2005年10月25日

「太陽がいっぱい」 死に向かう男たち

ルネ・クレマン監督 『太陽がいっぱい』

アラン・ドロンというと、ぼくは自分がまだ子供だった頃を思い出す。彼はこの日本でも大スターだった。というか、この国の人々はフランス以上にアラン・ドロンという俳優を崇めていたと思う。それは今ではありえないくらいの熱狂振りで、彼が77年に来日したときの歓迎振りは、社会現象と化していた。

あともうひとつ、8年ほど前に観た、ある映画のことも思い出す。渋谷で観た、「ニコ・イコン」という作品。波乱に満ちたニコの半生を追ったドキュメンタリー・フィルムだ。

その作品の中で、アラン・ドロンのことが話題にのぼる部分がある。ある時期、ニコはドロンと性的関係を持っていて、その頃の様子を当時の関係者が証言しているのだ。そこに登場したある女性のアラン・ドロンに対する言動は、強く印象に残るものだった。「彼は肉屋の息子だから...」とその女性は語っていた。その顔は、口にするのも汚らわしいといった、侮蔑の表情に満ちていた。アラン・ドロンは貧しい環境で育った男で、彼の父親が営んでいた肉屋は、社会的にも低い層にある蔑視の対象となるような職業なのだ。

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plein_soleil01.jpg本作においてアラン・ドロンはトム・リプレーという男を演じている。トムもまた貧しい階層の生まれで、裕福な連中の中に紛れ込んではいるけれども、彼らからは常に蔑まれるような存在として描かれている。アラン・ドロンがこのトム役を怪演した背景には、彼自身の生い立ちや彼の生き様があるのだと思う。彼もトムと同じように、すべてに飢えた男だったのだろう。

この作品の内容については、故・淀川長治氏の視点に尽きるような気がする。トムはフィリップの全てが欲しかったわけだし、フィリップもトムの元を離れることができなかった。そしてふたりの再会を象徴するように、ラストでは1艘の船が海に浮かぶのだ。そこでふたりは永遠に結ばれるのだろう。

しかし、この作品をゲイの恋愛を描いた物語として限定してしまうのはもったいないような気もする。これは思いつきだけれども、キム・ギドク監督の「サマリア」がレズビアンを描いた作品ではないように、この作品も単にホモセクシャルを描いた作品ではないといえるのかもしれない。

「サマリア」と「太陽がいっぱい」では、物語の構造が逆転している部分が多くみられる。男女の性が逆になっていて、死ぬ人間も逆になっている。父親との関係も逆だ。「サマリア」は生に向かう物語だけれど、「太陽がいっぱい」は死に向かっている。東洋と西洋の違いがそうさせるのか...これ面白い思いつきだなと思ったけど、単なるコジツケのような気もする。

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TVでこの作品を初めて観たのは小学生の時。洋上での殺人、パスポートの偽造、サインの模写などのシーンに気分が高揚したことを今でも憶えていて、この作品を観るたびに当時の感情が蘇る。そしてあの音楽。ニーノ・ロータによるサウンド・トラックはとても美しい。懐かしさとともに、子供の頃の自分と再会するような気持ちにさせられる作品だった。
posted by Ken-U at 15:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画(フランス) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

「柔らかい肌」 乗り遅れてしまった男

フランソワ・トリュフォー監督の「柔らかい肌」を鑑賞。不器用で口下手な男が演じる不倫劇。

自分の想いを言葉に換えながら、それをうまく相手に伝えることができない男。トリュフォー作品に登場する主人公の男たちにはそういうタイプが多い。つまり口下手な男。文学少年として育ち、そして「書く」から「撮る」道へと進んだトリュフォー自身が、とても口下手な男だったんだと思う。肝心なことを口することができず、大切なものを失ったりしたんだろう。
この「柔らかい肌」に登場するピエール・ラシュネーもまた、トリュフォー的に口下手で、その性格が彼自身の人生を大きく狂わせてしまう。その過程が描かれた作品だった。

le_peau_douce02.jpg冒頭、ピエール・ラシュネーの家。文芸評論家のピエールは出かける準備をしている。彼は講演のためにリスボンへ発たなければならないのだが、準備が遅れ、フライトに乗り遅れそうになっている。家政婦つきの広いアパルトマンで、美しい妻、それにかわいい娘と慌しく過ごすピエールの姿がそこでは描かれている。

ピエールは、友人の好意で空港まで送り届けてもらう。そこから空港で飛行機に乗り込むまでの描写がとても印象的だった。
出発直前にチェックインしたピエールは、スタッフに連れられて滑走路へと急ぐ。飛行機を見上げると、タラップが機体から外されかけている。しかし、そのタラップが再び機体に繋ぎ直されることで、危機一髪、ピエールはフライトに間に合うのだった。
友人の助けによって、離ればなれになりそうだったものが再び繋がり合う。そしてピエールは救われる。冒頭から綴られるこの描写は、反転しながら結末に重ねられている。

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そして機内で知り合ったキャビン・アテンダント、ニコルと恋に落ちたピエール。そこでも彼は、肝心なことを言葉にすることができない。

ある日、ピエールはニコルに会うために空港を訪れる。彼女が既に出発したものだと勘違いしたピエールは、旅先の彼女に宛てて、自分の想いを電報で打とうとする。しかし、文面を書き終えたところでニコルをみつけたピエールは、その紙を握り潰し、捨ててしまう。そこに、ピエールという男の性格が凝縮されているようだった。

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靴や脚に対するフェティシズムや、部屋の灯りの描かれ方など、映像的にも楽しめる作品だと思う。ただ、様々なところで繰り返し映し出される数字が何を意味しているのかはよく判らなかった。

それにしてもピエール・ラシュネーという男は、講演で流暢に話しをすることができても、私生活の中で大切な言葉を発することはできない。彼には苛立ちさえ覚えてしまうけれども、裏を返せば、自分自身と重なるところがあるということなのかもしれない。そんなことを考えてしまった。
posted by Ken-U at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(フランス) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月16日

「突然炎のごとく」 近代に排除される女

フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎のごとく」を鑑賞。原題は「JULES ET JIM」

少し前に、TVで偶然ジャンヌ・モローをみかけた。深夜の、それもかなり深い時間帯に放送していた「アクターズ・スタジオ・インタビュー 」。歳を取った彼女の顔は皺だらけではあったけど、それでもやっぱりジャンヌ・モローはジャンヌ・モローだった。よい歳の取り方をしていて、とても魅力を感じたし、彼女の言葉から感じるものも多かった。彼女の出演作が観たいと思っていたら、いいタイミングでこの作品が放送された。

jules_et_jim02.jpg舞台は1910年代のパリ。ジュールとジムは、文学を通じて友情を深めた親友同士。そしてふたりの間にカトリーヌが現れる。モダンな男女は、古い風習に囚われることのない、自由な恋愛を求めていく。

カトリーヌはジュールと結ばれる。彼女はジムにも惹かれていて、ジムも彼女を想っているけれども、ふたりは微妙な距離を保っていて、それが3人の友情を維持させている。
カトリーヌはイギリスとフランスの間、貴族と庶民の間に生まれた女で、中流というものを知らない。性格も直情的で、極端から極端へと振れてしまう。結婚した後も、他の男と恋に落ち、何ヶ月も帰らないこともあった。そんなカトリーヌを、ジュールは静かに受け入れている。

近代は男と女を自由にし、かつ孤独にもしてしまう。カトリーヌも、ジュールもジムも孤独で、自分の居場所がない。彼らは恋愛と結婚の間で揺れている。そして近代が生み出す自由が、彼らを引き裂いてしまう。

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ジムとジュールの友情を結びつけたのは、互いの国語と文学だった。そして男女を結び付けているのは手紙。手紙の中に綴られた言葉の力で恋が高まり、ふたりは近づいていく。そして幻滅し、別れてしまう。そして男女は再び手紙へと向かう。

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近代における自由、そして恋愛と孤独が、柔らかい陽の光や、深い霧がもたらす暗闇に包まれながら描かれている。そして男よりも自然に近い存在である女が、自然と近代の間で揺れ動いていく様子を、ドナウ河畔の山村とパリを対比することによって描いていた。
周囲の男を翻弄しながらも、何かに突き動かされ、破滅してしまうカトリーヌの姿を、ジャンヌ・モローが魅力的に演じきっている。フランスとイギリスの間に生まれた彼女とカトリーヌの間には、どこかしら通じるものがあるのかもしれない。
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2005年07月06日

「夜霧の恋人たち」 不服従と脱走の反復

baisers_voles.jpg昨晩もフランソワ・トリュフォー作品。「夜霧の恋人たち」を鑑賞。「大人は判ってくれない」のその後、成人したアントワーヌ・ドワネルの姿が描かれた作品。

軍隊に所属していたアントワーヌが、上官から除隊を言い渡されるところからこの物語は始まる。その理由は「不服従と脱走の繰り返し」。それはまさにアントワーヌの人生そのもの。軍隊から解放された後も反復される、アントワーヌの不服従と脱走の様子が軽妙なコメディーとして描かれている。

とにかく職を転々とする。ホテルの夜勤係、探偵、テレビの修理屋。なにをやってもうまくいかない。探偵をやっても肝心の尾行がうまくできない。マジシャンの尾行にも失敗してしまう。尾行のない仕事が与えられ、店員として靴屋に潜入するけれど、そこでも失敗ばかり繰り返している。

それでもアントワーヌは飄々としていて、人生を楽しんでいる。娼婦と遊び、靴屋の社長夫人と恋に落ちる。彼の悦びは女性と読書の中にしかないのかもしれない。彼の不服従と脱走の顛末は、恋人であるクリスティーヌとの結婚というハッピー・エンドというかたちで、とりあえずは結ばれている。しかし、彼の脱走劇はこれ以降も続いていくのだろう。

本ばかり読んでいるアントワーヌが、自分の愛を手紙や筆談で伝えようとするところはとてもトリュフォーらしいと感じた。それに「脱走」「娼婦」「探偵」「手品」などの辺境的要素が散りばめられているところに魅力を感じてしまう。それにしても、トリュフォー作品に出演する女優たちはみな綺麗だ。
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2005年07月05日

「ピアニストを撃て」 女を守れない臆病な男

tirez_sur_le_pianiste.jpg昨晩、NHKにてフランソワ・トリュフォー監督の「ピアニストを撃て」を鑑賞。

場末のカフェでピアノを弾く内気な男シャルリが、ある事件に巻き込まれてしまう様子を描いたサスペンス。とはいっても、前半のトーンはとても淡々としたもので、後半に入ってようやくエンジンがかかる。それにサスペンスとして観ると、少し退屈な作品なのかもしれない。

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シャルリはかつて、エドゥアール・サローヤンという著名なピアニストだった。彼がピアニストになるまでの背景には感じるものが多い。彼は雪深く貧しい村で生まれ育った。ピアノの才能が見込まれてパリの学校に入り、ピアノ教師になる。そして馴染みのカフェのウエイトレスであるテレザと恋に落ち、ふたりは結婚する。

幸せな結婚生活を送る2人にやがて転機が訪れる。エドゥアールが音楽事務所からスカウトを受けたのだ。彼はプロのピアニストとなって成功を収めるが、テレザとの関係は破綻してしまう。テレザを見殺しにしてしまったエドゥアールは、名前をシャルリと変えて姿を消し、場末のカフェで別の人生を送る。そしてウエイトレスのレナと恋に落ちる。

事件に巻き込まれたせいで、シャルリは自分が生まれ育った村を訪れる。兄のシコは彼を歓迎する。手の届かない遠い世界へ去ってしまったと思っていた弟が、自分たちのもとへと戻ってきたからだ。兄とのやりとりを通して、シャルリは自分が背負っている運命を呪う。

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出会った女たちを犠牲にしながらも生き延びるシャルリ。背負わされた運命は、受け継いだ血によるものなのか、それとも己の臆病さのせいなのか。答えは出ないまま、彼はいつものように、ピアノと向かい合う。その姿がとても印象に残る作品だった。まずまずの出来。
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2005年06月28日

「スイミング・プール」 奔放な無意識

swimmingpool.jpgレンタル料金半額キャンペーンを利用して、フランソワ・オゾン監督の「スイミング・プール」を鑑賞。久々のフランス映画。

フランソワ・オゾンっていう人は、やっぱりスキルが高いなと思った。ミステリー作家のサラの心情がとても丁寧に描写されていて、彼女の心の動きを追うだけで楽しめてしまう。というか、そこがこの作品のメインになっていた。

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人気作家として長いキャリアを持つサラは、とても神経質で非社交的な女。出版社の社長であるジョンの薦めで、彼女はロンドンを離れて南仏を訪れる。気分をリフレッシュしながら執筆するために、ジョンの別荘に滞在することにしたのだ。南仏の太陽と、別荘の静かな環境は、サラの気分を少しずつ和らげていく。

別荘での暮らしに馴染みかけたある夜に、ジョンの娘だというジュリーが突然現れる。奔放に立ち振る舞い、地元の男たちと見境なくまぐわうジュリー。彼女の姿に苛立ちながらも心惹かれていくサラ。ひとつ屋根の下で過ごすうちに、ふたりは少しずつ心を通わせるようになる。

キャスティングもハマってる。シャーロット・ランプリングはもちろん、リュディヴィーヌ・サニエがとてもいい。演技もそうだけど、彼女の顔つきや体は奔放なジュリーそのもの。とくにヌードがとてもいいですよね。そしてサラの心情の変化の過程が、彼女の表情やメイク、そして着ている服などを通して緻密に映像化されているのがとても印象に残った。
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2005年05月19日

「軽蔑」 愛を失ってもただでは転ばない男

le_mepris03.jpg半額レンタルで観る旧作。ジャン・リュック・ゴダール監督の「軽蔑」。観るのは10数年ぶり。

この作品を観た理由は、このまえ星野智幸の「アルカロイド・ラヴァーズ」を読んだ際に、この作品のことを連想したから。あの小説の冒頭部分を読んでいて、この作品の冒頭シーンが連想された。

その冒頭は映画の撮影現場。アンドレ・バザンの言葉がナレーションで引用される。


「映画とは欲望が作る世界の視覚化である
『軽蔑』はこの世界の物語である」


そして撮影中のカメラがこちらを向く。ここがとても印象的。

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昔観た作品を再度観なおすことは面白いということを再認識させられた。この作品の映像やセリフの中にも多くの発見があったけど、知識不足のせいでまだ掴みきれてはいない。初めて観たのは20代の時だった。当時は美しい映像と音楽に魅せられながら、愛を失う男の物語に浸ることにばかりに気持ちが向かっていた。若かったんだなあ。

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フリッツ・ラングが監督する「オデュッセイア」の製作現場が物語の主な舞台。そこに劇作家ポール(ピッコリ)とカミーユ(バルドー)が現れる。「オデュッセイア」では神々と闘うユリシーズとプロメテウスの姿が描かれている。この作品のプロデューサーはアメリカ人のジェリー。ジェリーは、映画制作の現場で神のように振舞おうとしている。ここでは、この愚かなアメリカ人と作家たちの関係が、「オデュッッセイア」の構図と重ねられている。

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2005年04月09日

「グラン・ブルー」 海底に惹きつけられた男

lebrandbleu.jpg「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」を鑑賞。リュック・ベンソン監督。

貧しい漁師の息子として育ったジャックは、子供時代に唯一の家族である父親を亡くしている。海中で漁をしている最中に事故が発生してしまい、父親は海底の闇の中へ消えてしまった。その光景を、ジャックは漁船の上から見ているしかなかった。この経験によって、ジャックの運命は決められてしまったのかもしれない。そして彼は世界的なダイバーとなる。

海底は人間を超越した力が支配している世界だ。太陽の光が届かない闇の世界。海はあの世への入り口。ジャックはダイバーとして、あの世とこの世の間を行き来している。その行為は祈りのようでもあり、死と再生の儀式のようでもある。ジャックは潜ることで死の世界と触れている。

ジャックは父親と同じようにアメリカの女と恋に落ちる。そして女の体内には新しい命が芽生えるが、女の愛情がジャックに届くことはなかった。アメリカの女にジャックの魂を救うことはできない。それはジャックの母親がアメリカ人で、ジャックがまだ幼い時に、ジャックのもとを去っていることとも繋がりがある。ジャックは父親と同じ道を辿りながら、父親と親友エンゾの待つ海底へと消えていく。そのラストはとても美しい。

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2005年04月07日

「かごの中の子供たち」 フランスのカナリア

de_bruit_et_de_fureur.jpg「かごの中の子供たち」 ジャン=クロード・ブリソー監督

"今まで幾度も血が流れた
大昔 まだ人の掟のなかった時代に"



物語の舞台は郊外。少年ブルーノは鳥かごを片手に母親の住む団地を訪ねる。それまではCAF(家族救済施設)で暮らしていた。鳥かごの中のカナリアは施設で知り合った少年から譲り受けたもの。ブルーノにカナリアを渡した後、その少年は自殺してしまった。

ブルーノの新しい暮らし。そこに母親の姿はない。外で「仕事」をしている。ブルーノは部屋の掲示板に貼られたメモで母親からのメッセージを受け取るだけ。可愛がっているカナリアの名前は「スーパーマン」。夜になるとブルーノはカナリアをカゴから放つ。カナリアはあたりを飛び回りながら部屋の奥へと消えていく。カナリアの後を追うと、ブルーノは幻を見ることができる。幻の中でカナリアは女へと姿をかえている。

ブルーノが編入した学校は荒廃している。クラスメイトは見るからに社会の低い階層で生きる子供達だ。そこでブルーノはジャン=ロジェと親しくなる。ジャン=ロジェは教師も手を焼くほどの不良生徒だ。団地の中では放火の常習犯。それにバイク泥棒。悪い仲間もいる。仲間とはレイプや美人局。抗争の時はナイフに銃、そして火炎瓶をつかう。ブルーノがジャン=ロジェのうちに遊びに行くと、父親は働きもせず、部屋の中でショットガンを撃ちまくっている。そして車泥棒の常習犯でもある。母親は売春で家計を支えている。ブルーノはジャン=ロジェの部屋でビデオを見る。見ているのはポルノとゾンビ。スナッフ・ビデオも見せてくれるとジャン=ロジェは言う。

ジャン=ロジェは疎外感と憎悪の塊のような存在。担任の美しい女教師がブルーノに目を掛けるようになるが、ジャン=ロジェは担任とブルーノの間を引き裂こうとする。父親の愛情が兄のティエリーだけに注がれていると感じていて、兄を憎んでいる。そしてジャン=ロジェがティエリーの恋人をレイプするところから、この絶望的な憎悪と暴力の物語に拍車がかかっていく。

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2005年03月11日

「大人は判ってくれない」 逃走の先にあるもの

truffaut00.jpg「大人は判ってくれない」フランソワ・トリュフォー監督。うちにある古いビデオ・テープを整理していたら、かなり昔に録画しておいたテープを発見したので鑑賞した。

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アントワーヌの両親は共働きである。父親は甲斐性がなく、母親はいつも不機嫌でたまに不倫をしている。この夫婦の関係は冷め切っているようにみえる。さらに、学校に行けば無駄に威厳を振り回す教師がいるし、アントワーヌにとって大人の世界はろくなものではない。だから、友人と学校を抜け出して遊びまわるのだ。しかし、サボりがばれては両親に叱られ、そして家出を繰り返す。彼の素行は悪くなるばかりだ。

学校を休んだことを教師に問い詰められたアントワーヌは、母親が死んだせいだと嘘をつく。でもこの嘘は嘘ではない。この時、彼は両親を心の中で殺してしまっていて、人生を自分の力で生き抜こうと決心しているのだ。その後、ある事件を起こしたアントワーヌは父親の判断で鑑別所送りになってしまう。

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アントワーヌは繰り返し大人の世界から抜け出そうとする。学校をサボっては街で遊び歩き、そして家出をする...印象的なのはあのラスト・ショットである。鑑別所から脱走したアントワーヌは懸命に走り、海へと辿り着く。彼の目の前に広がる海は生死の境界を意味している。その境界領域で足を濡らしながら彷徨うアントワーヌ。その表情は強張り、不安に満ちている。この少年の表情には、トリュフォー自身が抱えるある心情が投射されているのだろう。

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もうひとつ印象的だったのは、母親の提案によって親子三人で映画を観に行くシーンだ。その晩は親子で盛り上がり、幸せな家族の時間を過ごしているようにみえる。子供時代に同じような経験をして、トリュフォーは映画のマジックに触れたのかもしれない。彼が映画の世界へと進んだ背景が垣間見えたような気がした。

ここで話は飛ぶけれど、以前、TVで志村けんがお笑いの世界へ進んだ理由について話しているのを思い出した。子供時代、TVでお笑い番組が流れている時にだけ、自分の家庭が明るくなったように感じたのだそうだ。優れたコメディアンが悲惨な過去を背負っていることは多い。抱えた負のパワーを笑いへと昇華することによって生き延びることができるのだろう。その技もまたマジカルだと感じる。

トリュフォーは、映画がもたらす奇跡の時間を再現するための道を選んだ。映画監督という仕事は、彼にとってとても大切な意味があるんじゃないだろうか。

(関連記事:「夜霧の恋人たち」 不服従と脱走の反復/2005/07/06)続きを読む
posted by Ken-U at 18:55| Comment(6) | TrackBack(2) | 映画(フランス) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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