2010年09月11日

「エロマンガ島の三人」 異界への旅、その心に刻印を残す

長嶋有著 『エロマンガ島の三人』 (文春文庫)

エロマンガ島で、エロマンガを読む。

eros_manga.jpg表題作以外に、SF、ゴルフ、官能、犯罪を扱う作品が収められていて、長嶋有の小説としては、それぞれ『夕子ちゃんの近道』(過去記事)以上に異色な出来だと感じた。

エロマンガは、南洋に浮かぶ実在する島の名前である。という表題作の前提を知らないまましばらく読み続けた。しかし気づいたとき、そんな名前の島が実在するんだ、珍妙だな。と少し面白がったりはしたけれど、それ以上にどうということはなく、実際、作中においてもその駄洒落は駄洒落であるがゆえにあまり重要な意味づけはされてなくて、男たちが企画で島に持ち込んだエロマンガも、むしろ邪魔もののように、なおざりに扱われてしまう。

南の孤島という非日常の世界。その眩い太陽の下で、あるいは深い森の闇の中で、男三人、心の浄化がされたのかといえばそうでもなく、ただ島の人々の瞳はきらきらとして、星も瞬き、暗いはずの夜空もどこかきらめいて感じられて、たぶん、もうそれだけでよいのだ。その短い滞在で得られた経験は彼らに深い刻印を残し、その生涯になにかしらの、ささやかな影響を与え続けるだろう。男たちは、その記憶を脳裏にしまいこみ、それぞれの日常に戻ってゆく。

表題作のほかによかったのは「青色LED」。殺人の経験はないはずないのに、人殺しにどこか共鳴する自分がいた。あと、やくざな女と溺れるような色情を経験したわけでもないのに「ケージ、アンプル、箱」もよくて、ベランダから抜け出すあの醒めたシーンがなぜか印象に残っている。学生のころ、半裸で押入れに隠れた経験があるからなのだろうか。もちろん、その訪問者はやくざではないのだけれど。
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2010年04月25日

「われら猫の子」 砂の世界を生きる

星野智幸著 『われら猫の子』 (講談社文庫)

猫とは無関係の短編集。

hoshino_cat01.jpgしばらく前に読んだので、記憶が溶けてしまって内容がはっきりとは思い出せないのだけれど、話が進むにつれてあの世に近づく感があり、加速度的に読み進めた。

始めは、作中の会話が会話になっておらず、登場人物ふたりの間で交わされるべき言葉が交差せずに、そのまま並行にこちらに向かって投げかけられているようで、それが平坦に感じられ、あるいは長い説教、あるいは演説を聞かされているような気分になり、なかなか作品に入りこむことができなかった。でも、「チノ」あたりからになるだろう、舞台がこの世から離れていくにしたがって、幻想性が増し、その毒に酔うことができて、そこから作品世界に没入した。

私はカミの悲哀が理解できた。それは、書き手である私が常にさらされている恐怖だからだ。自分の滅亡と引き替えに書くことは始まるからだ。でも、作家になるということはその覚悟を決めることだ。いや、作家に限らない。継承を実践していくとはそういうことで、誰もが引き受けなければならない。(p.138)

私が壊れ、溶けてしまうことにより、悦びが湧きあがって、同時に跡を継ぐものが生まれる。引用部分に付箋を貼ったのは、当時、自己を滅することと、神と、結ばれと、ムスコ、ムスメのことなどを散漫に考えていたからだろう。
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2010年04月24日

「悪人」 棄てられた魂の行方

吉田修一著 『悪人(上・下)』 (朝日文庫)

馴染みのある土地が舞台であることも手伝って、久し振りに吉田修一の小説を手にした。

badguy01.JPG始めは平坦で、人々の渇いた暮らしぶりが、例えば「ルイ・ヴィトン」などの目に見える記号を通して子細に描かれていて、その描写が几帳面すぎるのか、それとも喩えが古いのか、まあその両方なのだろう、正直、読んでいて退屈を感じたのだけれど、前編の途中、祐一の登場をきっかけに作品世界が一変した。彼は、この小説の中で、温度を持つ唯一の人間だと思う。しかも、その血は熱くたぎっていた。そしてその熱くたぎる血の温度が周囲に伝播して、渇いた人々の魂を揺さぶり、巻き込みんで、悲劇の渦をかたちづくっていく。その様子に引き込まれて、読みながら、何度となく電車を乗り過ごした。

親に見棄てられた男が、親戚に引き取られ、その恩に縛られながら閉塞した世界を生きる。その有様に胸を締めつけられた。彼にとって、唯一の逃げ場が自動車だったのだろう。車を運転している間は、あらゆるしがらみから解き放たれ、ここではないどこかへ行くことができる。小説や映画において、車はしばしば共同体の比喩として描かれると思うけれど、本作において車は孤立した個人を表していて、それが印象に残った。

「悪」とは何か?「悪人」とは何者なのか?という問いが読み手に投げかけられているのだと思う。祐一は悪人なのか、偽悪者か、それとも被害者なのか?では、悪いのは誰か?当然のことながら、その答えを出すことはできない。話の結び方がよかったのかどうか、よくわからないところもあったけれど、棄てられた人間が抱える心の傷、その傷は一生癒えることはないのだけれど、ひきずらなければならない傷の痛み、また、その傷跡にさらなる暴力を受けたときの動揺、怒りなど、それらの描写に様々な感情が湧きあがり、心ゆれた。
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2010年03月21日

「此処彼処」 その先に広がる闇、彼岸

川上弘美著 『此処彼処』 (新潮文庫)

訪れた場所の記憶。その数々。

kokokashiko.jpg川上弘美の小説を読み進めていると、その世界にただならぬ気配を感じ、そこに不思議な魅力を感じたりするのだけれど、本作はエッセイであるにもかかわらず、とくに前半は小説を読むときのように得体の知れない怖さのようなものがあって、その、現実と創作の境界が曖昧になるところが味わい深く感じられた。

実際、平坦にみえるこの世にも抜け穴というか、落とし穴というのか、そういう得体の知れない通路のようなものがあって、おそらく、その道の先にはあの世の闇が広がっているのだと思う。そしてその暗闇は、たぶん、タイトルにある「彼処」の、そのさらに先の方、奥深い部分と繋がっているのだ。たしかに、この世は闇に覆われている。
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2010年01月07日

「権現の踊り子」 この世の歪みに足を取られて

町田康著 『権現の踊り子』 (講談社文庫)

短編集。表題作を含め、七編。

gongen.jpgこの世のゆがみに足を取られ、男は七転八倒する。もがき、苦しむ。なぜ俺ばかりが。当て所なき問いを呪詛の如く繰り返すうちに曇天、意識が遠のいてゆく。

話の筋が荒唐無稽で、そのうえ超現実的な場面に度たび出くわすにもかかわらず、ふと気づくと小説の中の男たちに我が身を重ねている。滑稽でありながら、悲惨で、切なくなるというか、この世に生きることの泣き笑いが複雑に交差しながら脳内をめぐる。

とくに印象に残っている場面は、「工夫の減さん」の中で、白昼、二日酔いの男が布団に包まりもぞもぞするところで、どんな体勢をとろうが己の苦しみを取り払えるわけでもないのに、その呪わしい現実から目を逸らせて気を紛らわそうと、ああでもない、こうでもない、と寝返りのたうちまわるのだけれども、その男の無様で滑稽な様子に己の生き様を見た。

町田康の小説を読むたびに、この世が滑稽で哀しい成り立ちをしていることを再発見する。追い討ちをかけるように、たしかにこんなんだよなあ、と思う。で、しばらくするとまた次を読みたくなるのだ。わたしは彼の小説にいったいなにを求めているのだろう。
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2009年12月31日

「きりぎりす」 肥大化する自我の迷路、醜きもの、美しきもの

太宰治著 『きりぎりす』 (新潮文庫)

太宰、中期の短編集。表題作を含む十四篇。

kirigirisu.jpg先日読んだ『富嶽百景・走れメロス』(過去記事)とほぼ同時期の作品群が収められている。が、こちらの方が作品の幅が広い。たとえば、「風の便り」、「水仙」のような、肥大化する自我の迷路を巡るばかりの、ある意味で太宰らしい自虐的な描写の目立つ作品もあって、いまの自分には、どちらかというと『富嶽百景…』の方がしっくりくる。十代の頃は、たしか初期や末期の作品を好んで読んでいたように記憶しているのだけれど、加齢のせいか、好みが少し変わったようだ。

本書の中でとくに好きだったのは、「皮膚と心」。この作品も「女学生」のように、女性の口を借りながら太宰の芸術観が語られている。

だって、女には、一日一日が全部ですもの。男とちがう。死後も考えない。思索も、無い。一刻一刻の、美しさの完成だけを願って居ります。生活を、生活の感触を、溺愛いたします。女が、お茶碗や、きれいな柄の着物を愛するのは、それだけが、ほんとうの生き甲斐だからでございます。刻々の動きが、それがそのまま生きていることの目的なのです。他に、何が要りましょう。(p.115-116)

醜さと美しさの狭間で揺れ動き、七転八倒する。醜さとは、美しさとは。答えの出ぬ問いにまみれ、その渦の中でもがきながら溺死したのが太宰治という芸術家なのかもしれない。
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2009年09月13日

「富嶽百景」 純粋の美とはなにものか

太宰治著 『富嶽百景・走れメロス』 (岩波文庫)

芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である。(p.238)

fugaku02.jpg太宰治を読むのはおよそ四半世紀ぶり。久しぶりに読んでみたけれど、あの頃と同じような心持ちで読むことができて、それが新鮮に感じられてよかった。

流れるような、柔らかな文章の中に、思わずはっとさせられるフレーズがある。短篇集なのだけれど、その並びもよい(あとで確認してみたら、時系列に並んでいただけだったのだけれど)。いろいろな文体のヴァリエーションもあって、しかしそのどれもが太宰治らしく感じられ、つくづく言葉の扱いのうまい人だなと思った。

十代の頃、本ばかり読むと馬鹿になると思っていたので読書はしなかったけれど、それでもいくらかの小説を読み、あの頃は、たしか太宰治を好んでいたと記憶している。当時、彼の小説のなにがよかったのだろう、思い返してみると、やはり心地よい言葉の流れと、それになにより、彼の創造に対する真摯な姿勢にうたれたのだと思う。全身全霊をかけて、芸術に身体ごとぶつかってゆくその態度に共鳴していたのだ。

美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。(p.108)

しかし純粋に美を求める存在をこの世がゆるすわけはなく、彼もまた瀕死のまま作家活動を続けなければならなかった。絶望の中、海に身を投げ、首を括り、それでも死ねずに七転八倒。いったい純粋の美とはなにものなのか。それにしても、この世はなんて滑稽で哀しい成り立ちをしているのだろう、と想いをめぐらせながら、窓から遠い西の空を眺めた。

人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものではないからであろう。多くの場合、人は、いつのまにか、ちがう野原を歩いている。(p.236)
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2009年08月10日

「夕子ちゃんの近道」 過去の再編成、新たな価値の創造

長嶋有著 『夕子ちゃんの近道』 (講談社文庫)

瀕死のフラココ屋とその周辺。いろいろな人たち。

yuko_chan01.jpg長嶋有はいつも小さな世界を描く。しかも、描写されるのは目に見える些細な物事ばかりだ。しかし、その例外として記憶の領域があり、それがアクセントとして作品世界に味わい深いゆらぎを与えている。現実に目に見えているものではなく、かつて見た物事に対する描写。それはもちろん脳内で再編成された過去であるので、かつてみた現実とは少しずれがあり、それは知覚した現実が脳内で断片化し、ほかの記憶や妄想が入り混じることで生成されるある種の異界だということができる。彼の作品では、その異界がこの世の抜け穴のような役割を担っていて、なにかの時に主人公がふとそこに潜り込み、浸りながら時空を超えてあれこれ想いをめぐらせるのだけれど、その振り返りが作品世界に膨らみを与え、不思議な魅力を湧き立たせる。

でも、この『夕子ちゃんの近道』には過去の描写がない。少し噂話が添えられる程度で、あとはほぼ今だけが語られる。ただ、そのかわりに異界の役割を担っているのが「フラココ屋」なのだと思う。そこでは価値の転倒があり、既成の価値観から少しはみ出た人たちの心を惹きつけ、それぞれを繋ぎ合わせている。この摩訶不思議な魅力あふれる自称アンティーク店には、ところ狭しと過去の遺物が並べられている。断片化した過去と、その再編成。そして新たに生まれ直す価値。人間の創造のプロセスとフラココ屋の在り方にはどこか似たところがあるように思える。だから意外に多くの人たちの気を惹くのだろう。

ただ、忘れてはならないのはフラココ屋は瀕死の状態であること。意外に多くの人が関心を持ち、それなりに入店もあるけれども実売は乏しいのが現実で、その経営は厳しくなる一方だ。なんとなくいいなあ、なんて思いながら、そしてその存在の危うさが薄々わかっているとしても、誰もそこにカネを落とすまではいかないのだ。いうまでもないけれども、それがこの世の常なのである。

「買わないファンなんて」店長はけっという顔をした。(p.46)

はたしてフラココ屋に未来はあるだろうか。やはり、潰れてから、手遅れになってから、その存在を惜しむ声が上がったりするのではないだろうか。ああなんて冷酷な世界なのだろう、と落胆する一方、私は私なりのフラココ屋を持たなければ、と想いを巡らせてみたり。
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2009年05月04日

「正直じゃいけん」 愛の炸裂、自己と他者の溶解

町田康著 『正直じゃいけん』 (ハルキ文庫)

ルール:負けたものが勝者になる

s_jaiken.jpg初春、旅のともにと思い購入した。このエッセイ集には、これまで読んだ町田康のほかのエッセイと同じように、彼自身の日常、あるいは周囲で起きる諸々の出来事に対する彼の態度、思考、妄想などが面白おかしく綴られている。飛行機の中で、序盤からうくくと笑いを噛み殺したりと楽しみながら読み進めた。

しかし、ゆるゆると読み流すことができなかったのが「愛の炸裂」の部分。ここには、町田康が想いを入れる他の作家やその著作に寄せた文章が収められている。とくに、中島らもに関する文章には町田康の強い想い、深い愛が溢れていて、よく知りもしない中島らものことや彼と町田康の関係などについて空想したり、ふと気づくとそれとはまったく関係のない人生のいろいろ、この世の成り立ちについて妄想を膨らませたりと時空を超えた。

他者について語ることは自己を語ることに等しいと思う。とくに、想い入れの強い人、物事について語るときにその傾向は顕著となる。愛の炸裂の中で、内部と外部の境界が溶け、両者があやふやに混じり合ってしまうのだろう。これ以降、他人やいろいろな物事に対してどれだけ深く想い入れができるだろう、愛は炸裂するのだろうか、などと想いを巡らせてるうちに、降下、着陸。
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2009年04月27日

「上海」 近代に引き裂かれた男、女

横光利一著 『上海』 (岩波文庫)

多人種が入り乱れる1920年代の上海。街に暴力の気配が増す中、男は一発の銃弾を目撃する。

shanghai01.jpg当時の上海は、この世の縮図のような場所だったのかもしれない。街には路地が縦横に走り、そこにあらゆる類の商店、民家、あるいは飲み屋、売春宿などが軒を並べる。その背後には高層ビル群がそびえ立ち、汚物まみれの黒ずんだ街を見下ろしている。そこに暮らす男たちはある種の閉塞状況に陥っており、その危うい均衡の中で、街が暴力によるカオスに包まれることを待ち望んでいるようにみえる。街は、不気味なひとつの流動体の如く振舞いながら、彼らを丸呑みにしたまま暴力の渦の中へと没入してゆくのだ。

話は参木を軸に進められるけれど、それと並行してお杉の生き様が描かれていて、その対比が本作に奥行きを与えている。とくに、お杉の視点からこの話が結ばれるところに好感を持った。

男は女を欲していて、女も男に想いを寄せているにもかかわらず、彼らは交わることなくすれ違い続けなければならない。なにかの価値観から、いや、価値らしい価値などどこにもないのかもしれないけれど、男は女を拒み続けるのだ。行き場のない女は娼婦に身を落とし、男は死に場所を求めるように街をさまよう。救いなき世界。終わりのない暴力は極限まで膨張を続ける。
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2009年01月04日

「うつろ舟」 諸行無常

澁澤龍彦著 『うつろ舟』 (河出文庫)

表題作など八編。

utsuro-bune.jpg本書を読み終えて数ヶ月がたち、その記憶はすっかり霞んでしまっている。たしか、大人向けのお伽噺のような短編集だったと思う。ある日、どこからともなく女が現れ、男と交わって、ふたたび姿を消す。その女はいったい何者だったのか、あの肉体は、得られたはずの悦びは果たしてこの世のものだったのかどうか。そのすべてが判然とせぬまま男は途方に暮れ、女をさがしてさまよい歩くうちに行方知れずとなる。

仕事に疲れ、殺伐としたこの世にうんざりしているときに読んだので、よい息抜きになった。この世に確かなものなどありはしない。すべては虚ろ、幻想に過ぎないだ。
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2008年12月29日

「ニシノユキヒコの恋と冒険」 ニシノユキヒコは存在しない

川上弘美著 『ニシノユキヒコの恋と冒険』 (新潮文庫)

十人の女たちが、ニシノユキヒコを回想する。

nishinoyukihiko01.jpg気分転換がしたくなり、女性の小説で軽く読めるものをと思い購入した。が、考えが甘かった。このタイトルの軽さにすっかり騙されてしまったのだ。冒頭、女がふとニシノのことを思い出し、するとニシノがすぐ傍にいるような気がしてきて、その気配に動揺する間にこの世ともあの世ともつかない不気味な領域へと意識をシフトさせていくのだけれど、その描写にぞくぞくしてしまい、気づくと作品世界の深みにずっぽりはまっていた。はまりながら、これは川上弘美によるある種の寝技ではないか、みたいなことを思った。絡めとられてしまうと、もう抜け出すことができないのだ。

十人の女たちが、ニシノユキヒコなる存在を、彼との恋愛を思い起こす。読み手は、それぞれの記憶を組み合わせつつ脳裏でニシノの像をかたちづくっていくのだけれども、その輪郭はいつまでも霞んだままではっきりとはしない。それはどこか掴みどころのないニシノの性格のせいなのか、それとも恋愛というあるんだかないんだかはっきりとしないふわふわとした概念のせいなのか、よくわからない。ただ、この世とは確かにそういう成り立ちをしているんだよなあ、と漠然と思う。恋愛という人間の心の揺らぎが、ニシノユキヒコという存在を曖昧にし、ついには彼をこの世から消し去ってしまう。とても残酷な話なのだけれど甘美なところもあり、その複雑な味わいに魅了された。
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