に据えられているのは、何か大切なものを失った、あるいは深い傷を負った男がよろよろとする滑稽な姿である。中でも象徴的な描写をあげてみると、『くっすん大黒』でいえば、『なんとも歩きにくいことであるよなあ、って、砂浜。』という印象深いフレーズ。本作であれば、砂山の上でなにかしらわけのわからん妙なことをしてそこからあわててよろよろと降りてくる三兄弟の滑稽なあの様子である。とくに長男は、片脚を怪我しているうえに片方の靴まで失くしていて、そのよろよろ具合がことさら強調されていて、おかしい。しかも彼は、傷だらけである。おまけに顔面も包帯でぐるぐる巻きにされている。彼は、もう少しで死にそうなところまで追い詰められたのだけれどもなんとかぎりぎりのところで踏みとどまり、それからどうにかこうにかインドにまで辿り着いたのだ。しかしそれでも、自分の弟たちの前では虚勢を張ってみせたりしてなんとも滑稽な男である。
あと、ディテールといえば、オープニングとラストのあの光景が思い出される。このふたつの場面では、彼らが彼らの父親の記憶と決別する過程が示されている。オープニングでは、すでに走り出している列車に飛び乗ったあと、次男が振り返ってホームに取り残された初老の男をみつめる。その時、彼の瞳はどこか哀しげである。また、ラストでは、三兄弟がまたもや列車に飛び乗るのだけれど、そのとき、彼らは父親から譲り受けたスーツケースを放り投げてしまうのだった。取り残されてしまわないために、彼らは大事にしていたはずのあの父の形見を捨て去ってしまうのだ。オープニングとは違い、ラストにおいて彼らは、自らの意思で父的なものを捨て去り、列車に乗り込もうとする。ここで彼らは、彼らの父との決別を果たしたかのようにみえる。
とはいえ、父的なものとの決別ができるとしても、だからといってこの世にあの三兄弟の居場所が用意されたわけではない。彼らの前途はどう考えても多難である。鏡を見てみてもわかるとおり、あの傷が癒えるにはもうしばらく時間がかかると思う。わたしという存在はあまりに脆く、その魂は孔雀の羽根のようにふわふわとしていてなんとも儚い。しかし、それでも旅は続く。
Ken-Uさんが記事で指摘されているように、『くっすん大黒』と
『ダージリン急行』には、たしかに根底で相通じるところが
ありそうです。
「捨てる」という行為において、『くっすん大黒』は大黒様の置物、
『ダージリン急行』は形見のカバンと対応していますね。
これまでのウェス・アンダーソン作品は「父」の存在が何かと
クローズアップされたのですが、『ダージリン急行』のラストは、
それと決別するという、なかば自らの決意表明であるように
私は感じました。
このスタンスが、次回作以降にも何かの形で反映されるかも
しれませんね。
なるほど。ご指摘された「大黒様」と「形見」については考えが及びませんでした。どちらも作品の中心に据えられているし、重要な意味を持ってますよね。
この作品では、ラストでカバンを捨てた。丞相さんがおっしゃるように、この行為は次回作以降になにかしらの影響を与えるのではないかと予想しています。