2008年11月16日

「夫婦茶碗」 近代の妄想、そして自滅

町田康著 『夫婦茶碗』 (新潮文庫)

妄想世界に逃げ込め。

meoto_jawan.jpgうだつのあがらない男が、いよいよ追いつめられて妄想世界へと逃避していく。その様が、滑稽に、そして哀しく、無残に描かれている。

とにかく、生き延びるにはカネが要る。カネが要るのでなにかしなければならないのだが、男は、こつこつとした労働の積み重ねではなくして、おのれの創意工夫でその困窮を乗り切ろうと足掻きだす。一発逆転の発想である。がしかし、彼のその創意を支える想像力はどこか歪んでいて、創造というよりはどちらかというと破壊的などす黒い妄想であり、だから彼のたどる道は恐ろしく暗い闇に包まれている。彼は、その闇の奥底へと向かう負のスパイラルをじたばたしながら転がり落ちていくのだった。

まさに人間の屑。もうどうしようもない。しかし、屑であるとしてもこの世に生を受けたからにはその命を全うしようとあがくのは当然で、その様が、いかに愚かで、醜く、賤しいものであるとしても、それを責めることは誰にもできはしない。というか、人間はそもそも愚かな生き物であり、だから株価も大暴落するのだし、次々と経営が破綻するのであって、つまり人間の屑とは、そうした人間の愚かさを一身に背負ったある種の身代わりであるといえる。しかし、身代わりであることを受け入れようとしない、あるいはその自覚すらない人間の屑は、その性根が屑であるがゆえにおのれの愚かさをこの世に晒し、撒き散らしながらわけのわからんことを叫ぶしかない。その一形態を、パンクと呼ぶ。


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2008年11月02日

「なんくるない」 閉塞した世界の破れ、生と死

よしもとばなな著 『なんくるない』 (新潮文庫)

女の生きづらさと沖縄。表題作ほか四編を収録。

nankurunai.jpg最初の「ちんぬくじゅうしい」と「足てびち」が少し読みづらかった。というのは、たぶんこの二編で描かれる世界がその語り手である女性の中で閉じてしまっているからだと思う。主人公と近しい世界を生きる女性の読者にはいいのかもしれないけれど、僕の場合、なんだかんだいっても男である、だから作品世界との距離が詰められず、感情移入が難しかったのだろう。途中、読むのをあきらめようかな、とさえ思った。

けれども、表題作の「なんくるない」で世界が変わる。異なる世界に生きるひとりの男が、その閉じた世界を覆う膜を破り、その裂け目から女の内部に侵入しようとするのだ。女もどこかそれを期待していたのか、その侵入者を抵抗することなく受け入れようとする。そうしてふたりが交わり、異なるふたつの世界が混ぜ合わされることによって、それまで閉塞していた女の世界が活性化し、彼女の意識の中になにかが芽生える。

読み進めながら、やっぱりお父さんの影響が強いのだろうか、とか、半年ほど前に沖縄で死んだ自分の叔父のことなどを想った。沖縄の太陽と海は眩しく、人の心を惑わす。人を、生かしたり殺したりする。
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2008年08月15日

「浄土」 穢れ者、浄土に焦れる

町田康著 『浄土』 (講談社文庫)

穢土に身を置き、浄土を想う。

jodo01.jpg人生は滑稽で、同時に哀しくもある。そんなこの世の在り方を、町田康は細部の積み重ねにより見事な小説に仕立て上げる。でもこの作品の場合、『パンク侍…』(過去記事)や『告白』(過去記事)にくらべると哀しみがやや後退しているせいか、描かれている作品世界がより殺伐として感じられる。それは本作の舞台のほとんどが現代の都市であることと関係があるのだろうか。時代劇とは違って、作品世界がより身近に感じられるだけに、私がいま抱える殺伐とした感覚がこの小説群に重なって感じられるのかもしれない。

冒頭の「犬死」から引き込まれる。毎日、碌なことがない。碌なことがない中、男はジョワンナ先生の存在を知る。抑鬱的で滅入る心。気分は下降線をたどる一方である。がしかし、こうして落ち込めば落ち込むほど、心の中のジョワンナ先生が膨らんでしまう。気分がたどる下降線と反比例するように、ジョワンナ先生に会いたいという気持ちが上昇していくのだ。というか、もう会わなければ救いがない、というところまで男は追い込まれてゆく。

ここで巧いなあと思うのは、男の気分の落ち込みと株価の暴落が見事に重なるところ。読んでいて、ああもうすべてが破滅に向かっている、という気分にさせられる。というか、日常の隙間の中で私自身が覚える破滅感が思い出され、この文章の流れに重なり、大きな流れとなって心の中で濁流と化すのである。

たしかに、碌なことはない。終末を感じることもしばしばである。しかし、それでも朝が来れば顔を洗い、糞を垂れ、身支度をして足早に地下鉄の駅へと向かうのだ。娑婆ではもう糞まみれである。しかも、来る日も来る日もどぶさらえをしている。もう辟易する。そして帰宅後、シャワーで全身の糞を洗い流し、飯を食らい、眠り、また起きあがって、糞をたれ糞まみれになりながらさらにどぶさらいの毎日を続けるのだ。この糞まみれは死ぬまで続く。こうなったらもうやけ糞、糞食らえである。
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2008年07月13日

「ねむり姫」 まどろみの中、獣との交わり

澁澤龍彦著 『ねむり姫』 (河出文庫)

夢うつつ。

nemuri-hime01.jpg本書を読み終えて二ヶ月近くが過ぎ、その記憶はすでに朧、ここに収められる六編がどんな作品だったか、その輪郭は脳中ですっかり曖昧になってしまっている。

物語の舞台は、中世から近世にかけたこの国のどこか。といっても、描かれているのは現実世界ばかりではなく、夢というか幻想というか、読み進めるうちに、超現実的な世界とつながるある種の境界領域をゆらゆらと漂うような感覚がある。この世とあの世、夢とうつつの間を往来しつつ、まどろみの中、虚ろな時を過ごす。その心地よさ、とでもいうのか。また、時代物でありながら、ふとした瞬間に語りが現代調になるなど、町田康とつながる演出を見出せたり、連なるタマのイメージの中にバタイユの影響を感じとったりと、意識をあちらこちらへ飛ばし巡らすことのできる気分転換にぴったりの一冊だった。
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2008年05月06日

「予告された殺人の記録」 不合理な死、生贄の儀式

G. ガルシア=マルケス著 『予告された殺人の記録』 (新潮文庫)

原題:『CRONICA DE UNA MUERTE ANUNCIADA』 / 野谷文昭訳

その男は殺される運命にあった。

cronica_de_una_muerte_anunciada01.jpgこの作品は、コロンビアのある田舎町で実際に起きた殺人事件をもとにした小説である。訳者のあとがきによると、ガルシア=マルケスは、当初、この事件のルポルタージュを作成するつもりだったのが諸々の事情でそれを断念しなければならなくなり、その後、関係者がこの世を去ったのちに、この事件をフィクションとして小説というかたちにまとめることにしたのだという。

そうした経緯もあって、本作に登場する「わたし」は、報道記者の立場をとりながら事件の経過を淡々とした語り口でたどっていく。その冷徹な視線によって、それに冒頭で被害者の悲惨な運命がすでに明らかにされていることから、その男がたどる結末だけではなく、そこに至るまでの過程においてすでに町中に陰惨な空気が漂っており、その視線の冷たさと殺人行為が生み出す熱の対比がこの事件の悲劇性を際立たせている。

ところで、男はなぜ殺されなければならなかったのだろう。その理由はあるにはあったのだけれども決定的なものではなかった。実際、彼を殺そうとする男たちは凶器を手にしながら躊躇していたのだ。「わたし」が言うように、男たちはむしろ誰かが止めてくれるのを待っていたのかもしれない。しかし、誰も彼らを止めようとはしなかった。立場上、制止する振りをする者はいても、最後は男たちから目を離してしまう。そうするうちに、彼らは凶器を振りかざして男を滅多切りにしてしまうのだ。彼らは自らの意思で犯行に及んだというより、そうせざるを得ないところまで追い詰められてしまったのである。事件までの過程を追っていると、なにか目には見えない力が人々を殺人へと駆り立てているかのように思えてくる。町の住人がみな殺人を欲しているように思えてくるのだ。町中の誰もがこの殺人劇に加担している。男はあの兄弟に惨殺され、かつ町の住人たちに黙殺されたのだ。そうすると、この事件の原因をあえて挙げるとすれば、それは人間の殺人への欲望であり、この事件はある種の供犠であって、殺された男は生贄であり、その前夜に執り行われた盛大な結婚式は供儀の前夜祭である、と考えられる。しかしそれでも、なぜこの町が生贄を必要としたか、という疑問は残るのだけれど。

人間はみな心の奥底に得体の知れない闇を抱えていて、その暗闇はなにかのきっかけで人間を殺人へと突き動かす。禁欲を美徳とする神父ですら、遺体解剖をきっかけとして、内に秘めていたはずの残虐性を人前で平然と曝してしまうのである。社会は常に生贄を求めている。
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2008年05月04日

「告白」 近代の自滅的妄想、人殺し

町田康著 『告白』 (中公文庫)

もう殺すしかない。

confession01.jpg河内十人斬り。この作品は、明治期の河内地方で起きた実話をもとにした小説で、赤坂水分という村の博徒であった城戸熊太郎と谷弥五郎による殺人劇がその題材となっている。しかし、これはなにかで読んだのだけれど、実話といってもこの事件に関する資料はほとんど残されておらず、町田康はこの悲劇を小説化するにあたって、調べ上げた事実を繋ぎ合せるという手法をとることをあきらめ、自らを城戸熊太郎という人物そのものに重ね合わせ、同化させることでこの事件に接近しようと試みたのだという。そのアプローチは『告白』という本作のタイトルにも反映されており、たしかに読み進めていると、10代の頃に読んだ『人間失格』などを思い起こしたり、近代画家が描く自画像のことなどを連想したりと、社会の近代化にともなって浮かび上がる個の輪郭と、その脆弱な境界線によってかたちづくられる個人という存在、その危うさから止め処なく湧きあがる不安に突き動かされ膨張を続ける自滅的な妄想のことなどに思いをめぐらせてしまう。

つまり、この『告白』に登場する城戸熊太郎は城戸熊太郎であるのだけれども同時に町田康でもあるのであって、さらには、読み進めていくうちに、ひょっとすると熊太郎はわたし自身でもあるのかもしれない、とさえ思えてくる。なぜなら、作中、いくつかの場面で、たとえば、いよいよ熊太郎が髪を乱したおぬいの姿に出くわしてしてしまったというときに、わたしの感情は熊太郎を追い越すように乱れ昂り、からだの中に流れる血をカーッと煮えたぎらせてしまうのだ。そのとき、わたしはわたしの中にたしかに熊太郎という人殺しが存在することを体感する。実のところ、わたしは人殺しであるのだ。ただし、わたしはわたしの手で人を殺めることをしない。という意味では、わたしは熊太郎よりもむしろ彼の周囲の人間に近いのかもしれない、とも思えてくる。なぜなら、熊太郎にしてみれば、周囲の人間どもは、おのれの手を直接汚すような下手な真似をしないだけで、みな等しく暴力的な存在であるのだ。実際、彼らが振るう目には見えない無数の暴力が熊太郎を、弥五郎を追い詰め、ふたりに最後の一線を越えさせてしまう。本作は、河内十人斬りという悲惨な殺人事件を軸に据えながら、その殺人劇の経緯を直線的に追うだけではなく、この社会に蔓延する無数の暴力をそこに絡ませ、この悲劇の背景である暴力の集積体としての社会の在り様を細やかに描くことによって、暴力の渦にのまれ圧しつぶされるように破滅していく熊太郎の救いのない在り様を際立たせようとしている。ただひとつ難をいえば、女性の描き方があまりに平坦なので、女性が本作を読んだときにどう感じるかという点が気にかかるけれども、その弱点を差し引いても強い魅力を感じる小説だった。

熊太郎は殺人という許されざる罪を犯してしまった。しかし、彼はその手で人を殺す前から殺人の罪に苛まれている。彼は、すでに気づいていたのかもしれない。
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2008年03月20日

へらへらとつるつる

町田康著 『へらへらぼっちゃん』『つるつるの壺』 (講談社文庫)

仕事を辞めてから三年間、なにもせずぼんやりと暮らしていた。

machida_herahera_tsurutsuru.JPG町田康の小説には独特のリズムや流れがあり、そこに籠められている中身がどうであれ、いったん読み始めるとやめられなくなって、ついうっかり地下鉄を乗り過ごしてしまいそうになる。あの、古臭いのか新しいのかよくわからない摩訶不思議な語り口はかなりの曲者で、下手をすると読む者の脳に悪い影響を与え、最悪の場合、その劣化コピーを意識の隅のあたりにひっそりと植えつけてしまうという。その悪の強い、あるいははた迷惑といえなくもない町田康の文章の魅力は、小説ばかりではなく、この二冊のエッセイ集においても存分に発揮されていて、実際のところ、危機一髪であった。

ぼくは、町田康がまだ町田町蔵と名乗っていた頃からその顔かたちを知っている。あの時代、彼のINUであるとか、ザ・スターリン、じゃがたら、時代は前後するけれど、ばちかぶり、村八分などといったわけのわからない名のアンダーグラウンド臭漂うインディー・バンドがうじゃうじゃとしていて、しかし当時、80年代に生きながら80年代がどうにも駄目であったぼくは、これらのノイズに耳を傾けることなくスルーし、それより10年も20年も昔の音ばかりを貪り、聴き狂っていたので、彼という存在はとても遠くに感じていた。しかしそれでも町田町蔵の存在感は強く印象に残っていて、とくにそののち、彼が『熊楠KUMAGUSU』の主役を演じたり、そのフィルムがお蔵入りになったり、さらには信号が真っ黒になっているのを指差したりしているのを遠くから興味深く眺めていたのだった。で、そんなこんなでINU時代から四半世紀ほどが過ぎ、こうしてお近づきになったことはなんたる因果であろうか、と少し大げさに思ってみたりもした。

この二冊のエッセイ集に収められた文章は、町田町蔵が町田康となる前後に綴られたものである。この頃の彼の文章もやはり馬鹿馬鹿しく滑稽であったり、おちょくっていたりふざけていたりするのだけれど、それをへらへらしながら読み進めているうちに、なんとなく、町田町蔵が抱えていたいろいろな事柄が透けて見えるような気がして複雑な思いに駆られてしまう。それから自分の人生を振り返って思いに耽ってみたりするのである。これまで出会った馬鹿な人たち。パンクに走った友人の実家は雀荘だったし、阿呆な同級生の母親はキャバレーで働いていたり場末のスナックを営んだりしていた。皆よい人たちであった。愚かな人間は損得勘定も満足にできないため、意外によくしてくれたりするので性質が悪い。だから私はちまちまと暮らす屑のようなどうでもいい人たちに対して冷酷になりきれないのだろう。その昔、町田康は、新世界でウェイターをしたり、塵の埋立地で夜回りをしたりという生活を経験したのだという。その後の売れないパンク歌手時代の経験も含め、彼もまたいろいろなものに触れ、様々な面倒を切り抜けながらここまで生き延びてきたのだろう。中には一生忘れられない事柄もあったはずだ。人間はなぜこうも醜いのか、暴力的であるのか、あるいは冷酷でいられるのか。どうして虐殺、黙殺には終わりがなく、この世に溢れかえるばかりなのか。

*****

『こういう真っ暗闇のような状況の中で、我々は日々ゴミを買い、ゴミを捨て、ゴミの中で今後過酷で困難な時代を生きていかなければならないということになります。そして私はまた歌を作って歌わなければならないということになるわけです』(「つるつるの壺」p.277)
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2008年02月11日

「パンク侍、斬られて候」 拙者も流れ者にて候

町田康著 『パンク侍、斬られて候』 (角川文庫)

この世界は嘘で塗り固められた幻想にすぎない。真実はこの世界のはるか彼方のさらに先、目には見えない外の領域に広がっているのだ。真実を求める者よ、おのれの腹をふれ。腹をふることによってのみ人は救われ、嘘のない真の世界に辿り着くことができるのである。さあ腹をふり、この世から抜け出でて真実を生き直せ。

punk_samurai01.jpgというかまあなんとも滑稽で馬鹿馬鹿しい世界が描かれている。だって、本作に登場するとある国では、政治上の策略であるとかほかの諸もろな利害や思惑が重なって、社会を治める立場にあるはずの人間が自国に宗教がらみのテロ行為を仕掛けるというのだ。愚かな役人が、机上の空論を膨らませてシナリオをつくり狂人をうまいこと操ろうと画策するのだが、しかし狂人は狂人であるがゆえに役人の空論を超えて暴走し、それまで抑圧されていた民衆の歪んだ欲望と混ざり合い刺激し合いながらとぐろを巻くようにどこまでも暴力、破壊、自滅への熱情を上昇さてゆく。やがてこの暴力の連鎖は、仕掛けた者にも誰にも止めることのできない巨大な濁流となって、このどうしようもない社会そのものを呑み込み消し去ろうとするのだ。

荒唐無稽である。こんな馬鹿な世界があっていいのだろうか。あっていいわけがないしありえないし滑稽極まりない。ほんと滑稽で、それでいて何故か哀しくもある。世界は滑稽でありながら哀しみに満ちている。ぼくは本作を読み進めながらたびたび立ち止まり、あたりをぼんやりと眺めてはこの世界の摩訶不思議な成り立ちについて思いをめぐらせてしまった。

町田康の小説は、独特のリズムや流れに乗っかって楽しむものだと思っている。実際、この作品も基本的にそうなのだけれども、ただこれまで読んだ二冊と較べると深度というか熟度というか味わいがとても複雑になっていて、噛み砕き、飲み込み消化するまでのあいだにいろいろなことを感じ、考えさせられてしまう。確かにこの世界にはいろいろなことがあるのだろうし、そういえば自分の人生にもいろいろなことがあったよなあ、などという思いに耽ってしまうのである。ふざけているようで、登場人物の心情描写も細やかであって、時代劇でありながら善人も悪人もなく、というかむしろ現在の個人主義にまつわるあれこれについて多くが語られており、実際、職場であったりロック・フェスであったりニートであったり、日常の暮らしの中で思うことが描かれる世界のそこここに散りばめられている。思えば、ぼくもある種の流れ者であり牢人であった。ひとりの牢人としてこの狂った世界をいかに生き抜くか、ということについても考えさせられる作品である。

*****

町田康を考えるときにどうしてジム・ジャームッシュを連想してしまうのだろう。このふたりの共通点について考えてみた。

・作品では男ばかりが描かれる
・しかしマッチョにはならない
・音楽的である
・地に足の着かないストレンジャー・ザン・パラダイス

とりあえず、こんなところだろうか。
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2007年12月22日

「くっすん大黒」 その影と向き合うこと

町田康著 『くっすん大黒』 (文春文庫)

三年前、ふと思い立って仕事を辞めた男は、何もせず、ぶらぶらしているうちに妻に逃げられてしまう。取り残され、虚しさにやりきれなくなったその男は、誰もいない家の中に自分の影を見出す。よく見ると、それは大黒様のかたちをしていた。

machida_daikoku.jpg東信に向けた短い言葉がとてもよかったので、町田康の小説を読むことにした。だからそれなりの心構えで読み始めたのだけれど、半ばあたりの「へんざない」のくだりで吹き出しそうになり、すっかり気持ちが緩んでしまって、影がどうしたなどという小難しいことはどうでもよくなり、それ以降は独特のリズムに乗ったドタバタを楽しみながら読み進めた。くだらない厄介事に振り回されて右往左往する駄目男たちの姿はなんだか馬鹿馬鹿しくも思えてくるのだけれど、この世が馬鹿馬鹿しさの集積体であることを考えると、これはこれでありなのだと思える。ただ、確かにとても馬鹿馬鹿しいのだけれど、馬鹿馬鹿しさの中にもいろいろとあって、少し間を置いたあとに、

なんとも歩きにくいことであるよなあ、って、砂浜。(p.80)

みたいなフレーズが挿んであって、そこで思わずぐっときてしまう。この感覚は、ジム・ジャームッシュの初期の作品群を観たときに感じたものとどこか似ていて、なんだかなあ、という気持ちと、町田康、いいやつだなあ、という気持ちがゆるゆると心の中で入り混じるのだった。

男は、自分を駄目にするその影を捨て去ろうと決心し、彼なりにいろいろ手を尽くしてはみるのだけれど、結局、それが自分の影であるがゆえに捨て去ることができない。というか、捨てるどころかその闇の部分に対する愛着は増すばかりで、仕舞いには、バランスが悪く、すぐにごろんと転がってしまうその影を、修復して、なんとか立たせようと試行錯誤するのである。そんな男の滑稽な姿が滑稽に描かれていて好感が持てた。
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2007年12月08日

「泣かない女はいない」 我々は連帯しながら断絶している

長嶋有著 『泣かない女はいない』 (河出文庫)

女 泣くな 女 泣くな

no_woman_no_cry.jpgいまさらながら、長嶋有の小説は細部の描写だなと思った。彼はなにかの作品の中で、主人公か誰かに、自分の目に見えるものしか信じない、みたいなことを言わせていたけれど、実際、彼の小説では、主人公の視線の先にあるものばかりが描写される。ただし、単純に今そこにあるものばかりが描かれるのではなく、主人公の過去の記憶が現在の隙間の中に挿入されるのだけれど、不思議なことに、実際に目で見ている世界に過去の記憶の断片が絡み合うと、その現在と過去の重奏の中からかたちのない何かが湧き上がってくるのだ。この時空を超え、現在と過去の間を行き来することによって得られる小さな悦びが長嶋有の小説の中には隠されているような気がする。だから彼の小説を読み始めると、いつまでもそれに浸っていたいという誘惑にかられてしまうのだろう。

ボブ・マーリィ、キッス、聖飢魔U。本書に収録されている『泣かない女はいない』と『センスなし』では、70〜80年代にブレイクしたミュージシャンとその作品群、とくにその中でもレゲエのスタンダードである「NO WOMEN NO CRY」が過去への抜け穴として扱われている。とくに『泣かない…』では、過去の思い出そのものが描かれるわけではなく、現在の描写のところどころに配置されたこれらの「抜け穴」が、登場人物や読者を過去の世界へと誘うのだ。

音楽の記憶は、現在と過去をつなぐ。そして共有された過去の記憶が、人と人とをつなごうとする。しかしその一方で、過去の記憶は時間の経過とともにそれぞれの脳内で断片化し、再編成されてしまうために(過去記事)、過去の記憶による絆は儚くもろい。だからわたしたちはすれ違ってばかりなのだ。
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2007年08月14日

「毒身」 宙吊りの中年と脱構築

星野智幸著 『毒身』 (講談社文庫)

不惑の年を迎えてもまだ独り身の男は、生涯独身を貫く中高年が暮らすための独身寮計画に加わる。

doku_shin.jpg彼は健全なる男プログラムから外れたどの性にも属さない宙ぶらりんの存在である。独身寮の中庭に吊るされたハンモックで眠りこける彼の姿は、この社会における彼自身の位置づけをよく表わしている。彼にはそれらしき立ち位置がないために、宙吊りのままそのハンモックに身をゆだねるしかない。彼はゆらゆらと揺れながら、まどろんだり、中庭にそそり立つマンゴーや欅の樹を眺めたりしながら無為に日々をやり過ごすしかないのだ。

本作で描かれる駄目な中年はぼく自身の姿と見事に重なってしまう。実際ぼくは、20代の頃から駄目な独身のための長屋計画を周囲に触れまわっていたり、彼らからはすでに性別を脱した存在であるかのようにみられていたりと、いつのころからかこの「毒身」を地でいくような人生を歩んでいるのだった。しかしなぜだろう、5年前、単行本でこの作品(当時のタイトルは『毒身温泉』だった)を読んだときもそうだったのだが、今回もどこかしっくりこないというか、なんともいえない違和感を覚えてしまった。しかも、これは改稿のせいかもしれないのだが、5年前の違和感と今回のものとはまた少し違うような気もする。

この違和感はいったいどこからくるのだろう。この5年間、星野作品を読むたびにこの疑問について思いをめぐらせている。おそらくそれは「個人」や「共同体」の捉え方の違いからきているのだと思うのだが、星野智幸と自分ではその捉え方がどう違うのだろう。これからその疑問を少しずつでも整理していければと思う。

*****

ところで、話はまったく変わってしまうのだが、子供は宙吊りにされると喜ぶが、大人は喜ばないのは何故だろう。子供は自ら進んで宙吊りの状況を求めるのだが、大人は宙吊りになることを避けようとする。
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2007年08月12日

「富士」 ゆらぐ正気と狂気の境界線

武田泰淳 『富士』 (中公文庫)

近世以来、富士は国家国民の心の拠りどころであり続けている。シンメトリーでなめらかな稜線を持ち、天高くそびえる富士の姿は、「美しい国家」の、そしてその国家で暮らす人々の高潔な心の表象であると考えられているのだ。

fuji.jpg霊峰富士が活火山であることを、この国の人々は忘れがちである。静かにたたずんでいるようにみえるあの富士の下には、ふつふつと煮えたぎるマグマが隠されているのだ。本作は、この富士と隠されたマグマの関係に国家国民と精神病患者の関係を重ね合わせ、さらに人間の心の「正常」と「異常」の関係を重ねながら、その境界の危うさを描き出そうとしている。

反国家的な存在であるとみなされ、富士山麓のある精神病院に収容されている患者たち。彼らの脳内では、しばしば意識の壁が破れ、無意識の領域が剥きだしになってしまう。その無意識に翻弄される彼らの姿は、あの富士が隠蔽し続ける地底のマグマそのものであるようにみえる。さらに、「正常」な人々の意識下にもこのマグマ的な無意識、いわゆる狂気が隠されていることを、この患者たちと、彼らを抑圧する立場にある病院職員との間の危うい関係の中に見いだすことができる。本作を通して思うのは、たしかに富士はこの国の人々の心のあり方そのものを表わしているということである。

人間は狂う生き物である。しかし、狂気と正気の境界はいったいどこにあるのだろう。たとえば、戦争へと突き進む人間の狂気は狂気といえるのだろうか。「狂気」という言葉は、人間の心の何を指し示しているのだろう。
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