2009年11月12日

「POLART 6000」 即席是空

荒木経惟 『POLART 6000』 (RAT HOLE GALLERY)

ギャラリーの壁に、6,000枚のポラロイド写真。

araki_polart6000.jpgポラロイドに埋め尽くされた壁と向き合い、その迫力に圧倒された。そしてしばらく遠目から眺めたあと、そろそろ近づき、視線を無秩序に飛ばしながら、それらポラ写真のどれもが猥雑で、それでいてユーモアに満ち溢れていることに感心した。生命の、写真の不思議。なかでもとくに不思議に思えたのは、性的ではないはずの被写体、とくに食べ物を写した作品が笑ってしまうくらいに卑猥だったことで、たとえばサンドウィッチからはみ出したソーセージが卑猥なのはまだあれだとしても、どんぶりの上から眺めるラーメンのどろどろした在り様だとか、あとはなにがあっただろう、まあ、とにかくアラーキーの手にかかると、即席であるはずのポラロイド写真が淫らな荒木の色に染まり、そして月日の流れの中でほどよく色褪せ、その褪せたトーンがある種の無常感を醸し、悦びと哀しみを混ぜ合わせて、その群れをあたかもこの世の凝縮体の如くみせる。

展示最終日。ギャラリーに向かう階段を降りるとき、ガラス越しに関係者と歓談している荒木氏の姿が視界に入り、ぎょっとした。緊張し、ギャラリー内にはなかなか入れず、入り口ちかくの書棚やカタログなどをちらちら眺めているうちに彼が出てきて、例の調子でスタッフのひとりに声を掛け、お連れに囲まれつつ賑やかに去っていった。荒木さんと出くわすのはこれが三度目なのだけれど、初回は手足が震えて近づけず、二度目は見なかったことにして逃げ、三度目の今回は背後からその姿を視線で追い、声に耳を傾けるのみだった。この先、もう少しよいかたちでお会いする機会はあるだろうか。
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2009年07月20日

「69猥景」 此岸と彼岸の狭間で

荒木経惟 『69猥景』 (タカ・イシイギャラリー)

荒木経惟による6x9モノクロームの世界。

araki_69.jpgタイトルの通り、6x9判にて撮影されたモノクローム・プリントの新作は、どの写真も密度が濃く、なんといえばいいのだろう、水の世界から抜け出たばかりのようなしっとりとした質感があった。景色や裸体はもちろんのこと、もっとぎらぎらしているはずの道端ジェシカのような若いモデルたちの佇まいでさえ、その憂いのある眼差しも含めて、しっとりと濡れてどこか哀しくみえたのである。技術的なことはよく解らないのだけれど、このいかにも写真らしい湿度ある奥行きは、きっと撮影で使用された6x9カメラとどこか関係があるのだろう。こうした写真の特徴と、被写体から洩れでる吐息のようななにものかを捉えるアラーキーの技とが見事にシンクロして、この「猥景」の世界がかたちづくられたのだと思う。

世俗と離れた異空に身を置いているような気がして、それが心地よかった。かといって「猥景」であるから決してクリーンなわけでもなく、もっと中間的な、この世界と水の世界の間にあるどこかに身を漂わせているような気がした。
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2007年06月10日

「67 反撃」 多様の美、猥雑の美

荒木経惟 『67 反撃』"67 Shooting Back" (タカ・イシイギャラリー)

araki57_03.jpg彼女の回顧展のタイトルにもなった、マルレーネ・デュマスの「Broken White」(2006年)という作品は、ぼくが敬愛する荒木経惟のある写真を下敷きにして描かれている。その荒木の作品は、性交の只中にあると思われる若い女性の上半身を写したモノクロ写真で、少女のようにもみえるその女性が苦悶に喘ぎながら恍惚に浸っているような、あるいは悦びの絶頂の中で死を迎えつつあるような、静けさと荒々しさの狭間でまどろみながら複雑な表情を浮かべる瞬間を捉えている。デュマスは、荒木の作品から発せられるそのイメージを保ちながら、女性の乳房や腕、膝などをフレームから外し、その表情だけを抽出してキャンバスに移し変えた。描かれる女性の髪の黒とわずかに残された背景の赤、そして額や頬の白と顎のまわりに浮かぶピンクの対比が強く印象に残る作品である。この荒木とデュマスの作品を見比べながら、それぞれが持つ美しさを堪能すると同時に、自分が好んでいる作家同士の繋がりに興奮を覚え、帰宅後、デュマスの図録をめくりながらネットで荒木の作品展情報を調べて、この『67 反撃』に辿り着いた。

荒木経惟の67歳の誕生日にスタートしたこの個展は、200点あまりの彼の作品群によって構成されている。各作品は壁面に隙間なく並べて展示されており、それぞれが単独のものでありながら独立しておらず、それら作品同士が互いに作用し合いながら独特の「流れ」をかたちづくっている。ここでは夕焼けに赤く照らされた空ですら淫らにみえる。男性的な太陽と女性的な大地の交わりの中で、この世界のすべてが官能の赤に染め上げられてしまうのだ。

ところで、タイトルにある「反撃」とは何を意味しているのだろう。アラーキーは、これから何に対して反撃を始めるつもりなのだろうか。多様の美、猥雑の美の反撃、ということなのだろうか。参考までに、この個展に寄せた荒木自身の言葉を以下に引用しておく。

*****

「アラーキー67才。6x7カメラ、フィルム写真のデジタル写真への反撃。
筋ジストロフィーの女の子、こいつの普通の女の子への反撃。
ブス女の子のアナウンサーのような綺麗な女の子への反撃。
世間が『きれい』とかいうのは、周りがつくった要素が大きいんだよ。
やっぱり写真を撮るなら、汚いところがあって、欠点だらけでも生きている、
ほんとの女を撮らなくちゃね。俺はずっとそういうところを撮りつづけているわけだよ。」

荒木経惟
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2006年01月17日

センチメンタルな一致

araki_nobuyoshi05.jpg

録画しておいた「週刊ブックレビュー」。ゲストは荒木経惟氏。昨秋刊行された『写真ノ話』をめぐるインタビュー。

回想を通した写真観。電通時代の習作、イタリアン・リアリズムの影響下にある『さっちん』、既に始まりと終わりが交錯していたという『センチメンタルな旅』、それにご両親の遺影にまつわるエピソードなど、当時の作品やその背景に関する荒木氏の想いが語られていく。

写真には生と死が入り混じっていなければならない。そう荒木氏は繰り返していた。妻と両親、大切な人の死を3回経験すると写真家になれる、と話しながら目に薄っすらと涙を浮かべる荒木氏はとてもアラーキーだった。インタビューがの終わりが少ししんみりしてしまい、それを気にして「...足りないねw」と照れ笑いしてたりして。とてもかわいい人だ。自分でもそう言ってたけど。

湿度が大切なのだ。現代的、未来的である必要はない、過去を引きずりながら生きていくのだ。という言葉が聞こえてきた時に、昨晩の『マグノリア』(過去記事)を思い出した。あれは偶然の一致によって複数の物語が交錯していたけれども、その偶然がこのインタビューにまで広がっているような気がした。

現在、荒木経惟氏の大回顧展がイギリスで開催中されていて、その後、欧州各国を巡回するそうだ。
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2005年10月27日

荒木経惟写真展 / 「飛雲閣ものがたり」

荒木経惟写真展 / 「飛雲閣ものがたり」 at epSITE (link)

カフェでココアを飲みながら、神経病者の言葉を読む。テキストは持ち帰ることができたのだ。オープンエアが心地よく、なんだか眠くなってしまう。それでもぼくは眠らずに、西新宿を目指した。

araki_hiunkaku01.jpg飛雲閣は、西本願寺境内南東の庭園、滴翠園と滄浪池に臨む三層柿葺の楼閣。金閣寺、銀閣寺と並ぶ、京都の三名閣に数えられる。荒木経惟氏は飛雲閣を訪れ、その楼閣と庭園の撮影を行った。撮影は1年以上、5度に渡って行われ、その作品は同タイトルの写真集として刊行されている。

*****

古都の国宝をアラーキーが撮る。なにかいつもとは趣向が違うな、という気がしたけども、実際の作品を眺めると、なるほどアラーキーの写真だと感心させられた。
展示されている作品は、全てエプソンのプリンターで印刷されたもので、そういったデジタルなプロセスで出力されたものであるにもかかわらず、どの作品からも、しっとりというか、ねっとりというか、そういった”湿り気”を感じることができた。

庭園の池が写された作品が多い。なめらかな水面には楼閣の影が浮かび上がり、その上には木の葉が散り落ちている。周りの石は雨に濡れているか、木の影がかかっている。「水」や「影」から強い湿り気を感じる。それにアラーキーの撮る影はとても深い。「影」というより「闇の入り口」といった印象。女性の身体や性器がそこになくても、その気配を感じてしまうような展覧会だった。
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2005年05月08日

「トーキョー・ファッション」 荒木経惟

araki_tokyo_fashion.jpg下北から歩いて帰る途中、 ふとギャラリーの看板に目が止まった。すかさずパチリ(クリックで拡大)。

茶沢通りにあるギャラリーで荒木経惟氏の展示会をやっていた。とても小さな企画で、タイトルは「トーキョー・ファッション」。ポラロイドの新作を50点弱ほど展示している。ふらりと入ったけど、短時間で鑑賞できた。荒木関連グッズも販売している。最終日は火曜。
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2005年03月16日

「森山 新宿 荒木」展 我儘で怠け者の覚悟

moriyama_shinjuku_araki.jpg午後遅めの時間に新宿へ。「森山 新宿 荒木」展を鑑賞。森山大道と荒木経惟、違うキャラクターを持つ作品同士が、新宿という街から放たれるエネルギーを通してリンクしているような印象。かなりエネルギーをもらうことができた。

作品数が多いのはやはりアラーキーだと感じた。圧巻だった。作品を眺めながら感じたのは、自分はまだ生きてないなということだ。生きることや死ぬことと繋がる根源的なもの、そういうものに触れた世界を見せつけられたというかなんというか。それに瞬間の切りとり方が凄いなと思った。写ってる通りすがりの人達の表情、目の表情なんかがとくに。歌舞伎町という街が持つエネルギーはキツイんだけど、それをまるごと飲み込みながら自分の世界を出し切ってるっていうか、とても力強い世界を感じることができた。

*****

今回の収穫は森山大道だ。いままであまり作品に触れたことがなかったのが悔やまれた。作品は濃密で重厚というか。ドキュメンタリーの「≒森山大道」(84分)が面白かった。彼の語る自身の写真や生き方というものにとても惹かれてしまった。

芸術が無から有を生み出すものだとすると、写真は既に存在するモノの映像を複写するものだから、芸術にはならない。だから観念的は捉えずに、そこからスタートする。とはいっても自分がシャッターを押すという以上、自身のなにかが作品の中に入り込む。観念的な芸術ではなく、かといってただの現実的な写真でもない、その狭間に大切なものがあるんじゃないか。ということを語ってらっしゃった。

70年代に入り、「写真よさようなら」で写真に対するある決着をつけた後の7−8年の間、森山氏は満足な作品を撮ることができなくなったそうだ。写真を撮ることをやめ、薬漬けの生活を送っていたらしい。ガリガリに痩せていたそうだ。しかしそれでも生き延びた。やりたくないことはやりたくない。そういう生き方には覚悟がいると。周囲からは我がままで怠け者だと言われるそうだ。

*****

去年ふたりが新宿で撮影している様子を収めたビデオも上映されていた。観ていてアラーキーの言葉を思い出した。写真を撮り始めた女の子に、どうやったらいい写真が撮れるかを訊ねられた時の言葉。彼は、姿勢を正して撮る相手ときちんと対峙することだと答えていた。

作品からエネルギーをもらい、怠け者の覚悟を授かって、帰る頃にはかなりテンションが上がっていた。かなり寒いけど気分は春だ。とりあえず金曜日遊ぶ予定をダブル・ブッキングしてみた。それを承知のうえでオファーをしてくれたのはとてもありがたいことだ。
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2005年03月14日

「アラキメンタリ」 最後はセンチメンタル

渋谷で「ARAKIMENTARI」。日曜最終回は1,000円。荒木経惟の姿を追ったドキュメンタリー。アラーキーの撮影現場や酒飲んで騒いでる姿、それに自身の言葉や、森山大道、ビョークなどのコメントなどによって構成されている。

arakimentari.jpg以前このブログに書いた記事のことを思いながら観てみた。舞踏家の麿赤兒氏が、アラーキーの作品の中にはエロスと死、それに祈りの要素が混在しているとコメントしていたけど、まさにその通りだと思った。性(生)と死の世界。その境界を象徴する女性器。そういったアラーキーの主題をあらためて感じた。


スクリーンを眺めていると、写真とは人生そのものなんじゃないかと思えてしまった。それはアラーキーにとって写真を撮ることがカメラを通した性行為であって、そして生死の境界と触れるための官能的な行為であることと繋がりがあるんだろう。写真は「センチメンタルな旅」だと彼は言う。清濁併せ呑むというか、身に降りかかるあらゆるものにまみれながら生きていくこと。矛盾を孕んだ様々なものを引き受けながら歩んでいくこと...うまくはまとまらないけど、人生のいろいろが頭の中をめぐった。

*****

新しい発見がふたつほど。アラーキーは東京の三ノ輪生まれだけど、東京大空襲を5歳のときに経験している。あと子供時代の遊び場。墓地で遊んだりもしてたらしいんだけど、そこは投込寺とも呼ばれる特殊な場所。遊郭の楼主が、死んだ遊女を投げ捨てる場所だったようだ。自分にとって、そこが東京の原点だと語っていた。東京にはエロスと死が混在していると。

なんか観ているうちにぐっときてしまった。ふと気づくと、隣の女の子は涙が止まらないみたいで顔を拭きっぱなし。それを気にしてたら、こっちはなんとか治まった。なんかセンチメンタルになっちゃう作品だった。

(関連記事:60年目 癒えない傷/2005/03/07)
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2005年02月19日

荒木経惟と境界

araki_nobuyoshi12.jpg

境界としての「闇」や「穴」のことを考えていたら、ふと荒木経惟さんのことを思い出した。以前このブログに書いたけれど、ぼくは高校生のときからアラーキーの大ファンだ。

彼のことを知ったのは高校の1年か2年の頃、だからもう20年以上も昔になる。写真好きの友人の家で見つけた「写真時代」という雑誌だ。位置づけが難しい雑誌で、エロ雑誌というか、非エロ雑誌的エロ雑誌といえばいいのか、ちょっと異様な雰囲気を持つ雑誌だった。

araki_nobuyoshi11.jpgアラーキーはその雑誌に「東京日記」という連載をもっていた。掲載される写真は女性の裸ばかりで、女性が大きく股を開いた姿や、その股間をアップにした写真が多かったと記憶している。そこには彼の女性の股間、性器に対する執着のようなものが感じられた。その雑誌を通して初めてアラーキーの写真に触れたぼくは、そこになにか得体の知れないものを感じた。とても欲情することはできない写真だったけれど、妙に惹かれるものがあったのだ。

ここのところ「闇」や「穴」、「悪党」などについて考えをめぐらせていて感じるようになったのは、アラーキーが撮る女性の股間はまさに「境界的な存在」なんだということだ。女性の身体を剥いて、この世の裂け目を露わにする写真。そう考えてみると、ぼくがアラーキーの作品に魅力を感じてしまうのは、作品の中に境界的存在がちりばめられてるからなんだということが理解できる。この世の境界とはとてもエロティックなものでもあって、「性」なるものは「聖」なるものと通じているということなんだろう。

*****

高校時代によく見てた11PMという番組で、この自称天才写真家が自らの「写真」を語っていたのを憶えている。ぼくはそれを観ていて衝撃を受けた。まさに目から鱗というか。それまでの考えでは、写真というものは構図だとか、光と影とか、カラー写真だったら色彩とか、そういう要素を組み合わせながら表現するもんだとばかり思っていた。しかし彼の写真に対するアプローチは違っていて、ぼくの写真に対する先入観はあっさりと覆されてしまった。その時に「アラーキー=天才」という情報が、ぼくの脳内に刷り込まれてしまった。ご自分でおっしゃってるくらいだから間違いはないだろう。

***

アラーキーとは東京で偶然2回ほど遭遇したことがあるけれども、話しかけることはできなかった。激しく緊張してしまい、どうしてもできなかった。

(関連記事:「悪党的思考」 悪党的感性の魅力/2005/02/10)続きを読む
posted by Ken-U at 17:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 写真(荒木経惟) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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