2006年07月24日

「砂の女」 出口なき乾いた世界

安部公房著『砂の女』(新潮文庫)

男は行く先を誰にも告げず、短い旅に出る。この社会から抜け出して、まだ人類が知らない新しい生命を見つけようというのだ。ささやかな野心を抱き、男は海へと向かう。しかし、男が辿り着いたのは、どこまでも続く砂の世界だった。

suna_no_onnna00.jpg砂の斜面のところどころは掘り下げられており、そのくぼみの中には古びた家が建っていた。男が見渡すと、壊れかけた蜂の巣のように、そのくぼみは幾層にも並んでいる。そこは、砂に覆われ、埋もれかけた、貧しい部落であったのだ。側に立つ老人から案内されるがままに、男はあるくぼみの中に建つ民家に宿泊することにする。そこにはひとりの女がいた。

男はその民家に閉じ込められてしまう。夜、彼が寝ている間に、地上から垂らされていたはずの縄梯子が外されてしまったのだ。男はその事実に愕然としながらも、地の底から逃れ、元の世界に戻るために、もがき続けるのだった。

*****

男が砂と悪戦苦闘する様子を眺めながら、カミュやカフカを読んだ大昔の感触を思い出してしまった。照りつける太陽と、海辺に広がる砂の世界、そして喉の渇きに喘ぎながら、不合理な運命に翻弄される男。その男は脱出を試みる度に砂に押し戻されてしまうが、砂まみれになりながらも自由を諦めることはできず、そこを抜け出すための別の手立てに思いを巡らせる。当初のつつましやかな野心はいつの間にか消え失せ、砂との格闘そのものが彼自身の目的になってしまったかのようだ。

皮肉なのは、この乾いた世界に嫌気がさし、そこを抜け出したつもりになって向かった先が、この世界を醜くデフォルメしたような部落であったところだ。この部落は、男がかつて身を置いていた世界とは大きく異なるようにみえるが、よくよく考えてみると、そう大きな違いはない。男は長い月日をかけ、繰り返し脱出を試み、何度も乾いた砂に押し潰されそうになりながら、その事実に気づく。その過程は、男と、同居人である女との距離に投射されているようだった。男は当初、この不合理な運命を無批判に受け入れている女に苛立ちを覚え、強く拒絶するが、やがて女に欲情し、交わり、ついにはその女と同化してしまう。

この作品は、高度経済成長期にあったこの社会の鏡としてつくられていると思うけれど、そこに映し出されている鏡像は、現在のこの社会とそれほど変わりがないような気もする。描かれている男をどこかで見たような気になってしまうのも、たぶん、そのためだと思う。


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2006年06月03日

「猛スピードで母は」 遠いような近いような

長嶋有著『猛スピードで母は』。文春文庫。

mou_speed.jpg小学校6年生になる慎(まこと)の母親は、『サイドカーに犬』(過去記事)の洋子さんに似ている。綺麗でかっこよくて、少し男まさりにもみえるけれど、じつはとても繊細で、文学を好むようなところもある。しかし、気に入らない物はすぐに放り投げてしまうような女性でもある。そして、子供のことを気にも留めずに煙草をふかすような、自分の人生を生きるだけで精一杯、といった、いかにも現代を感じさせる女性である。

その息子である慎は、『サイドカー…』の薫と同様、内向的でおとなしく、とても扱いやすい子供である。しかし、慎は確かにおとなしいけれど、その内面にはとても複雑なものを抱えている。ただ、幼いときに経験した両親の離婚を通して、人生にはどうしようもないことがあるのだと彼は学んでいるのだ。だから、なるべく無駄な抵抗はしないように心がけている。それでも、心の奥底で何かがざわめくような感覚を抱くことがある。

慎は歯をみがきながら洗濯機の泡をみつめた。中の水は渦を巻いているが、上に膨れ上がった泡はまわっているのかいないのか分からない。(p101)

慎は孤独な日常を重ねながら、それでも少しずつ成長していく。と同時に、母親が徐々に小さく感じられるようになる。そしてついに彼の母親は、霧に包まれた空の中へと消え去っていく。慎は覚悟ができたような心持ちになる。その姿は、PKを受けるときのゴール・キーパーのようだ。というか、彼の母親とよく似ている。

*****

長嶋有の作品を読んでいて面白いと感じるのは、目にみえるもの、あるいは、かつて目にしたものしか描かれていないのに、それでも、目にはみえない何かの存在を感じることができるところだ。という意味で、彼の作品はどちらかというと映画に近いと思う。描かないことで描くというか。そして心の奥底にしまいこんでいる何かにそっと触れるようなところがある。といっても、そんなに悪い気はしないのだけど。それはたぶん、その触れ方がとても優しいからだと思う。
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2006年05月27日

「ファンタジスタ」 砂の惑星から消えゆくもの

星野智幸著『ファンタジスタ』。集英社文庫。「砂の惑星」「ファンタジスタ」「ハイウェイ・スター」の三篇を収録。

fantasista.jpg世界は野生の領域を排除し、極限まで均質化を推し進めながら、この惑星上の全てのものを砂に変えようとしている。「砂の惑星」の川井喜延、「ファンタジスタ」のN、「ハイウェイ・スター」のヒヨコ、各々の主人公たちは、この乾いた世界の中で喘ぎ苦みながら、失われてしまった”母なるもの”への郷愁に浸っている。そして、その”母なるもの”の名残りを感じるために、彼らはこの世界の辺境へと向かう。喜延は埼玉の山の中へと侵入して腐葉土の中へペニスを挿入し、Nはリョウジに連れられて路地をさまよい歩き、ヒヨコは地底深く掘られた穴の中で肉体労働に従事する。そしてそれぞれの妄想を膨らませ、現実と非現実の境界を行き来しながら、この乾いた世界の向こう側に隠されている何ものかに触れようとするのだ。しかし、その儚い試みはことごとく潰えてしまう。彼らはどこにも辿り着くことができない。もはや抜け穴はどこにも残されてはいないのだ。

*****

「砂の惑星」の終盤がバタバタしながら急ぎ足でラストに向かうところや、「ファンタジスタ」で綴られる長い独白部分がやや説教臭く感じられるところなど、出来がいまひとつだと思える部分もところどころあったけれど、やはりいつものように、「これはオレだ」という気持ちと、「これはオレとは違う」という気持ちを交錯させながら読み進めなくてはならなかった。そして度々立ち止まって、自分の考えをめぐらせては登場人物に重ねてみたりを繰り返した。『アースダイバー』(過去記事)や『芸術人類学』(過去記事)に嬉々としているところに、「そんな古臭い物語は既に終わったはずだ」と冷水をかけるようなところもあって、それも含めて楽しむことができた。ただ、新作ではこの先が読みたい。
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2006年03月23日

「センセイの鞄」 この世の境界への想い

川上弘美著『センセイの鞄』。文春文庫

大町ツキコは駅前の一杯飲み屋でセンセイと再会し、以来、頻繁に顔をあわせるようになる。歳が30以上も離れてはいるが、肴の好みや間のとり方など、互いの気質が似ているように思えて、ツキコはセンセイを近しく感じるようになっていく。

sensei_no_kaban.jpgこの”センセイ”とはいったい何者なのか、ということを考えながら読み進めた。名前は松本春綱というのだけど、ツキコにとっては松本春綱ではなく、先生でもない。恋人というわけでもなく、かといって赤の他人という気もしない。どこか掴みどころがなくて、得体の知れないところも感じられるが、いつもどこかにいてくれて、一緒にいると安心できるような存在。それがツキコにとっての”センセイ”であるように感じられた。

一緒にキノコ狩りに行くあたりから、このセンセイの存在感が増してくる。この頃から、センセイが『神様』(過去記事)の熊に似て感じられるようになってくるのだ。得体の知れなさが増す、というか、センセイの輪郭が曖昧になって、山や雷と近しい存在であるような、人間の領域とは違う世界と繋がるある種の精霊であるかのように思えてくる。岬(この世の境界)のさらに先に浮かぶ島(あの世)へと旅行に行く場面では、この印象がさらに強まって感じられる。そしてついには、夢(?)の中でこの世とあの世の境界を、ふたりで彷徨う姿が描かれている。こうなると、もうセンセイはこの世のものではない。

*****

これは少し意表を突かれてしまったのだけど、終盤になると、それまで保たれていたツキコとセンセイの距離が一気に縮まっていく。たぶん、意表を突かれたのはぼくだけではなくて、ツキコもそうだったのだと思う。彼女はやや戸惑いながらも、センセイとの距離を更新し、その心変わりを受け入れようとする。ふたりは接近し、そしてすれ違う。センセイとすれ違いながら、ツキコはセンセイが実はセンセイなどではなく、松本春綱という人間であることを知らされる。

松本春綱はツキコの許を去ってしまうが、彼女は手元に残されたセンセイの鞄の中にその面影を感じ続ける。しかし、ツキコの想いが誰に向けられているのかはいまひとつ判然としない。センセイが松本春綱そのものであるような気がしないからだ。センセイとはツキコが生み出した幻影に過ぎないのかもしれない。だから彼女の想いは恋に似た別の感情のようにも感じられる。でもその一方で、それこそが恋情というものなのかもしれないなあ、という気もしてくる。そのどちらともつかないふわふわとした感じがとても味わい深かった。
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2006年02月21日

「サイドカーに犬」 この世界との距離

mou_speed.jpg長嶋有著『サイドカーに犬』 (収録:『猛スピードで母は』文春文庫)

弟に会いに行く途中、薫はコンビニに立ち寄り、そこで麦チョコをみつける。懐かしさを感じた彼女はそれを購入し、弟との待ち合わせ場所に向かう。

その麦チョコをみつけたことがきっかけとなって、薫は小4の夏休みを思い出す。父親の退職や母親の家出、そして洋子との出会いなど、よみがえる記憶は尽きることがない。

*****

母親が家出した直後、どこからともなく洋子が現れ、緩やかに閉じられていた薫の世界を細かく揺らしていく。その構造は、先日読んだ『タンノイのエジンバラ』の作品群とも繋がっているように感じられた。

その出会いがきっかけとなって、薫は外界との距離を見つめ直す。その視線はどこか醒めていて、あまり子供らしさがないのだけど、それがかえってある種の”らしさ”を感じさせる。彼女が発見したのは”寂しい自分”ではなく、”寂しくない自分”だった。だからといって、彼女は満たされていたわけでもない。母親にきつく抱きしめられている時でさえ、彼女は密かに血を流していたのだ。

*****

読み進めながら、近所にあったボウリング場や、父親が買い換えていった車のことなど、この作品と通じる自分の記憶に思いをめぐらせてしまった。

意識が目の前の文章から離れがちなのはぼくの癖なのだけど、薫にもどこか似たところがあるようだった。目の前の弟に配られる意識はどこか虚ろで、彼女はいつのまにか記憶の領域の内側へと深く潜っていく。意識が現実と記憶の間を滑らかに往来する様子はまどろみに似ていて、読んでいて心地よく感じられた。そして何度となく、サイドカーに座る彼女の映像を思い浮かべてみた。
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2006年02月15日

「タンノイのエジンバラ」 その向こう側にあるどうしようもなさ

長嶋有著『タンノイのエジンバラ』。文春文庫。4つの作品からなる短編集。

tannoy01.jpg「俺」、「私」、「僕」、「秋子」、彼らは皆しっくりこない。それでまともな仕事から離れてしまっている。とりあえずは失業給付金を受けたりアルバイトをしながら毎日をやり過ごしている。何がどうしっくりこないのか、理由はそれぞれである。

彼らは一様に孤独を抱えている。けれども、親の離婚や死、あるいは本人の離婚など、とりたてて「孤独」と騒ぐ程のものではないような気もする。この世界では誰もが抱える程度のものである。とはいってもどうにもしっくりこない。それで彼らは独りぽつりと暮らしながら心の均衡を保とうとしている。

そんな彼らの暮らしの中に、隣人の娘やら縁遠かった兄弟やら、あるいは少し図々しいフリーターの男などが入り込むことによって、保たれていた心の均衡が細かく揺さぶられる。その様子が繊細な細部の積み重ねによって描かれている。

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その細部の描写が味わい深い。特別な事件が起きるわけでもなく、描かれるのは日常や旅先などの風景、幼い頃の記憶、誰それの身振りなど、身近に目にするものばかりである。それでも、その表層が細かく描かれていたり、あるいはなおざりにされていたり、そのバランスのとり方が絶妙に感じられた。

『最近とみに思うのだが、僕は他人の気持ちが分からない。表面上では喜んでいても本当は悲しんでいる人とか、感謝の気持ちをもっていても素直にいえない人とか、そういう人の裏の気持ちが僕には見抜けないのではないかと思うことがある。(中略)
そうすると、世の中すべての人や物が僕にもたらす印象を、まるごと頭から信じるしかない』(「バルセロナの印象」p129)


彼らはみな同じようなことを言う。だから目に見えるもの、かつて目にしたものの描写が多用されるのだろう。しかし彼らは屈託なくそれを受け入れているわけではない。その先にどうしようもないものが横たわっていることを知っている。目に見えるものとその先にあるどうしようもないもの。その狭間で居心地の悪さを感じながら、その違和感に蓋をすることで生き延びているのだ。彼らがそれでもしっくりこないのは、きっとその蓋の納まり具合が悪いのではないだろうか。

いよいよその心の蓋が剥がれてしまい、とめどなく涙と声が溢れ出てくる。「三十歳」のラストで描かれる秋子の姿に、彼らが抱えるどうしようもなさが集約されているような気がした。

*****

思い出すことや想像してしまうことなどがいろいろとあった。「タンノイのエジンバラ」で俺が瀬奈の宿題をみつけるところ、「夜のあぐら」でお茶を飲んだ後に息を吐かずに我慢したのを思い出すところ、姉と一緒にいるところで噴水が不意に噴き出すところなどはとくに印象に残った。たびたび作品から離れて想いをめぐらせてしまった。

あと、中性的な雰囲気を漂わせつつも綺麗な女性にはしっかりと視線を送り、それも少し派手目の女性に目が向いてしまうような、そんな長嶋有氏に少し親近感を覚えてしまった。
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2006年01月30日

「虹とクロエの物語」 再会の後に

快晴。週末からクシャミとハナ。星野智幸著『虹とクロエの物語』を再読。

nijikuro01.jpg虹子とクロエはひとつの魂の表と裏のような存在で、小学5年生の時に出会って以来、いつも行動を共にしてきた。

中学生になり思春期に突入したふたりは、サッカー・ボールと出会うことでさらに絆を強くする。日課として、ふたりはリフティングとパス交換を繰り返した。ボールを通して交わりながら、ふたりはそれだけで会話ができるようになった。ボールは言語となり、その言語はふたりだけの世界をかたちづくっていった。

しかし学年が進むにつれて、虹子とクロエの間に距離が生まれ始める。ふたりは別の大学に進み、それぞれが属する世界に抵抗を感じながらもその流れに身をまかせていく。そしてユウジとの出会いによって、ふたりの絆は断たれてしまう。

*****

またもや、虹子やクロエ、そしてユウジと自分を重ねながら読み進めた。自分が過ごしてきたこの20年と、現在のことを改めて考えさせられてしまった。

20年前というと、ちょうどバブル景気が始まった頃。あれはロクでもない時代だった。皆が捏造されたフィクションに酔い、踊り狂っていた。浮き足立つ周囲を横目に見ながら、ぼくは大学に進んだことを苦々しく思った。いっそのこと全てを終わらせてしまいたいなどと考えながら、結局は何をするでもなく、うだうだと時流に身をまかせ、苦もなく就職を決めて、揉め事を起こしながらも大学を卒業した。それ以降の人生は余生だと思っていた。

20代の末、再びあの頃の葛藤がもやもやと湧き出てくるようになった。それから脈絡の無い転職をしてみたり、結婚から逃げ回ったりと、多少はジタバタしてはみたものの、それは誤魔化しに過ぎず、あっという間に35歳になって、超高層ビルにジェット機が突入し、そのビルが崩落して、呆然とする間にも時は過ぎ去り、気づくと40歳が目前に迫っていた。

*****

別れから20年後、虹子とクロエは再び顔をあわせ、共にボールを蹴り、旅をする。その再会の物語は、過去に捨て去ったもうひとりの自分と出会い直す物語として読むことができる。過去を捨て去ることなどできはしない。過去と向き合い、今を見据えながら、手探りで未来を模索するしかないのだ。

次作では40前後の男が主人公になるらしい。どのような物語になるんだろう。その時におれはどうなっているんだろうか。

(関連記事:「虹とクロエの物語」 引きこもり社会の中で生き延びること/2005/07/18)
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2006年01月13日

「ててなし子クラブ」 フィクションで支えられた偽装共同体の崩壊

星野智幸著『ててなし子クラブ』を読了。(文藝 2006年春季号)

bungei06spring.jpg父親の不在。とうの昔に父親は死んでしまった。それでもジョーは特別な苦労をすることもなく生き延び、高校生になった。高2の春、ジョーは脳内で架空の父親を捏造し、その捏造仲間を集めて「ててなし子クラブ」を設立する。

星野智幸の半生とジョーの生い立ちは重なる。母子家庭で育ったサッカー好きの少年。ジョーは父の不在をとりたてて悲劇的に受けとめてはいないが、何かしらの欠落感は抱えている。だから「ててなし子クラブ」で父親に関するフィクションを語り合うと気持ちが高揚するのだ。

*****

「ててなし子クラブ」を設立する前に、友人に連れられ、ジョーは「球なしサッカー」を観戦に行く。その名の通り、そこでは選手たちがありもしない球を偽造しながらサッカーをしていて、選手や観客たちはその偽装世界に熱狂している。その様子にジョーは驚嘆するのだけど、かといってサッカーの共同体に馴染むことはできない。彼はサッカー共同体から逸脱し、オルタナティブな共同体の設立を目指そうとする。

彼らの紡ぐフィクションは共同体の支柱とするにはあまりにも脆弱なものだった。やがて「ててなし子クラブ」は崩壊の憂き目にあってしまう。共同体崩壊ののち、ジョーはクルミと対になって父親の偽造を続けようとするが、その対の幻想も崩れ、ジョーはひとり取り残される。

*****

フィクションによる「共同体」や「対」という幻想が崩れ、どこまでも孤独な「個」が取り残されるという構造には、この社会そのもののあり様が投射されている。クルミが去った後、ひとり立ち尽くすジョーはぼく自身なのだ。読み終えた今、ぼくはこの先の世界を読みたいという欲望を抱いてしまうのだが、それは読む機会を待つようなものではなく、泥にまみれて模索するべきものなのだろうと思う。その世界の姿はまだ誰にも見えてはいないのだから。でも新作にはいろいろと期待しちゃうんだよな。
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「文藝 2006年春季号」 もうひとりの毒身

『文藝 2006年春季号』 特集:星野智幸

bungei06spring.jpg『文藝』が星野智幸を特集していたので購入した。書き下ろしの短編『ててなし子クラブ』以外を読み終えたところだ。といっても、評論は超ナナメ読みだけれど。それにしても、とても面白く読める特集だった。いろいろな意味で、気持ちが高揚してしまった。

最初に読んだ星野作品は『毒身温泉』だった。出家の本を貸してくれた友人が薦めてくれたのだ。ぼくは10数年前から、周囲の駄目人間たちのために集合住宅をつくり、そこで皆が緩やかな共同生活を送れるようにすると提案しているのだけど、その内容が『毒身温泉』で描かれている擬似家族のあり方に酷似しているとその友人は教えてくれた。

2年と少しくらい前に、ぼくは『毒身温泉』を購入した。久々に小説というものを読んだのだけれど、体から無数の蛆を湧かせている腐乱死体の様子を思い描きながら、これはぼくの物語なのだと認識した。さらに読み進めると、ぼくのものであるはずの長屋計画が幻覚のように浮かび上がってきて、薄気味悪いというかなんというか、言葉にならない衝撃を受けてしまった。と同時に、小説という媒体でしか味わえない映像世界があるのだということを教えられた気がした。

*****

対談やインタビュー、自筆の年譜などを眺めながら、あの時の感覚を思い出した。というか、星野作品を読む時には必ずといっていいほど感じてしまうのだけど。ぼく自身が大学を卒業し、就職し、退職するまでの過程が、その時の心情が、そこに綴られているような錯覚を抱いてしまった。当然、全てを重ね合わせようとすると、ズレるところがあるのだけど、またそれが興味深く感じられ、いろいろと考えてしまう。我ながらアブないなと思った。

いろいろな想いがめぐる。とりあえずここでは「いろいろ」と書いておく。だらだらと長くなりそうだし。少し頭を整理したあとに、その「いろいろ」について書くかもしれないし、書かないかもしれない。それは成り行きにまかせようと思う。

*****

『虹とクロエの物語』は単行本で再読する予定だ。特集を読みながらあの作品のことを考えていたら、自分とユウジが重なってしまった。ぼくはモダンに生きた人々の末裔で、どこまでも「ワタシ」のために生きようとする人間の子として孫として生まれてきた。ぼくは心のどこかで、その連鎖を終わらせたいと願っているのかもしれない。
それは特異な感覚のようだけれども、意外にそうではないような気もする。この国の中で暮らす人々の多くは自滅しがっているのではないだろうか、とぼくは妄想する。彼らにはその自覚がないだけなのだ。統計的な数値にも、「自滅」の兆候は表れているのだから。

「捨て石」となってすべてを終わらせたいという願望と、それを乗り越え、新たな地平を見出したいという想い。その葛藤が、ユウジの中にあったのだと思う。再読したら、またいろいろと考えてみようと思う。
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2005年12月28日

「溺レる」 深淵なるアイヨクの世界

川上弘美著『溺レる』を読了。文春文庫。

oboreru.jpgこれも短編集。どの話も、アイヨクに溺レる男女の姿が描かれている。いずれの男女も深く溺レながら、互いのからだを交えている。女のからだを荒く扱い、縄で縛って、嬲るように交わったり、ふたりで獣の臓物を貪り、その勢いで幾度となく交わり続けたりする。からだの交わりだけでは足りず、駆け落ちのようなことをしてみたり、崖から身を投げもする。さらに、それでも満たされず、ついには死の領域を突き抜け、不死のからだを得て、それから何百年も交わり続けたり。その後にからだが利かなくなると、相手に自慰を乞い、その姿を眺めたりと、描かれる欲情には果てしがない。

深く深く交じり合いながらも、男女の間にはどこか擦れ違いのようなものがある。あるいは、心ともからだともつかないもののズレというか。からだを深く絡ませながらも、心はどこか虚ろである。それでも深淵なアイヨクの世界に向かわざるを得ない。心の中のなにか得体の知れない領域、深い闇の世界がからだを突き動かして、そこに向かわせているのだろう。

男女の行為そのものの描写はあまりなく、その周辺ばかりが描かれている。女の抱く心情が、果てしなく続きそうな暗い夜道、窓の外で鳴る物音、鳥の鳴き声、腕時計の秒針の音などに投射されていて、それらがなにか恐ろしいもののように感じられる。淡々とした世界のようで、その奥に潜むものの気配が巧みに炙り出されている。

汲々とすればするほど、二人いっしょではなくなる。二人で協同しているのに、ひとりびとりである。鋳物をつくる中子と雌型のようなものだ。ウチダさんとわたしの間の隙間にひとつの型をつくりあげるために、ウチダさんという内側を充填しわたしという外側を用いる。またはウチダさんという外側を用いわたしという内側を充填するのか。どちらともつかぬ、ともかく充填し用いあってできてくるのは、ウチダさんでもないわたしでもない、そのあわいに生まれでてくるところの形象である。(「神虫」)

本能といえばそれまでなのかもしれないけれど、ヒトを交わりへと突き動かす欲情、その成り立ちとは不思議なものだ。無理を承知で、それでも渾然一体となるべく、求め続けるのだ。その欲情の根を辿ると、深い闇の世界へと行き着くのだろう。そこは死の領域とも近しいのだと思う。読み進めながらその気配を感じ、それが恐ろしくもあり、魅惑的でもあった。
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2005年12月02日

「インストール」 ある少女の決意

綿矢りさ著『インストール』を読了。河出文庫。

install.jpg高校三年生の朝子。彼女は教室に漂う空気に違和を感じ、それに耐えられなくなって、高校に通うことをやめる。

自分は何者かにならなけらばならない。その焦燥と不安を、彼女はどうすることもできずに持て余している。そして抱えている混乱が彼女の部屋に投射される。夕陽に照らされて浮かび上がるゴミ箱のような空間。廃墟のように成り果てた自分の部屋を目の当たりにして、彼女は愕然とする。そして彼女は部屋の中にある全てのものをゴミ捨て場に運び、棄ててしまうのだ。

朝子の混乱を深めてしまっているのは、周囲の人々との繋がりの薄さだ。教室の中の人間関係は薄っぺらなものだし、唯一の家族である母親は自分に対して無関心であるように感じられる。どん詰まり。彼女は路上に横たわるしかない。

そんな行き詰った朝子を救うのは、亡くなった祖父からもらった1台のPCと、ゴミ捨て場に通りかかったひとりの小学生かずよしである。かずよしは廃品と化したPCを朝子から譲り受け、再インストールすることによって蘇生させる。そしてふたりは復活したPCをつかったエロ・チャットのアルバイトを始めるのだ。

ふたりは押入れという抜け穴から仮想空間の中へと潜り込み、そこで剥き出しにされている大人の欲情と交わる。大人の心の闇の領域に触れることによって、ふたりは大人の世界に対する怖れを拭い去ることができるようになり、それを克服するための手ごたえを感じる。そこから視野が開け、家族や周囲の人々との繋がりの中に自分が存在していることが再認識されていく。

祖父と繋がるはずであったPCは、その役割を果たせないまま廃品になっていたのだけれど、そのPCが蘇ることによって、朝子に他者との繋がりを取り戻させる。なにかそこには目には見えない祖父の力が働いているようにも感じられる。あるいは、作者の祖父に対する想いといえばいいのか。そういった亡き者に対する想いのようなものが、この物語の背景にあるのかもしれない。

*****

17歳の少女が書いたデビュー作という情報が頭の中にあったので、それを意識しながら読んでしまった。少し甘く見るところもあったかもしれないし、自分との距離を測りつつ読み進めるようなところもあった。自分との距離は、あるようでないというか、予想していたよりも感じられなかった。アンチ・エイジングな社会の中では、「青春もの」というカテゴリーは成立しないのかもしれない。それは朝子の抱える生きづらさにも繋がっているのだろう。

また、作品の中に溢れる比喩に初々しさを感じるところもあったけれど、それは若さというよりも、デビュー作が持つエネルギーみたいなものなのかもしれない。複雑な感情を抱えながらも大人の世界に飛び込もうとする朝子の決意には、作家として生きていこうとする作者の意思が重ねられいたような気がする。デビュー作ならではの魅力が、この作品の中に詰められているのではないだろうか。

予想以上に面白く読むことができた。その後の作品も読んでみたくなったけど、文庫化されるのはまだまだ先のようだ。
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2005年11月25日

「神様」 野生の領域への郷愁

晴れ。寝起き悪し。川上弘美著『神様』を読了。中公文庫。9つの物語からなる短編集。「わたし」とその周辺の人々によって紡がれる非日常的な日常が、「わたし」によって語られていく。

この世界に馴染めてはいないような「わたし」は、それでも淡々と日常をやり過ごしている。そんな「わたし」の前に、人とは違う生き物、あるいは憑き物が現れる。川上弘美のデビュー作にあたる冒頭の「神様」では、「わたし」がくまとハイキングに出かける様子が描かれている。しばらく前に、くまが近所に引っ越してきたというのだ。

kamisama.jpg『龍宮』とよく似ている。くま以外にも、梨の憑き物や河童、亡くなった叔父、チジョウノモツレにより殺されたという娘が壷の中から現れたりもする。彼らは日常の中に抜け穴をつくる役割を果たしていて、彼らとのやりとりを通しながら、「わたし」は心の奥底に閉じ込めていた感情をかすかに呼び起こされてしまう。その感情とは、欠落感というか、ある種の郷愁のようなものだ。あるいは、決して手の届かない領域にある何かに対する想い。その何かが、「神様」という言葉に集約されているように感じられた。

くまと「わたし」の関係を描いた冒頭の「神様」と、最後の「草上の昼食」という物語に、本著の主題は集約されているのだろう。
山の神を象徴する生き物であるくまが、近所に引っ越して来る。くまにしては立ち振る舞いが洗練されていて、上品な人のように感じられる。昔々を辿ると、「わたし」とくまは、何かの縁があるらしい。くまと親しくなった「わたし」は、共にハイキングに出かけるようになる。その過程で、「わたし」はくまが抱える野生を垣間見る。「わたし」はそこに恐ろしさを感じないわけではないけれども、それよりもどちらかというと、何か心の中の強張りが和らぐような感覚を抱いてしまう。
しかし、くまは「わたし」と同じ世界で暮らし続けるわけにはいかず、自分の世界に還っていく。「わたし」はどこにあるのかもわからない遠い世界のくまを想い、届くことのない手紙を書く。

*****

いまこの世界を生きる人間は、自然を遠ざけ、無意識に蓋をして、恋愛による痴情のもつれを回避しながら、居心地のいい日常を手に入れようと努める。その一方で、遠ざけてしまった世界に対する郷愁のような感情も抱えてしまう。その歪みによる欠落感は、心の中に底の抜けたような深い欲望を植えつけるのかもしれない。そしてその欲望が、人間をあらぬ方向に駆り立ててしまうこともあるんだろう。

心の欠落と付き合うために、何をすればいいのか。とりあえずは映画や他の芸術に触れながら、くまに宛てた手紙のような戯言を、仮想空間の片隅に書き綴るしかないのかもしれない。

(関連記事:「龍宮」 野生の領域に還る/2005/11/07)
posted by Ken-U at 17:26| Comment(8) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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