2015年02月26日

「さらば、愛の言葉よ」 次元の狭間で

Adieu_au_langage_1.jpg

2015年2月10日(火)

『さらば、愛の言葉よ』
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原題:Adieu au langage
場所:シネスイッチ銀座

初の3D体験はゴダールで。
Adieu_au_langage2.jpg

2Dと3Dの間を行き交う、さらに時空を越える映像世界に言葉を失う。男女の諍い。流血。森。犬。睡魔と戯れる時間帯もあったけれど、でも心地よかった。もう言葉は聞きたくない。ずっと映像を眺めていたい。犬が可愛いかった。
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2015年01月10日

『華氏451』 思想、表現の自由と死


Fahrenheit451_01.jpg

フランソワ・トリュフォー監督 『華氏451』 (シアター・イメージフォーラム)

原題『FAHRENHEIT 451』

書物が禁じられた世界。

近未来の世界が描かれている。モンターグは"fireman"。日々、書籍を隠し持つ家を捜索し、押収品を焼却する。帰宅すると、妻のリンダは壁掛け式のテレビ三昧。彼は吹き出しの無い漫画を眺めている。その日常は無味乾燥にみえる。

2015年1月7日、パリのシャルリー・エブド本社に覆面をした複数の武装したテロリストが侵入し、警官を含む12名を射殺した。その後、パリ市民は言論の自由を守るという名目のもと大規模なデモを実施する。
欧州人、とくにパリに住む人々にとって、この思想や言論の自由というものは社会の根幹をなす重要な要素なのだろう。先の事件とは逆に、本作では行政が思想を抑圧しようとするが、相手がテロリストにしろ、母国の行政府にしろ、個人が持つ思想、表現の自由は死守する。あちらの世界では、そうした考え方が強いのだな。と、現実を重ねながら、この半世紀近く前の映画を眺めた。
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2011年02月12日

「ゴダール・ソシアリスム」 NO COMMENT

ジャン=リュック・ゴダール監督 『ゴダール・ソシアリスム』 (TOHOシネマズ シャンテ)

原題: 『Film socialisme』

socialism.jpg大晦日。前作(過去記事)の印象を呼び戻しつつ、おそらくこの『ゴダール・ソシアリスム』もその延長線上にあるのだろう、と勝手に予測しながら劇場へ向かった。だが、結果、裏切られた。

海原に湧き立つ波、そのうねりに魅了された。色の配置もJLGらしく、とくに青と赤が滲むように鮮やかで、その彩度はめまぐるしく変化する音響と絶妙な均衡を保ちながら画を画として際立たせている。しかし、この荒々しさはどうだろう。曇天の下、吹き荒れる風は人体を吹き飛ばさんと船上を駆け、船内では、ディスコで鳴り響く爆音が踊る人々の身体を潰し、その肉体を粒子レベルにまで解体せんとしている。比較的おだやかにみえた前作とは対照的に、暴力的にも思える荒々しい映像、音響に圧倒されながら、この船はどこに向かうのだろう、史実は別として、その行く末に想いを馳せた。

客船も、片田舎の家族も、西欧の縮図と捉えていいのだろう。

「民主主義と悲劇は、ペリクレスとソポクレスのもと、アテネで結婚した。ただ一人の子供は、内戦である」

「自由は高くつく。しかし、自由はお金や血で買われるものではなく、卑劣さ、売春、裏切りによって買われるものである」

高度化の先に未来はあるのだろうか。JLGはなにも提示せず、「NO COMMENT」を貫く。私も本作の理解はあきらめ、ただ音と映像の迫力に酔いしれて、無言のまま帰路についた。
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2007年05月20日

「恋愛睡眠のすすめ」 恋に、そして妄想に溺れる

ミシェル・ゴンドリー監督 『恋愛睡眠のすすめ』 (シネマライズ)
原題:『LA SCIENCE DES REVES (THE SCIENCE OF SLEEP)』

妄想癖のある男がパリに移り住むと、そのアパルトマンの隣室に女が引っ越してくる。そして妄想がどこまでも膨らんでゆく。

la_science_des_reves00.jpg本当は創造的な仕事がしたいのに、新たな職場に出向くと、聞いた話とは違う恐ろしく退屈な作業を与えられた。これでは話が違う、といっても彼らは聞く耳を持たない。絶望的な気持ちになり、ふとあたりを見回すと、こちらの様子をこっそり伺っていた「同僚」たちが、その視線を各々のデスクへと落とす。淡々と作業を進める彼らの風貌は、どこか人間離れをしていて、薄気味悪い。彼らは、何を思いながら、この殺人的に平坦な時間をやり過ごしているのだろう...疲れ果て、部屋に戻った男は、意識が遠のく自覚もないままに自分の妄想世界へと還っていくのだった。

彼は、夢と、妄想と、現実の世界を分け隔てることなく、いや、その区別をうまくつけることができず、それぞれの境界を緩やかに越えながら、七転八倒、思い悩み続ける。自分が欲しいもの、恋しく思うもの、それが隣の女なのかどうかさえ判然としない。それでも、わけのわからない衝動は容赦なく彼を襲い続け、彼の意識を混乱に陥れる。彼は、おのれの妄想に溺れ喘ぎながら、女に助けを求めているだけなのかもしれない。

*****

男の無様な姿がとても滑稽に描かれていて、よく笑えた。とても笑いどころの多いコメディーなのだけれど、喜劇と悲劇が絶妙のバランスで溶け合っていて、最後には切なさが心の深いところに染み入ってくる。とても魅力的なのだが、無闇には人に薦められない、というか、薦めずにそっと隠しておきたくなるような作品である。

この作品の魅力に深みを与えているのは、主人公ステファンの同僚であるギィの存在だと思う。 ギィは、冴えない風貌をしたいわゆるエロおやじで、口を開けばすべてを性愛につなげてまくし立てるような中年男である。出会った当初は、彼はいかにも浅はかで下品な会社人であるようにみえる。そして彼は、自分は創造的な人間ではないのでこの世に痕跡を残すことに執着はしない、とステファンにいう。ステファンは、ギィの価値観には否定的である。しかし、ステファンはなにかとギィを頼るし、ギィもステファンを受け入れ、彼の相談に乗る。ふたりの会話はそれでもすれ違いがちなのだが、言葉を交わし続けるうちに、どちらの価値観が浅はかなものなのかが判らなくなり、次第にギィの存在感が増していく。さらには、ステファンが暴走して職場を放棄してしまった後、ギィが黙ってその尻拭いをこなすのである。ギィがみせるこの態度は示唆に富んでいる、とまではいわないが、強く印象に残る。

*****

すべてを引き裂きながら膨張を続けるこの宇宙の中に、ステファンとステファニーが結ばれるための余地は残されているのだろうか。せめて彼らが70歳になる頃までに、この世界の新たなあり方が示されればいいのだけれど。それまでの間、ステファンは、あの無様なふて寝を無限に繰り返さなければならないのかもしれない。
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2006年08月24日

「フランソワ・トリュフォー」 人生、それはスクリーンだった

アントワーヌ・ド・ベック / セルジュ・トゥビアナ編集
『フランソワ・トリュフォー』

1932年2月6日土曜日、ジャニーヌ・ド・モンフェランは男の子を出産し、フランソワ・ロランと名付ける。しかし、未婚の母であることがカトリックの古い道徳観に反することもあって、ジャニーヌは生まれたばかりの息子を里子に出すことにする。翌年、彼女はロラン・トリュフォーと結婚するが、フランソワを引き取ることはせず、そのかわりに、衰弱する一方のフランソワを見かねたジュヌヴィエーヴ・モンフェラン、ジャニーヌの母親が彼の受け入れを決意する。その後、1943年に、ロラン、ジャニーヌ夫妻が彼を引き取るまでの間、フランソワはこの世界から疎外された存在として生き続けなければならなかった。

truffaut01.jpg本書には、フランソワ・ロラン・トリュフォーの誕生から死に至るまでの52年間が克明に記されている。ここまで細かい情報を網羅することができたのは、手紙や請求書、薬の処方箋にいたるまでのあらゆる書類をトリュフォー自身がファイルし、自ら経営するレ・フィルム・デュ・キャロッスのオフィスに保管していたからだという。トリュフォーのこの”記録癖”は、無数の書類が詰め込まれたファイルだけに留まらず、彼によって撮影されたフィルムの中にまで及んでいる。つまり、少し大げさにいえば、トリュフォー作品は、彼自身の過去の断片をコラージュすることによってつくられているのだ。トリュフォーをこの執拗な”記録”に向かわせているのは、やはりその生い立ちが深く影響しているのだろう。自身の存在をこの世界に刻み込むことが、彼にとって最も重要な行為だったのだ。だからトリュフォーは、私的な作品を繰り返し撮影し、そこで主演した殆ど全ての女優と恋に落ちて(イザベル・アジャーニには逃げられた!)、仕上がった作品がひとりでも多くの人々に支持されるよう全力を傾けたのだ。

*****

波乱に満ちたトリュフォーの生涯の中でも、彼が映画監督になるまでの過程がとくに興味深く感じられた。
トリュフォーは比較的保守的な価値観を持った人間であるのに、本来身を置くべき世界からは疎外されてしまっていた。だから、彼は自分の居場所を半ば強引に奪い取ったのだ。文学的才能や得意の嘘などを駆使して、貴族階級や芸術家、批評家たちとのコネをつくり、「カイエ・デュ・シネマ」「アール」誌上で保守的なフィルム・ド・カリテ(良質な映画)の製作者たちを一方的に弾劾し、新しい作家の時代の到来を予言する。このトリュフォーの言動は新しい映画を求める若者たちの熱烈な支持を得て、この熱狂がこの後に訪れるヌーヴェルヴァーグの源泉となる。そしてトリュフォーは映画製作者の娘と結婚し、義父の出資を得て、自身の長編デビュー作である『大人は判ってくれない』を製作する。その後、この作品がもたらした成功によって、トリュフォーはヌーヴェルヴァーグの旗手として祭り上げられるようになるが、彼自身はここからヌーヴェルヴァーグ的な世界から遠ざかり始め、1968年の五月革命をきっかけとしてついに決裂する。政治的な運動と強くリンクしたヌーヴェルヴァーグから開放されたトリュフォーは、自身の”記録”に専念するための環境をつくりあげ、その中にこもっていくのだ。

とても複雑で、矛盾に満ちたトリュフォーの人格は、特別なものでありながら特別ではない、という気がした。それはある意味とても普通であり、とても人間らしいとさえ思える。考えてみればあたりまえのことなのだけど、優れた映画監督であれ誰であれ、普通の人間であることにかわりはないのだ。トリュフォーに対するその印象は、普通であるのにどこかしら魅力が感じられるトリュフォー作品ともどこかで繋がっている。
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2006年07月06日

「ジョルジュ・バタイユ ママン」 抑えられない衝動と海

クリストフ・オノレ監督『ジョルジュ・バタイユ ママン』。原題『MA MERE』

ピエールは父親とともにカナリア諸島を訪れ、母親ヘレンと再会する。彼女はもう若くはないけれど、それでも僕の美しいママンである。やがて父親は姿を消し、ママンは僕だけのものになった。しかしピエールが愛するヘレンは、その仮面を脱ぎ捨て、それまで隠していた本当の姿を剥き出しにする。

ma_mere00.jpg冒頭から、ヘレンと水の関係が幾度となく描かれる。彼女は水に濡れることを嫌ったかと思うと、深夜、酒に酔って、ドレスのままプールに飛び込み、泳いでみせたりもする。乾いた世界の中で仮面をつけ、妻として、また母親として振舞うヘレンと、夜の歓楽街でその仮面を脱ぎ捨て、ただ快楽に身を委ねる彼女の二面性が、水をめぐる描写によって描き分けられているような気がした。

そして、ヘレンはピエールを官能の世界へと導く。僕は畏れを感じながらも、その禁じられた領域へと踏み出そうとする。それは快楽とともに、強烈な苦痛を伴なう経験でもあった。僕を魅了する快楽の先には、死の領域が広がっているのだ。僕はまだ死にたくはない。でも、この世の先まで突き抜けようとする激しい衝動を、もはや抑えることができない。

*****

予想とは少し違って、生々しい、というか、とてもざらざらとした肌触りを感じる作品だった。観る前には、肉が溶け、体液と混ざり合いながらとろとろのスープになっていくような、そんな甘美な映像が映し出されることを思い浮かべたりもしていたのだけど、実際は違った。劇場へと足を運んだ人たちは、それぞれにある程度の覚悟をしていたのだとは思うけれど、それでも途中で退席してしまう人がいた。帰りのエレベーターの中で、あれはちょっとつらい、とこぼす男性もいた。ということから、この作品はバタイユの官能の世界を映像化することに成功している、といえるのかもしれないし、その逆かもしれない。原作を読んでいないぼくには、それはよく判らなかった。

水曜の夜に鑑賞したのだけど、ぼくにとってこの作品がいい映画だったのかどうかもまだよく判らない。ただ、キャスティングは素晴らしいと思う。とくに、イザベル・ユペールは自堕落なヘレンそのものにみえたし、ルイ・ガレルがみせる物憂げな表情も演技を超えているように感じられた。彼の場合は、この破滅的な物語と、彼自身の生い立ちに重なるところがあったのかもしれない。海岸の手前に広がる砂丘の上で、母なるものを求めて立ち尽くす彼の姿には、妙なリアリティーがあった。
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2006年04月18日

「勝手にしやがれ」 近代の自由恋愛と死

ジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ』。原題『A BOUT DE SOUFFLE』

近代の大都市パリに放り込まれたミシェルは、束縛を嫌い、どこまでも自由を求めるアメリカ女パトリシアに熱を上げ、そして破滅する。

a_bout_de_souffle01.jpg”海が嫌いなら
山が嫌いなら
都会が嫌いなら
勝手にしやがれ”


この作品を初めて観たのは20年ほど前だったと思う。当時住んでいた街の劇場で、この作品と『気狂いピエロ』がリバイバル上映され、その企画に足を運んだことを思い出した。当時、世間はバブル景気に沸いていて、ぼくはとにかく不機嫌だった。その頃の気分とこの2作品は、ぼくの心の中で妙にマッチしたのだった。それ以降も数回この作品を鑑賞しているけれど、30歳を過ぎてからは初めての鑑賞になると思う。

序盤で印象的なのは、ミシェルがひとりでパリの街を歩いているシーンで、彼が交通事故の現場に遭遇するところだ。ミシェルは目の前に転がっている死体の脇に腰を下ろし、それから軽く十字を切って、無感動にその場を立ち去る。ミシェルは突然の死に対する恐怖心を持ち合わせてはいない。彼は自分の運命をすでに受け入れているのだ。ミシェルの運命は、その交通事故の直前に映し出される"Vivre dangereusement jusqu’au bout!(地獄へ秒読み)"のポスターによって暗示されている。というか、さらに遡れば、この物語の冒頭でミシェルが田舎から都会へと移動すること、移動の際に「太陽は美しい」と呟くこと、そして拳銃を手に取ることなどから、既に彼の運命は決定されていたのだといえるのだろう。死を運命づけられたミシェルは、アメリカ女のパトリシアに惹かれ、そしてパトリシアはミシェルを死へと導く。破滅的な近代の恋愛がとても魅力的に描かれていると感じた。

*****

久しぶりの鑑賞で、その間、ぼくもそれなりに年を食ってしまったけれども、思いのほかこの若い作品を楽しむことができた。ジーン・セバーグはやはりハマリ役で、とても美しく撮られており、彼女を中心として交わされる、というか、交わされずにすれ違い続ける会話のやりとりにも惹かれるものがあった。男は自分が破滅に向かっていることが理解できはいるが、決してそこから抜け出ることはできない。閉塞状況の中、湧き出る感情は複雑に入り混じりながら男を疲弊させるが、彼は最期の時が訪れるのを待つしかない。
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2006年03月06日

「ポーラX」 闇に溺れる

レオス・カラックス監督『ポーラX』。原題は『Pola X』。劇場公開以来2回目の鑑賞。

ピエールは美しい母親と優雅な暮らしを送っている。彼らの世界は柔らかな光に包まれているが、やがてその光の世界は闇に覆われ、暗闇の奥からひとりの女が現れる。サラエボから来たというその女イザベルは、ピエールの腹違いの姉だと名乗る。イザベルとの出会いはピエールを変えてしまう。彼は覚醒し、あるいは覚醒したのだと思い込み、母親と婚約者を捨て、イザベルとともにこの世界の向こう側へと堕ちてゆくのだ。

pola_x05.jpgピエールにとって、イザベルと婚約者リュシーというふたりの女は自身の鏡であり、分身のようなものであるのだろう。

光の世界で愛し合うピエールとリュシー。しかし、リュシーの顔は隠されている。バスルームでピエールに抱擁されるとき(このショットは鏡越しに撮られている)、ウエディング・ドレスを試着するとき、ピエールに別れを告げられるときのいずれも、リュシーの顔は何かに覆われ、隠されているのだ。それは、ピエールが覆面作家として成功を収めていることと繋がりがあるのだろう。彼は多くのものを得ており、満たされているようにみえるが、それでも何かが欠けている。その”欠けている何か”が”顔”として表現されている。

ピエールはもうひとりの分身、イザベルにその”顔”をみつける。サラエボというヨーロッパの闇から現れた彼女は、ピエールの心の闇を映し出している。ピエールは彼女に導かれるように暗闇の中へと足を踏み入れてゆく。暗闇の中には秘密が隠されており、その秘密に触れることによって真実を見出すことが出来る、と彼は直感したのだ。しかし、彼の無謀な行動がもたらしたものは混乱と破壊のみであった。闇は全てを引き裂き、黒く塗り潰してしまうのだ。

*****

まだうまく掴むことができない。とくにピエールとリュシー、そしてティボーの三角関係がよく解らない。かつては一体であった"3"が"2"と"1"に別れ、その"1"が資本主義と強く結びつくという構造は、キリスト教の三位一体の概念と繋がっているようにも感じられる。が、その先はよく解らない。このあたりは、ハーマン・メルヴィルの原作を読むと解るのかもしないけれど、そこまで深追いする気はないので、次回の鑑賞でもう少し理解を進めたい。

*****

昨秋、BSで放送された成瀬巳喜男の特集(過去記事)を観て、レオス・カラックスのことを思い出した。本格的な春が来る前に彼の作品を観たかったのだけど、未だ新作の公開予定も立っていないようなので、この作品を観ることにした。主人公が光の世界から闇の世界へと堕ちていく、という設定は『浮雲』と通じている。また、境界を渡る際に、線路やトンネルが舞台としてつかわれるところにも、成瀬の面影を感じることができた。

ところで、カラックスの新作はどうなっているのだろう。"Scars"は頓挫してしまったのだろうか?新しい作品が完成するのを心待ちにしているのに。彼自身が『ポーラX』の世界を生きているのではないかと気を揉んでしまう。難解でも、時代遅れでもいいから、是非とも作品を完成させてほしい。カラックスにはそれだけの魅力があると思う。
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2005年12月08日

「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」 Why can't we live together

フランソワ・デュペイロン監督の『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』を鑑賞。劇場公開に続いて2回目。ユダヤ人の少年モイーズ(モーゼ)がイスラム系の老人イブラヒムと出会い、共に旅をするまでの過程が描かれている。

monsieur_ibrahim_01.jpgモイーズはモモと呼ばれている。モモは部屋の窓から通りを眺めている。娼婦たちが客を引く様子を眺めているのだ。彼は決心する。小さい頃から貯めていた小銭を取り出し、通りに出る。イブラヒムが営んでいる食料品店でそれを両替し、見よう見真似で娼婦たちに声をかける。

前半は、娼婦たちや近所の娘との触れあいの中で、モモが愛と性の経験を積む過程が描かれている。
娼婦たちから子供扱いされていたモモは、家にある本を売りさばきながらカネをつくり、足繁く娼婦たちの許へと通う。そのうちに馴染みになり、娼婦たちから一人前の男と見做されるようになる。
しかし、娘との恋愛はうまくいかない。想いが通じたと思ったら、他の男に盗られてしまう。恋愛は複雑な成り立ちをしているというホロ苦い事実を、モモは知る。娼婦との色事のようにうまくはいかないのだ。

モモはイブラヒムの食料品店で万引きを繰り返しているうちに、イブラヒムと親しくなる。イブラヒムはイスラム教徒で、モモにコーランを教えるようになる。コーランには全てがあり、そこから必要なものが学べるのだという。

後半は、イブラヒムとモモが辿る旅が描かれる。ふたりのイスラム世界への旅。パリを出て、スイス、アルバニア、ギリシャを通り、トルコへと向かう。イブラヒムの生まれ故郷である「黄金の三日月地帯」へと向かうのだ。

*****

物語は軽妙なリズムを刻みながら進んでいく。ときどき笑いがあり、優しい気持ちでモモの旅を見守ることが出来る。その旅路で、モモが目にする景色はとても美しいものだ。

この作品の背景には宗教の問題があるのだろう。モーゼはイブラヒム(またはアブラハム)と出会い、コーランに触れる。そしてユダヤの世界を離れ、モハメッドを名乗り、イスラム世界へと向かう。そして、アブラハムの魂を受け継ぐのだ。

ぼくには一神教の知識がないのだけど、アブラハムの下では、モーゼもモハメッドも同じ息子であるという意味が示されているような気がする。現在、深い溝を抱えているユダヤとイスラムの間を、アブラハムを通して繋ぎ直そうとする意図があるんじゃないだろうか。

この作品は、イスラム寄りの視点で描かれているけれども、イスラムが他の宗教よりも優れているのだといいたいわけではないのだと思う。あくまでも、融和がその主題になっているのではないだろうか。オープニングとエンディングで流れる、Timmy Thomasの「Why can't we live together」という曲に、その意図が集約されているような気がした。
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2005年11月18日

「バルスーズ」 母性回帰の旅

ベルトラン・ブリエ監督の『バルスーズ』('73)を鑑賞。母性回帰の旅を描いたロード・ムービー。

荒廃したフランスの田舎町。荒涼とした団地の敷地内で、中年女を追い掛けまわしているピエロとジャン=クロード。ふたりは仕事にも就かず、必要なモノ、カネは盗みを働くことで賄っている。女が欲しいときは、美容院で働くマリー=アンジュに会いにいく。彼女は抵抗することもなくふたりを受け入れるが、そこに悦びはない。ただ乾いたセックスがそこにあるだけだ。

コンクリートで塗り固められた巨大な団地やショッピング・モール。乾いた世界に閉じ込められている若者は、もがき苦しんでいる。ふたりは生まれながらにして、すでに多くのものを奪われてしまっているようにみえる。彼らに残されているのは、暴力への衝動だけなのかもしれない。だから彼らは奪い続けるのだろう。彼らにしてみれば、奪われてしまったものを奪い返しているだけなのだ。
フランスに飛礫を打ち、ふたりは乾いた世界から抜け出そうとする。そして彼らの旅が始まる。

*****

ふたりにはあらゆるものが欠けているけれども、最も深く欠落しているのは母性だ。だから追い回した中年女の出産経験に拘るし、子供に母乳を与えている女に絡んでは、カネと引き換えに乳房を吸わせてもらうのだろう。

les_valseuses02.jpg旅の途中、ふたりはある壮年の女とすれ違う。この出会いはふたりが通過する儀式のようになっていて、ここから物語のトーンが微妙に変化していく。浜辺で海を眺める3人のショットが象徴的に描かれている。やがてその海は満潮を迎える。そして3人は交わり、儀式の後、女は消える。ふたりが生まれ直す様子がここでは描かれているようだった。

女とすれ違った後も、ふたりの運命に変わりはなく、果てのない旅は続けられる。ただ、あの無縁の女との出会いによって、何かが変化した。まず女性との関わり方が変わった。マリー=アンジュはふたりの「娼婦」から「恋人」へと昇格し、ふたりの旅に加わって、初めてのオーガズムを経験する。そして3人は水の溢れる森の中へと移動する。山の自然の中へと入っていく。この山(と水)は母性を象徴しているのだろう。

*****

前半は、苦しさが痛いほど伝わってくるので辛くなってしまう。ただ後半からトーンが変わり、ラストはハッピーエンドで結ばれているようにも感じられた。何も救われてはいないけれども、何かが救われたような気がしてしまう。そこがこの作品の魅力になっているんじゃないだろうか。

[M]さんのおかげでこの作品のことを知ることができた。感謝感謝。
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2005年11月05日

「家庭」 この世界との繋がり

フランソワ・トリュフォー監督の「家庭」を鑑賞。原題は「DOMICILE CONJUGAL」。「夜霧の恋人たち」に続く、ドワネル・シリーズの4作目にあたる作品。

domicile_conjugal03.jpg家庭を築いたアントワーヌとクリスチーヌ。クリスチーヌは、まだ人妻には見えないほど初々しく、とても魅力的に描かれている。トリュフォー監督は、彼女の美しい脚を執拗に追い続ける。

ドワネルはあいかわらず。職にも就かず、自宅下の中庭で、花を染める実験を繰り返している。「赤が足りない」。アントワーヌはそう叫ぶと、白い花の束を赤く染めようと実験を始める。白かった花は見事に赤く染まるが、1輪だけは染まらずに白いまま束の中に残っている。その理由はアントワーヌにもわからない。アントワーヌの試行錯誤は続く。実験がうまくいけば、染めた花で商売ができると彼は企んでいるのだ

そんなアントワーヌを、クリスチーヌはやさしく見守っている。彼女がバイオリンの教師をすることで、家計が支えられている。彼に対する彼女の両親の眼差しもとても暖かい。この親子のおかげで、アントワーヌはこの世界と繋がることができている。子供の頃、アントワーヌが失ってしまったものが、そこにはある。だからアントワーヌは、クリスチーヌだけではなく、彼女の家族のことも強く愛しているんだろう。そしてクリスチーヌは、彼とこの世界を繋ぐことのできる唯一無二の存在なのかもしれない。

*****

例の実験に行き詰ったアントワーヌは、またもや人生の分岐点に立たされてしまう。アメリカ企業への就職と妻の妊娠。そして新しい恋。別の世界から現れ出たキョウコに、アントワーヌは強く惹かれてしまったのだ。彼はどうしてもその魅力に逆らうことができなかった。アントワーヌがアントワーヌである限り、その悪癖は治まることがないんだろう。

浮気がばれてしまったアントワーヌは、この世とあの世の境界を右往左往するしかない。この世とはもちろんクリスチーヌのいる世界、あの世はキョウコのいる世界だ。しかし、あの世はあの世でしかない。生きていながらあの世の中に根を張って暮らすことなど、できるわけがないのだ。

夫婦の危機に陥りながら、別れようにも別れきれないアントワーヌとクリスチーヌ。ふたりの関係は危機的なものになってしまったが、その結末は曖昧なままだ。そしてふたりの運命は、続編へと引き継がれていくのだった。

*****

前作と比べると、やや陰りのようなものを感じてしまう作品。物語のトーンもそうだけど、作品自体の出来にもそれを感じてしまった。
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2005年11月01日

「アワーミュージック」 隔たれた世界を繋ぐもの

ジャン=リュック・ゴダール監督『アワーミュージック』 (日比谷シャンテ)

原題:『NOTRE MUSIQUE』。

notre_musique.jpg冒頭から10分間、戦争に関する様々な映像がスクリーンに映し出される。フィクションとドキュメンタリーが混在した、映像のコラージュ。戦場で戦う兵士たち、あたりには多くの死体が転がっている。死体は血まみれだったり、焦げて膨れあがったりしている。「地獄」と題された第1部が、この作品の入り口となっている。

そして第2部の「煉獄」。ジャン=リュック・ゴダールがゴダール自身として出演している。そのほかにも、本人役で出演している芸術家が数名いる。彼らは自身の言葉を語っている。しかし、この作品はドキュメンタリー・フィルムとして製作されているわけではなく、かといってフィクションというわけでもない。あるいは、ドキュメンタリーであり、フィクションでもあるようにつくられている。

複雑な歴史を抱える街、サラエボが第2部の舞台となる。歴史に引き裂かれたこの街で開かれる「本の出会い」というイベントで、ゴダールは講演を行う予定になっている。そこに集う人々によって、「煉獄」は紡がれる。サラエボの街に、イスラエルとパレスチナの対立が重ねられる。さらにネイティブ・アメリカンと白人の関係も。

「本の出会い」では、文字について多くが語られている。文字が紡がれることで物語が生まれ、歴史がつくられる。フィクションが生み出される。文字と戦争は、深い繋がりを持つ。文字を持たない未開社会には歴史もなく、大量殺戮を伴なう戦争も必要とはしてないのだから。

デスクの前に腰掛け、本にしがみついている白人がいる。彼の前にネイティブ・アメリカンのふたり組みが現れ、言葉をかける。しかし白人は反応しない。ここでは、白人(=近代・文字社会)と、ネイティブ・アメリカン(=未開・神話的社会)の間に横たわる断絶が、象徴的に描かれている。

対立関係、あるいは支配・被支配の関係によって隔たれた世界。その断絶が、サラエボを舞台に幾重にも重ねて描かれている。しかしゴダールは、この重層的な断絶を、観る者の目の前に放り出すだけではなく、むしろ映像作家として繋ぎ合わせようとしているようにみえる。この作品自体が、フィクションとドキュメンタリーを繋ぎ合わせ、融合させながら構築されているところに彼の姿勢が象徴的に示されているようだった。

映画とは何か。彼の言葉は示唆に富んでいる。破壊的な時代には、破壊に匹敵するような創造の革命が必要とされる。暗闇に向かい、新しい旋律を生み出すこと。この時代を生き延びる個人が、身の丈に合ったかたちで、あるいは少しだけ背伸びをしながら、その姿勢をみせること。そうして生み出される旋律の集合体が、「アワーミュージック」なのかもしれない。

*****

出会えてよかったと思える作品だった。繰り返し鑑賞したくなるような。ただ、ほかのゴダール作品と同様、受けた印象を言葉にすることが難しい。とりあえず、今の時点で思い浮かんだことを書き留めておく。
posted by Ken-U at 23:20| Comment(2) | TrackBack(7) | 映画(フランス) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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