2007年07月14日

「マダム・エドワルダ」 訳の新旧と連なるタマのイメージをめぐって

ジョルジュ・バタイユ著 『マダム・エドワルダ』 (角川文庫)

madame_edwarda_kadokawa.jpg先日の光文社新訳版『マダム・エドワルダ/目玉の話』(過去記事)に続いて、角川文庫の生田耕作訳版を読み直した。本書は、訳者が生田耕作であることと、『眼球譚』(光文社版では『目玉の話』)の底本が初稿版である点で光文社版とは内容が異なっている。訳の善し悪しはぼくには分からないけれど、単純に読み物として考えると、光文社版には収録されていないバタイユの論文や講演録が読めることもあって、この生田版の方がやや楽しめたような気がした。ただ、光文社版を読んだのが半年ほども前のことで、その記憶がかなり曖昧になっているのでここで両者を比較することはやめておこう。

今回、本書に収録されている『眼球譚』を読み直してみて、この生田版でも、目玉や睾丸、玉子などの描写によって綴られる、連なるタマのイメージを感じとることはできたのだけれど、便器の中から天空にまで続くタマの連鎖の様子を思い浮かべながら、このイメージにはいったいどのような意味が籠められているのだろう、という素朴な疑問が湧き上がってきた。本書の解説によると、これらのタマには生命や生殖、あるいは世界創造のイメージを重ね合わせることができるという。たしかに、目玉や睾丸、玉子には動物に宿る生命力と強く結びつくイメージがある。さらに日本語でいえば、タマは魂(タマ)という言葉と繋がる。タマには生命の根源と繋がるなにかしらのエネルギーが籠められているのだろう。ところで、この「魂」という言葉にあたるフランス語は存在するのだろうか。あるいは、日本人にとって「魂」とはどのような意味を持つのだろう。


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2007年07月12日

「パラレル」 並走する時空

長嶋有著 『パラレル』 (文春文庫)

男は会社を辞め、離婚した。その後、ぼろアパートにひとり引っ越した彼は、過去の記憶と現実の間を行き来しながら日々をやり過ごしている。彼の周囲の人たちにも、過去があり、現在がある。

parallel.jpg彼らは皆、それぞれに小さな世界を生きている。しかしその小さな世界ひとつひとつは、さらに微細な世界が寄り集まることによって成り立っている。この世界は、いま目の前にある現実と、そこから呼び起こされる過去の記憶、そしてそれらが互いに作用し合うことによって生まれる妄想などの細かな断片による集合体であり、つまり、平凡に思える日常世界には多次元的な広がりがあって、さらに個人に絡みつくそれら無数の断片は、他者との関わりの中でなにかしらの影響を受け、あるいは影響を与え、互いに入り乱れて、さらなる無限の広がりをみせる。これらの時空は皆、パラで走っている。その、並走する時空の様子が巧みに描かれている作品だと感じた。

読み進めながら、うまいなあ、と何度となく感じ入った。各々の細部の描写が巧みなだけではなく、それらの配置がいいというか、細部同士の繋がりや、繋がりのようなものがところどころに感じられて、それに釣られて自分のいろいろな想いや思い出が呼び起こされてしまう。たしかに、ぼくが住むこの世界は平凡であり複雑であると思う。ふと、「ミクロコスモス」という言葉が思い浮かんだ。
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2007年05月26日

「ロンリー・ハーツ・キラー」 崩落する共同体、飛び降りる若者たち

星野智幸著 『ロンリー・ハーツ・キラー』 (中公文庫)

大陸から吹きつける黄砂がこの列島を覆う。男たちは、砂漠と化す都市の中で自滅へと向かう。そしてその狂騒から取り残された者たちは、ある山荘に籠る。

lonely_hearts_killer.jpg第一部「静かの海」を読み進めていたら、映画『太陽がいっぱい』(過去記事)のことを思い出した。若い男女三人(男x2 女x1)が夏の地中海へと航海に出る話なのだが、照りつける太陽の下、男ふたりは女を船から排除し、その後、自滅へと向かう。ここで印象深いのは、ひとりの男がもうひとりの男を執拗にコピーするその姿である。故・淀川長治氏は、(たぶん)この点に着目して、あの作品を男同士の恋愛劇だと捉えた。しかし、そこで描かれていたのは単なるホモセクシャルの世界ではなく、近代における人間の(あるいは社会の)あり方そのものだったのかもしれない。この「静かの海」で描かれる三角関係を眺めているうちに、当時、そうぼんやりと考えていたことを思い出した。この二作品で描かれている三角関係は互いによく似ていると思う。

似ているといえば、この社会の主流にはなれない者、主流から脱落してしてしまった者たちの姿を描いているという点で、そしてとくに、彼らが都市から遠く離れた山荘に籠るという点において、この『ロンリー・ハーツ・キラー』は長嶋有の『ジャージの二人』(過去記事)にも通じるところがあると思う。ただし、この二作品は同じような世界を描いているはずなのに、それぞれの作品から受ける印象が全くといっていいほど違う。それは何故なのだろう、とぼんやり考えていたのだけれど、たぶんその原因は、作家が持つ言葉との距離感にあるのではないだろうか。言葉に対して絶対的な信頼を寄せる星野智幸に対し、言葉との間に微妙な距離を保つ長嶋有。ふたりの言葉に対する態度の違いはとても興味深く感じられる。現代社会における「堕落」のイメージを、「ジャージ」という表象によって表そうとしたのが『ジャージの二人』だとしたら、同様のイメージを言葉で紡ぐ幻想的映像世界によって描き出そうとした作品が『ロンリー・ハーツ・キラー』だといえるのかもしれない。

*****

さあ、いろはよ、飛び降りよう。飛び降りてきて。私は下で待っている。(p.270)

本作で残念なのは、この「私は下で待っている」という言葉にもうひとつ説得力が感じられないところだ。星野智幸は、どちらかといえば高潔な人で、高いところからこの世を見下ろす傾向がある。彼の日記を読んでいても、しばしばそう感じる。次は、高いところから飛び降りた新たな星野智幸による小説を読んでみたいと思った。
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2007年05月07日

「ジャージの二人」 その山荘に籠り続ける

長嶋有著 『ジャージの二人』 (集英社文庫)

会社を辞めてぶらぶらしている男と、フリーランスで仕事をしたりしなかったりの父親。ふたりは愛犬(?)ミロを連れて山へと向かい、別荘地にある山荘に籠る。そして古びたジャージに着替え、「自然は、嘘臭い」などと言いながら、すんなりと山の暮らしに馴染んでいくのだった。

two_jerseys.jpg山に籠る駄目な男たちと、都会で「ちゃんと」生きようとする女たちの姿が描かれている。そのコントラストはとても味わい深いもので、それにどことなく身近に感じられる。無職になったうえに離婚の危機を迎えている「僕」と、3度目の結婚生活の雲行きが怪しくなっているらしい父親。ふたりは共に、家庭で良き夫として振舞うことが苦手で、そのうえ会社組織に適応することもできない。かといって、ふたりは悪びれるわけでもなく、互いの近況を語りあうこともないまま山荘での日々をやり過ごしている。

一方、女たちは「ちゃんと」生きようと懸命である。しかし、彼女たちの努力はどこか空回りしているようにもみえる。例えば、「僕」の妻は、駄目な夫に対する不満を不倫というかたちで燃焼させているのだ。しかも、不倫といっても彼女にとってそれは単なる遊びではなく、たぶん乗り換えを前提に、「僕」との関係の中で広がる心の空白やその他諸々(とくに妊娠・出産であるとか)の埋め合わせを不倫相手に求めてしまっている。花ちゃんにしても、まだ子供だとはいえ、しっくりこない現実に焦りながら、耐え難い心の隙間を埋めるべく映画鑑賞にのめり込んでいる。彼女たちは、人生の充実、あるいはある種の自己実現のために、もがき苦しんでいるようにみえる。

*****

星野智幸のいう「堕落」という言葉が、長嶋有による本作では「ジャージ」という表象に置き換えられている。ジャージといっても、「僕」の妻が買ったブランドもののシャレたものではなく、その昔、学校の体育の時間に着たことのある野暮ったい方のあのジャージである。「僕」は、そのジャージ姿で山荘に籠り続ける。それがどれだけ意識的なものであったかはわからないけれど、とにかく「僕」は、そこにとどまる道を選びとってしまったのだ。駄目な地点に身を置くことで感じられるもの、生み出すことができるものがあるはずだ。そしてひとりになった「僕」は、PCを起動し、創作に没頭する。
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2007年04月15日

「エレンディラ」 砂漠の彼方へと消え去った女

ガブリエル・ガルシア=マルケス著 『エレンディラ』(ちくま文庫)

erendira.jpg本書を読み終えたのは1ヶ月近くも前になるので、ここに収められている作品の記憶はすっかり曖昧になってしまっている。カリブ海に臨む小さく貧しい村が物語の舞台になっていることや、村の男たちは漁を生業としていること、ある男はハンモックに寝そべり夜空に浮かぶ星の数をかぞえること、その数は毎夜すこしずつ変わることなど、いま、ぼくの脳裏に浮かぶのは、村人たちが描くどこか哀しげな暮らしの情景、そのいくつかの欠片である。

その村には墓地をつくる土地もなく、亡くなった村人の亡骸は、残された人々の手によって崖の上から投げ棄てられ、海の底へと還っていく。カリブ海の奥底に広がる暗闇には、無数の死者が眠っているのだ。彼らは、永遠の眠りにつきながら海底をゆらゆらと漂う。そしてある者は別世界の海へと旅立ち、またある者は波に揺られて岸辺へと向かい、ふらりと村人の前に現れては人々の施しを受ける。生者と死者の世界、ここではそのふたつの領域が完全には隔たれておらず、その境界を行き来するための抜け穴を残しながら緩やかに繋がり合っているのだ。

死者の世界との繋がりを保つその村に、年老いた不格好な天使や、大金を抱えたアメリカ人、あるいはどこか怪しげな行商人や政治家、そして司祭などが現れ、様々な提案や命令を下しながら村人たちを翻弄する。その哀しげで痛々しい様子が夢とも現実ともつかない描写によって綴られていく。

エレンディラは、海から遠く離れた砂漠の奥地で彼女の祖母と暮らしていた。しかしある夜、彼らは嵐による烈風によってすべてを失ってしまう。そしてエレンディラは、祖母に引きずられるように旅に出て、その道中で奴隷のような扱いを受け続けるのだが、海辺の集落にたどり着いたある夜、彼女はすべてを振り切り祖母の許から立ち去ろうとする。祖母から奪った金の延棒をまとったエレンディラは、海岸沿いを駆け抜け、海を越え、そして砂漠の彼方へと消え去る。後ろを振り向くことさえしないエレンディラを止めることは誰にもできなかった。彼女に想いを寄せ、祖母の許から解き放ってくれた青年の追いすがるような叫び声さえ彼女の耳には届かなかった。彼女はどこへ消え去ってしまったのだろう。そしてこのエレンディラとはいったい何者なのだろうか。
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2007年02月16日

「岬」 母なるものへの愛憎

中上健次著 『岬』 (文春文庫)

「黄金比の朝」、「火宅」、「浄徳寺ツアー」、そして芥川賞受賞作である「岬」の四篇を収録。

misaki01.jpg男たちが抱える女への愛憎が描かれる。彼らは、女たちを口汚く罵る。そして殴る。蹴る。女のような穢れた生き物は死んでしまえばいいとさえ思っている。そして女たちの住む家に火を点ける。女が母として子を産み、育てる巣である家々を燃やす。すべてを絶やしてしまいたい。彼らは破滅的な衝動に駆られる。女を憎み、母を憎み、母から受け継いだおのれの血を憎みながら、しかしそこから逃れるための抜け道を見出すこともできず、絶望的な閉塞状況の中で、彼らは喘ぎ続けるしかない。

近世以降、社会が硬化するとともに、新たな社会階層がかたちづくられる。国家は、ある種の境界領域に触れる人々を、穢れ多き人、人で非ざる人と見做し、彼らを一般社会から引き離した。また、女性を貞淑な妻と穢れた遊女に引き裂き、非人同様、穢れた女たちをこの世界から隔離してしまったのだ(過去記事)。その引き裂かれた階層に生まれた者の苦悩が、この作品群では描かれている。彼らは、さらなる高度化を推し進めようとする社会の流れに強い抵抗を感じながらも、自らの思考と経済の基盤が近代に根ざしているがために、そこから逸脱することができない。逸脱するどころか、むしろ社会のさらなる硬質化に加担せざるを得ないのだ。

「岬」で描かれる、土方を生業とする青年の姿がとても印象深い。彼は、淡々と大地につるはしを打ち込み、そこにコンクリートを流し込んで、柔らかなものであった大地を、硬く、平板な乾いた砂の塊で埋め尽くそうとする。ここで描かれている大地は、おそらく女性的な、あるいは母性的な何かと結びつけられているのだろう。まだ童貞であるその青年は、心のどこかで女性を拒絶しているようにもみえる。しかしその一方で、女性的なもの、あるいは母なるものへの強烈な想い、ある種の郷愁のような感情を抱いているのがわかる。そしてその想いは、ラストの娼婦との交わりの中でついに爆発する。相反すると思われる様々な感情が、彼の心の中で混ざり合い、そのひと塊が、そそり立つ彼の男根を通して女のからだをつらぬくのだ。喘ぐ女のからだの上で、獣のような衝動に身をまかせながら、彼は、すべてを突き破って、その穢れたからだと溶け合い、ひとつになろうとする。

*****

読み進めるうちに、なぜか自分の70年代の記憶が蘇ってきた。ぼくと中上健次の出自はとても遠いものだと思うけれど、考えてみると、今、自分が身を置くこの世界と、当時のぼくが暮らしていた世界との間にも驚くほどの違いがある。すでに断片化して意識の奥底に沈みこんでしまっているあの頃の記憶は、今の自分にどのような影響を与えているのだろう。
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2007年01月28日

「植物診断室」 四十男の妄想と個の輪郭をめぐって

星野智幸著 『植物診断室』 (文藝春秋)

男は40歳になるがまだ独身である。湾岸に臨む高層マンションでひとり暮らす彼は、ベランダに生い茂る草木の中に身を沈めたり、あらゆる町の路地をあてもなくさまよい歩くことを日常の楽しみにしている。そしていつの頃からか、植物診断室という風変わりな場所に足繁く通うようになった。そこで彼は、太古の昔、まだ植物であった頃の自分へと還りながら、砂漠の中に屹立する石の巨木となった自分を妄想しては、えもいわれぬ悦びに浸るのだった。

hoshino_tomoyuki01.jpg「あなたはあなた以外の何ものでもありません」という診断師の言葉によって、男は、悦楽的な妄想世界から乾いた元の世界へと引き戻されてしまう。そのたびに彼は、身も心も引き裂かれてしまうような激しい苦痛を感じてしまうのだが、それでも植物診断への誘惑を断ち切ることはできない。診断師の導きによって生み出されるその妄想世界は、彼の人生の欠かせない一部分となっているのだ。

植物診断による妄想世界に限らず、植物に覆われて小さなジャングルのように成り果てた彼のベランダや、どこに繋がっているか分らない迷路のように入り組んだ路地は、男がこの現実世界から抜け出すための非日常的な空間として描かれている。そして彼がその抜け穴に足を踏み入れるたびに、その情景を思い描くぼくもついついその異空間に酔ってしまう。しかしこの作品は、読み手が甘美な妄想世界に浸り続けることを許しはしない。その男も、ふたりの幼子を抱える独身女性と知り合うことがきっかけとなって、いま破綻しかけている共同体とは異なる新たな人間関係を模索しなければならなくなる。極めて現実的なこの問題に直面してしまった彼は、植物診断室から卒業することを心に決める。

*****

読み進めるうちに、この作品自体が読者のための植物診断室であるように思えてくる。ほかの何ものでもない一個人が、この乾いた社会と向き合い、新たな人間関係の構築を目指す、という本作の主題は、たしかにぼくにとっても身近でかつ重要な課題だということはわかる。しかし同時に、星野智幸のいう「ほかの何ものでもない個」という考え方には、正直、違和感を覚えてしまう。

「個」が独立した唯一の存在であるためには、その「個」は、当然ながら強固な輪郭を持たなくてはならなくなる。おそらく、小説家である星野智幸は、「個」の輪郭を明確なものにするための武器として、例えば「言葉」を利用することを考えるだろう。しかしその思考方法は、彼が敵視する人々のものとよく似ている。これは、彼の日記を読んでいてもしばしば感じてしまうことなのだが、彼は、彼自身が否定するものとよく似ているような気がする。個の輪郭を強固なものにしたいという願望がそれほどないぼくとしては、その強固な個の先に新たな社会の姿を見出すことは難しい。なにかと妄想しがちな四十男であるぼくは、むしろ、もっと曖昧で柔らかな大人を目指したいと思う。
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2007年01月20日

「マダム・エドワルダ/目玉の話」

ジョルジュ・バタイユ著 『マダム・エドワルダ/目玉の話』
原題 『MADAME EDWARDA / HISTOIRE DE L'OEIL』 (光文社古典新訳文庫)

神に見立てた娼婦との一夜を描く『マダム・エドワルダ』と、若い男女の神をも畏れぬ傍若無人ぶりが描かれる『目玉の話』の2編。

histoire_de_loeil01.jpgこれを読んだのは数ヶ月前、確か去年の11月頃だったと思う。だから、内容に関する記憶はかなり曖昧になってしまっている。

ある夜、街を歩いていた男は、目の前に広がる暗闇の先に死の不安を感じとる。と同時に、強烈な欲情に襲われ、街中を彷徨い歩いた挙句にある娼館へと辿り着く。中に入ると、マダム・エドワルダが男を待ち受けていて、彼はその悪魔のように美しい彼女の姿に神のイメージを重ね合わせる。やがてふたりは互いの肉と体液を貪りながら絡み合い、そのまま街の暗闇の中へと溶け込んでいく ― 『マダム・エドワルダ』のあらすじは、そんなところだろうか。

一方の『目玉の話』では、連なる球体のイメージと共に、性愛に耽る若い男女の逃避行の様子が描写される。ある日、その若いふたりが数人の仲間たちと狂気の宴に興じていると、その血と尿と精液と吐瀉物にまみれた醜態を大人たちに見つかり、宴は中断されてしまう。その後、ふたりは引き離されてしまうのだが、少年は家を抜け出し、少女を連れて悦楽の旅へと出発する。そしてふたりは行く先々で蛮行の限りを尽くす...

*****

予想以上にさらさらと読めてしまい、少し拍子抜けしたくらいだった。だから、河出文庫の『眼球譚(初稿)』をあわせ読んで、それからここに何か書き留めようかとも思ったけれど、そのうち面倒になって放置してしまっていた。『眼球譚(初稿)』はそのうち読んでみようと思う。
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2007年01月07日

「箱男」 匿名の都市の中で手記を綴る男

安部公房著 『箱男』 (新潮文庫)

箱の魅力にとりつかれた男は、覗き窓を開けたそれを頭からすっぽりとかぶり、すべてを捨て去って、街の中をあてどなく彷徨う。そしてある女と出会う。

box_man01.jpg男は箱の中からこの世を覗き見ながら、その箱の内側に手記を綴る。その手記がこの『箱男』という小説そのものになっているのだけど、男が覗いている世界が現実なのか妄想なのか、読み進めるうちにふたつの世界が混ざり合ってしまうので、その境界が次第に曖昧になっていく。さらに、箱男の正体が明かにされないまま贋箱男までが登場し、その贋箱と本物であるはずの箱男の違いさえも判らなくなっていくため、どちらが本物の箱男なのか、というか、そもそも箱男とはいったい何者で、そのうえ中の男がまだ生きているのかどうかさえ判らなくなってしまう。それでもこの奇妙な手記は何者かによって進められる。

一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市 ― 扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街 ― のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。(p.23)

箱男にとって、箱はこの世界からの抜け穴のようなもので、そこにもぐり込めば、この世から切り離された誰でもない匿名の存在になることができると感じている。そして小さな窓からこの世を覗き込んで、思うところを箱の内側に綴っていくのだ。そして彼は、箱という抜け穴の闇の中を彷徨い歩いたあげく、そのトンネルの出口を女に求めようとする。裸のまま四つんばいになって尻の割れ目を剥きだしにしている女の姿を夢想しながら、男は箱をかぶったまま女の許へと向かうのだ。しかし男は女の体に辿り着くことができない。本当にそこに女がいるのかさえ定かではない。

*****

箱男の手記という体裁がとられており、かつその文章が物語として破綻してしまっているために、読み物としてそれほど楽しむことはできなかった。けれど、箱男という存在自体はとても面白く感じられた。たぶん、身近な存在として捉えることができたのだろう。この世は箱男と箱女で溢れかえっている。そしてその数はこれからさらに増えていくのだろう。この仮想空間の中に構築されている匿名の都市も、箱男や箱女たちにあわせるように膨張を続けていくのではないだろうか。
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2006年10月10日

「ラッシュライフ」 永遠にのぼり続ける

伊坂幸太郎著 『ラッシュライフ』(新潮文庫)

駆け出しの女流画家とそのパトロン、無職の中年男と野良犬、新興宗教の信者とその幹部、心理カウンセラーとJリーガーの不倫カップル、それぞれが紡ぐ物語は併走しながら交錯し、擦れ違って、やがて大きな物語へと繋がっていく。

rushlife01.jpg彼らは各々の人生を階段に見立てて、その高みを目指し、それぞれの歩みを進めている。ある者は一足飛びに駆け上がり、そしてある者は足を踏み外して惨めに転げ落ちる。それでも彼らは足を止めようとはしない。尽きることのない欲望が彼らを突き動かし続けている。人生の充実のため、豊かさのために、その極限を目指して、目の前に続く階段をのぼり続けるのだ。しかし、いくら前進を続けても彼らの欲望が満たされることはない。すべては擦り抜けて、どこかへ消えていくばかりである。その虚しさが彼らの欲望に再び火を点け、愚かな者たちをさらなる前進へといざなう。

そのあり様を端的に表しているのが、冒頭の挿画になっているエッシャーの騙し絵である。その騙し絵には、人々が回廊のように繋がった階段を永久にのぼり続ける姿が描かれており、その画が彼らの物語に重ねられている。そしてその永遠の反復運動は、彼らの気を狂わせ、その判断力を奪っているようにもみえる。彼らの中には、全てを手中にできると錯覚している者もいれば、その逆に、永遠に続く反復から逃れるため、そこから飛び降りて死を選ぶ者もいる。高みを目指して喘ぐ彼らの姿は悲劇的にみえて、実は滑稽なようでもある。つまりこの終わりのない物語は、我々が暮らすこの世界のあり様とよく似ているのだ。

*****

この群像劇は、バラバラだった死体がくっついてしまうという奇怪なバラバラ殺人事件を媒介として、「ラッシュ」という言葉の意味を駄洒落的につかったり、エッシャーの画を重ねたりしながら、バラバラだった物語がくっつくように組み立てられている。しかしながら、この作品の魅力は、駄洒落的に凝って組み立てられた構造よりも、どちらかというとディテールにあるのだと思う。あまりに都合よくできた結末を除けば、先日の『重力ピエロ』(過去記事)よりもこちらの方が読み物として面白かった。

とくに魅力を感じたのは、人物でいうと、空き巣を生業としている黒澤の存在である。隔てられた領域を身軽に擦り抜け、ひょっとすると超越的な能力まで持ちあわせているかのように思わせるこの男は、本作の重要なアクセントになっていたと思う。あと、スケッチブックを持った外国人の女の子の存在も面白くて、思わず自分だったら何を書くか考えてしまった。ちなみにぼくだったら、あのスケッチブックに「楽」と書いたと思う。
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2006年09月23日

「重力ピエロ」 春が抱える矛盾とエロティシズム

伊坂幸太郎著 『重力ピエロ』(新潮文庫)

春は、抱えきれないほどの矛盾に押し潰されそうになりながらも、身をよじりながらその重圧に耐え、内に秘めたその過剰なエネルギーを芸術に昇華し、花開かせようとする。だからこそ春は美しく、その魅力に誰もが惹かれてしまうのだろう。

juryoku_pierrot00.jpg春にはふたりの父親がいる。春の前にあらわれ、そして去っていくそのふたりの存在は、春が抱える矛盾の性格をよく表している。春の、”本当の父親”は、彼を息子として受け入れ、育て上げた。温厚で、特別な能力はないようにみえるけれど、家族を家族として束ねようとする意思は、たぶん、この世界の誰よりも強いものだ。彼は、父として、春を温かく見守り続けており、ふたりは強い絆で結ばれているようにみえる。

しかし、春を春たらしめているのは、おそらく、もうひとりの”本当の父親”の存在である。この父親によって春の母は犯され、その穢れされた肉体の中で、春は生を受けたのだ。春の細胞の中には、穢されたDNAが確かに刻み込まれていて、それは春が春である限り、決して消え去ることがない。体の中に穢れたDNAを抱える春は、その呪われた部分を乗り越えるために芸術に向かうのだが、ただし、そこから性的な要素は排除しようと努める。それは、自身の生い立ちにまつわる闇への嫌悪からであることは明らかである。

性的なものを忌み嫌う春は、バタイユを否定し、ラスコーの洞窟の奥底に描かれた絵画(過去記事)をただの落書きだと吐き捨て、さらに、街中に描かれている落書きを自らの手で全て消し去ろうとする。彼は、穢れたものを拭い去ろうともがいている。しかし、落書きを消すことはできても、体の中のDNAは変わりなく彼の体内で生き続けている。絵を描いても、落書きを拭い去っても、その事実に変わりはないのだ。しかし、それでも魂の浄化を追い求める春は、もうひとりの”本当の父親”を呼び出し、その男と対峙することを選ぶ。温かい父から譲り受けたバットを振りかざし、その男の存在を乗り越えようとするのだ。そして、その男は春の前から姿を消す。しかし、皮肉なことに、その男は去り際に、春の心の中に潜む野蛮で暴力的な深い闇の部分を露わにしてしまう。春は、自らが忌み嫌う存在そのものなのである。

*****

この春の物語は、春だけのものではなく、現生人類、ホモサピエンスの末裔、つまり我々自身の物語でもあるように描かれている。表層的には、性的な、バタイユ的なエロティシズムを否定し、遠ざけているようにみえるけれど、実のところは、人類はそこから抜け出すことができないという”事実”を物語っているように思える。

本作の物語の構造はとても面白い。それに、参考文献が表記されていたり、文章も丁寧で、著者の知的で真面目な姿勢がよく伝わってくる。けれど、丁寧なのに雑というか、ディテールに少し粗く感じるところ、とくに女性の造形が平坦で、現実離れし過ぎていているところが目立ってしまい、女性が登場するたびに、ちょっとこれはありえないんじゃないか、と気持ちが物語から離れ、少し醒めてしまうところがあった。きっとこの作品は、若い男の子が読むことを前提に書かれているのだろう。そこだけが少し残念に思えた。
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2006年08月10日

「河童」 河童が自殺し、そして自活する世界とは

芥川龍之介著『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)

河童と出くわした男は呆気にとられるが、咄嗟に立ち上がり、その得体の知れない生き物に躍りかかる。慌てて逃げ出す河童。男は夢中で追いかけるが、指先がその背中に触れようとした瞬間、足元に大きな穴が開き、奥深い暗闇の中に転げ落ちてしまう。

kappa_akutagawa01.jpg表題作「河童」、「或阿呆の一生」と、その他いくつかの短編が収録されている。いずれも芥川龍之介の最晩年に発表された作品である。「河童」は柳田國男が紹介した伝承を参照しながら書かれた、みたいなことが『河童駒引考』(過去記事)の解説にあったので、かなり久々に読むことにした。がしかし、そこに水界の神の化身としての河童の姿を見つけることはできなかった。

男もその河童の暮らしぶりには驚いているようだった。彼らは自然界というより、むしろ人間より合理的で進んだ社会をつくりあげていたのだ。しかし、最初こそ男は戸惑うが、次第に河童の社会に馴染み、その一員として落ち着きをみせるようになる。それから男は様々なタイプの河童と巡りあうのだが、やがてこの世にいた時と同じような、あるいはそれ以上の幻滅を抱くようになり、そしてついに河童の社会を逃れて元の世界に戻ることを決意する。

*****

書き割りのように平坦なこの世界に嫌気がさし、そこから逃れようとする男が、その思いとは裏腹に、元の世界をデフォルメしたような異空間に行き着いてしまう。という物語の構造は、先日の『砂の女』(過去記事)によく似ていると感じた。今から40年前、あるいは80年前に遡ったとしても、抜け道のない閉塞状況の中で喘ぐという感覚を人々は抱いており、たぶんそれは、近代人が世代を超えて共有している感覚なのだろうと思う。昔の人は若かりし頃を美化して語りがちだけれど、実のところは現在とそれほど変わりはないのだろう。

とはいえ、さすがに本書で描かれている世界は遠く感じられた。とくに、西欧との距離感や狂気に対する感覚には隔たりがあると思う。迫りくる狂気を芥川龍之介がどれだけ実感していたのかがよく分からないので、なんともいえないところもあるのだけど。実際、いくつかの短編は少し退屈に感じられ、途中で読むのを止めたものもあった。最後の「歯車」も読まずじまい。で、いまは次の本を読んでいる。

*****

ところで、西欧の文化は、砂漠の中で生み出された宗教を基盤として築き上げられている。もちろん、それは中東にしても同じことだと思うけれど。それで、極東に浮かぶ小さな島国に身を置く人たちが、この世界を砂漠に見立てるということはどうなのだろう。と、ここ最近よく考える。
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