2005年11月17日

「最後の吐息」 生死を超越して混ざり合う

星野智幸著『最後の吐息』、表題作を読了。河出文庫。

星野智幸の小説を読むと快感を覚える。いったん読み始めると、そのままずっと読み続けていたいような、終わってしまうのがもったいないような、そんな気にさせられることがあるのだけど、この『最後の吐息』を読んでいる間も、悦びと痛みが混ざり合ったようなある種の快感を得ることができた。

saigonotoiki.jpg真楠は何者にもなることができず、この世の中に自分の居場所を見つけられずにいる。彼はここではないどこかを求めているうちに、この世界の裏側にあるメキシコへと辿り着いた。メキシコでも確たるものを掴めない真楠は、まだ読んだことのない作家や、緑に輝くハチドリや、遠い日本で自分を想い続ける恋人の不乱子そのものになってしまいたいという衝動に駆られながら、不乱子に捧げる「最後の吐息」という物語を綴っていく。

読み進めていくうちに、平衡感覚を奪われ、体の輪郭が曖昧になりながら溶け出していくような気がしてくる。物語の世界と溶け合っているような気分に浸りつつ、しばしば意識は文章から離れてしまい、それでも我に返るというわけでもなく、その中間のなにか曖昧な領域の中でゆらゆらとまどろんでいる。そのまどろみの中で爆弾が破裂し、ぶらぶらと血管を垂らす肉片となって飛び散っていく自分の姿を思い描いたりしてみた。

*****

星野作品に触れていると、小説にしか描けない世界というものを感じることができる。その世界は、映像にすることができない映像によって描かれているから、映画にすることなどはできないだろう。現実には見ることのできない光景を目の当たりにしたり、セックスを超えたセックスを感じたりと、肉体で感じる以上の感覚を心の奥底から引き出させるような、そんな力が秘められているような気がする。

他の星野作品と同じように、この作品の中にも現代を生きなければならない者の生き辛さと、抱える絶望から湧き出てくる衝動が描かれている。その衝動は、現代社会の表層を突き抜け、そのさらに奥にある、生死を超えた根源的な領域へと向けられている。星野作品から感じる官能は、その強い衝動によって支えられているのだと思う。

長編デビュー作ということで、この作品には星野作品の核のようなものが埋め込まれているように感じられた。繰り返して読んでみたくなる作品だった。


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2005年11月07日

「龍宮」 野生の領域に還る

川上弘美著「龍宮」を読了。文春文庫。8つの物語からなる短編集。

最初の「北斎」と題された作品。会社を辞めてぶらぶらしている男が海辺で佇んでいる。すると、目の前に見知らぬ男が現れる。その得体の知れない男は彼につきまとい、半ば強引に飲み屋に連れ込んでしまう。そして酒を飲みながら身の上ばなしを始める。その昔、男は海に棲む蛸だったという。突然湧き上がった欲望に押されて、陸に上がってしまったというのだ。彼は一方的に進められる話を疎ましく思いながらも、どこか惹かれるものを感じ、その蛸男から離れることができなくなってしまう。

ryugu.jpgこの世にうまく適応することができずにいる人間の前に、人のようで人ではないような、得体の知れない生き物が現れる。その人で非ざる人と人間とのやりとりが描かれている。現れ出る人非人は、物語によって変わっていく。蛸であったり狐のようなものであったり、あるときは自然界に宿る神のようなものであったりする。実際、目の前に現れているのか、それとも単なる幻なのかは判らない。ふと目の前に現れて、唐突に暗闇の向こう側へと走り去ったりする。

5編目の「うごろもち」以降、物語の視点は人間から人非人へと移る。彼らが人間界に身を置くようになって感じている違和感や、自然界への郷愁のようなものが描かれている。彼らの心情を追っているうちに、自分も海に還りたくなる。あるいは、アマゾン河の泥水の中に戻りたくなるといえばいいのか。

官能的な匂い漂う寓話集だった。読んでいると、こみ上がってくるものがある。自分の中の非人の部分が刺激され、少し解放されてしまうような。
人間はまだ完全な人間にはなりきれてなくて、今でも非人の領域を心の中に抱え続けている。その心の中の非人は、荒々しい自然の領域を求めているのではないだろうか。進化とともに遠ざけられていく自然界に対する郷愁のようなもの。この世に生まれ出る前にすり込まれた遠い記憶というか。そんな得体の知れない感覚が、この作品の中には閉じ込められている。とても魅力的な作品だった。

(関連記事:「神様」 野生の領域への郷愁/2005/11/25)
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2005年08月19日

「きれぎれ」 ぬらぬらでゆらゆら

町田康の「きれぎれ」を読了。文春文庫。

kiregire.jpg男はかつては画家を志していた。今は職に就くこともなく、事業を営んでいる母親にぶら下がって生きている。とりあえずぶらぶらしている。

そしてランパブに行く。わあきゃあわあきゃあって感じで勝手に盛り上がってるランパブの狂騒の中で、全てを振り払う。意識はゆらゆらぬらぬらとまどろんでいる。現実と幻想が目の前で混ざり合っている。

冒頭からランパブまでは、読んでいて気持ちがいい。さすがミュージシャンが書いた文章、って感じでとても音楽的に響いてくる。でもなんだか大昔、10代の頃に読んだ小説みたいだっていう印象を受けた。とても古い言葉が遣われているからっていうのもあるかもしれないけど、男の立ち位置や目線が明治〜戦前の小説家っぽいのかな。

見下していた同窓の男が画家として成功したり、母親が死んだり。男の意識の片隅には焦燥感がある。だからまたランパブに行く。焦る。そしてランパブの女と結婚する。

駄目な男の目線から延々と語られる心情、厳しい現実、逃避、ランパブ、見る幻。自分と繋がるところが無きにしも非ずだけど、そんなに共感できるってわけでもない。でも駄目人間の視線の先にサンドイッチマンがいたのは少し嬉しかった。うちにも充填豆腐が冷やしてあるけど、日持ちもするし、そんなに悪いもんじゃないと思うけどな。

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町田康といえば町田町蔵。たしか彼が主演してた「熊楠」って映画があったと思うけど、あれって結局ボツになったんだろうか。
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2005年08月16日

「ベルカ、吠えないのか?」 イヌの世紀を駆け抜ける

古川日出男著、「ベルカ、吠えないのか?」を読了。

belca.jpgイヌの物語。イヌの姿を通して20世紀後半、第2次大戦後の世界が描かれている。

なぜイヌなのか?それは20世紀が戦争の世紀であり、軍用犬の世紀であるから。20世紀はイヌの世紀だったのだ。

キスカ島(鳴神島)に4頭のイヌが置き去りにされる。うち3頭は日本軍のイヌで、1頭は米軍捕虜のイヌ。3頭はジャーマン・シェパードで、1頭は北海道犬(旧称アイヌ犬)。3頭は雄で、1頭が雌。そしてイヌの物語は始まる。

イヌたちは、世界に翻弄されながらも生きる。そして子を生して、その血を継いでいく。あるイヌは生き延び、あるイヌは死ぬ。エリートの軍用犬、または愛玩犬として、シェパードの純血を継いでいくイヌもいる。別のイヌたちの血は、異種の血と混ざり合いながら、イヌたちを雑種化し、野生のモノとする。そして人間がつくりだした血統の枠から外れ、穢れていく。

そうして血を継ぐイヌたちは、殖えながら世界に散らばっていく。北中米、東アジア、ベトナム、アフガニスタン、そしてロシアへと。

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読んでいて不思議な感覚を覚える。まず、とても静かに物語が進んでいくこと。それはイヌたちの姿が、神の視点から語られているから。それにイヌたちはあまり擬人化されずに描かれていて、だから地の文が多くて台詞が少ない。映画でいうと、ロング・ショットとズームの組み合わせが多用されている、っていう感覚か。遠くから覗き見るような感覚。

それでも物語に惹きつけられる。感情移入することができる。それはおれがイヌだからか?オレハ、イヌダッタノカ?所詮ぼくは、あなたと同じ1頭のイヌに過ぎないのかもしれない。そんなことを考えた。

イヌは社会的な動物だから、その階層を理解する。そして尻尾を振る。服従する。人間社会の下層にイヌたちは位置している。人間のイヌとして。
軍用犬は軍隊の下層に位置し、前線に立たされる。イヌのエリートとして。そこから外れたイヌたちは、マフィアに飼い慣らされ、彼らの一員となる。さらにそこから外れたイヌたちは、孤立したケダモノとして、あらゆる人間の敵となる。これらのイヌの姿はイヌを超えて、とても象徴的に描かれている。

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2005年08月01日

「阿修羅ガール」 心の中のカオスと向き合う青春物語

やっとのことで、舞城王太郎の「阿修羅ガール」(新潮文庫)を読了。他の本読んだりしながら、何度となく放置してしまった。実は読むのやめようかとも思ったんだけど、後半はある意味サクサク読めたので、どうにか最後まで辿り着いたという感じ。だから物語の最初のほうの記憶は、かなりぼんやりとしてしまっている。

asura_girl.jpg高校生の桂愛子が、自分の心の奥底に潜んでいる暗闇の世界に触れてしまうといったお話。その暗闇の中には、人間の命を脅かすような無秩序でドロドロとしたなにかが蠢いている。そしてある事件がきっかけになって、そのドロドロが噴き出してしまい、愛子が暮らす調布の街は少年たちやニートによる暴力で埋め尽くされる。

「熊の場所」に近い作品ってことになるんだろうか。思春期の子供が心の中の野生を持て余しながらも、やがてその野生と向き合っていくっていう。で、その野性的なドロドロしたなにかが阿修羅像と重ねられている。阿修羅を抱えた少女の青春物語というわけだ。

心の奥底に潜んでいる暗闇っていうのは、やはり人間の無意識の領域ということになるんだろう。愛子は事件によって、生と死の境界をさまよってしまう。臨死状態の中で、いろんな映像を見る、っていうか、映像化された自分の無意識の世界の中をさまようことになる。その経験の中で、自己の無意識と折り合いがつくっていうか、人間として成熟し、少し大人へと近づいていく。

序盤の物語が途中で放り投げられて、中盤から愛子の無意識の世界が延々と描かれている。物語のノリは子供向けって感じだし、愛子も含めた登場人物のキャラがやや平板なので、読むのやめようかなっていう瞬間が何度かあった。最後はそれなりにまとまるんだけど、でもいい歳してわざわざ読む作品でもないかなっていうのが正直なところ。やっぱり、あの「煙か土か食い物」の興奮と較べると物足りない。デビュー・アルバムを超えられないミュージシャンってけっこういるけど、もしかしてそういうタイプなんだろうか。次の舞城作品はどうしようかな。

(関連記事:舞城王太郎「熊の場所」 超越した力の克服/2005/01/16)
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2005年07月18日

「虹とクロエの物語」 引きこもり社会の中で生き延びること

bungei0507.jpg文藝秋季号、星野智幸「虹とクロエの物語」を読了。

清沢黒衣(クロエ)と宮原虹子は、小学校五年生の時からの友達同士だ。ふたりは同じ魂の裏と表のような関係で、時には反発しあうこともあるけれども、それでもふたりだけの閉じた世界を保ちながら学生生活を送っている。
中学に入学すると、ふたりは放課後にサッカーボールを蹴り合って遊ぶようになる。高校に入る頃になると、ボールはふたりだけの言語になっていて、ふたりは互いの絆を確かめ合うようにボールと戯れている。

比喩でなく、球は言葉だった。私は球の蹴り方を組み合わせることで、面白い冗談が言えた。クロエはときどき、笑いすぎて私の球を受け損ねた。そんなとき、球は川に飛び込んだ。クロエはクロエで、リフティングで即興詩を読めた。締めの言葉球がこちらに届くとき、私は感動のあまり泣いていたりした。日本語には翻訳はできないけれど、球のやりとりで噂話もした。クロエはうっかり間違えて、通行人にリフティングで時間を尋ねたこともあった。

ユウジは西の果て、長崎の五島列島の中に浮かぶ、ある無人島に幽閉されている。いや、自らの意思によってその島で暮らしているのだから、それを幽閉とはいわないのかもしれない。ユウジは、幽閉されているのは世界の方だとさえ感じているのだから。彼は人間でありながら、吸血鬼のような生き物でもある。人の体の中からエキスを吸い出して、その人のコピーになるという生き物。ユウジはその最後の末裔として、その血を絶やそうと島で独り暮らしている。そしてその島の中で干からびてしまいたいと願っている。

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序盤、クロエと虹子が同窓会ですれ違うあたりまでは、もうひとつ物語の中に入れなかった。正直いってまた滅びる劣化コピーの話か、という印象があったからだ。それでも虹子がレインボー・メーカーを動かすところから、この物語の中に入ることができたような気がする。まだ虹子がクロエと親しかった時に、大学の合格祝いとしてもらったレインボー・メーカー。それは動作すると虹の破片を生み出し、その破片たちは虹子の分身へと姿を変えて、虹子と共に戯れるのだ。

徹底して乾いた世界を描いていた「在日ヲロシヤ…」とは違い、この作品には幻想的な世界が含まれていたので、それに酔いながら読み進めることができた。レインボー・メーカーの生み出す幻影に限らず、蹴鞠のようなボール遊び、サッカー観戦などから感じられる神秘的な何かを味わうことができる。

それに、クロエとユウジの交わり。そしてユウジがクロエを吸い取りたいという衝動に襲われながら、それを懸命に抑えようとする姿。それらの場面から、官能と同時に強烈な孤独や切なさを感じてしまう。そういった幻想や官能が、この物語の世界に広がりをもたらしているような気がする。

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ずいぶん昔に引きこもりについて書いたことがある。引きこもりとは、社会を拒絶して自分の世界の中に閉じこもってしまっている存在だと思うけれど、この引きこもり社会から解放された存在だといえなくもない。彼らはこの社会の鏡なのかもしれない。両者は反発しているようで、互いを映し合っている同類のようにも感じられる。
ぼくも会社を辞めて小休止しながら、社会から解放された気分を満喫しているようで、その反面、これは引きこもり的な生活だな、とも感じることもある。どっちが外で内側なのかがわからなくなるときがあるのだけど、この物語の中にはその感覚が巧みに投射されているように感じられた。

クロエと虹子、そしてユウジ。そしてクロエの胎内で20年間も行き続けている"胎児"の存在がとても象徴的であるように感じられる。それぞれが生きづらさを抱えながら、それでも自己やこの世界と向き合いながら生き延びてゆく。最後になんともいえない余韻の残る作品だった。単行本が出る頃にまた再読したい。

(関連記事:「虹とクロエの物語」 再会の後に/2006/01/30)
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2005年07月07日

「在日ヲロシヤ人の悲劇」 殺され続ける女

worussia.jpg星野智幸「在日ヲロシヤ人の悲劇」を単行本で再読。

アナメリカで起きた大規模な爆撃テロをきっかけにして、ヲロシヤ国大統領は、ヲロシヤ国内で活動するイスラム系テロリスト撲滅を名目にした圧政を敷く。日本政府はアナメリカ政府の要請を受け、日本国軍をヲロシヤ国に派兵する。ヲロシヤ人を支援するためのNGO「ヲロシヤン・コネクション」の主宰者である市原好美は、ヲロシヤ国からの日本国軍撤退を求めてハンガー・ストライキを行うが、ハンスト中に睡眠薬入りのスポーツ飲料を飲み死んでしまう。好美が政治活動に身を投じて死に至るまでの様子が、市原家の崩壊とともに描かれている。

好美の父、市原憲三は団塊の下の世代に属していて、徹底した空虚な存在として描かれている。戦後日本における、無責任なリベラル個人主義者の典型のような存在。中道のノンポリティカルで、個人勝手主義のご都合主義者。近代日本人の劣化コピーの成れの果てのような男だ。自由や個性の尊重を建前に、他者と関わろうとはせず、自分の家族も見殺しにしてしまう。自分は空っぽのくせに、ご都合主義的に娘に擦り寄りながら、自分の空虚さを娘を利用して埋め合わせようとしている。

その結果、長女の好美は世間から左翼の烙印を押されてバッシングを受ける。弟の純は、その反動からか、新右翼を自称して独りで活動を始めるようになる。憲三の妻、貴子は妻として、そして母親としても存在することが許されず、憲三に離婚を申し出る。彼らはお互いに姿を映し合い、利用し合い、罵り合いながら滅びていく。

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崩壊する市原家の中で、明確に死んでしまうのは母親の貴子と長女の好美のふたり。女だけが死んでしまう。それはこの家族や、あるいは、彼らが身を置く現代社会が、「女」というか、「母性」というものを排除していることと繋がっているのだろう。貴子は既に女としては存在しておらず、母親としての居場所もなくなり、離婚を申し出て、その後自殺する。好美はセックスを苦痛に感じていて、恋人という存在を拒絶するようになる。自分の中の女を殺し、自分が子を産む母となる可能性をも殺そうとしている。女を殺す女が繰り返し殺されてしまう物語。そこには、あらゆるレベルで「女」が排除されてしまう現代社会の有り様が投影されているように感じた。

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2005年07月02日

新しい大作家をめぐって / 崩落するユートピアとか

BSドキュメンタリーの録画予約を、2日連続で忘れてしまっていた。かなりショック。夏の暑さのせいだな、きっと。後半だけでも録画しようと思っていたのに。

だからというわけじゃないけれども、「文學界」7月号、鼎談「村上龍『半島を出よ』を読み解く」を、図書館でコピーとり読んでみた。ぼく自身は、昔から村上龍にはまったく興味がないんだけど、この作品は巷でとても評判がいいようだ。意外なところで、星野智幸氏が評価してたりするし。

bungakukai0507.jpgこの鼎談の中心は松浦寿輝氏。そこに星野智幸、陣野俊史の両氏がアクセントをつけるという流れ。松浦氏のことはよく知らないが、彼の言葉はとても興味深かった。とくに、この作品はふたつのユートピアが闘う様子を描いた物語であるという視点。ふたつのユートピアというのは、管理社会を局限化した「最適社会」と、自由を徹底した「コミューン」。このふたつの極限的な共同体モデルが激突するという、寓話的な物語だという意見は面白かった。しかし、肝心の作品は読んでないんだけど。その少し後に、星野氏の「対ということは似たもの同士である」という発言が加わりながら、この鼎談は進んでいく。

松浦氏の言葉には、ほかにもいろいろと気づかされることがあった。ぼくには読書するための脳の筋力が不足しているので、あの「半島を出よ」のボリュームを読み切ることはできないだろう。だからせいぜい、この対談からいろいろとイメージを膨らませるくらいにしておこうと思う。

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「半島を出よ」から話がそれてしまうけど、この鼎談を読みながら思ったのは、他者について語ることは、自己について語ることとよく似ているということ。星野氏の言葉を拾いながら、それを再認識したところがあったり。この世の中は鏡だらけ。そのあたりは、いま読みかけてる「在日ヲロシヤ人…」を読み終えた時にでも書き留めるか。それにしても、読書の時間とらなさ過ぎ。夏は読書に向かないな。
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2005年05月25日

「世界は密室でできている」 密室を抜け出そうとする野生

the_world_is.jpg久々の小説。そして久々の舞城王太郎。文庫版の「世界は密室でできている」を読了。密室の中でたくさんの人が殺されまくり。といっても、ミステリーの要素はあまりない。「煙か土か食い物」にも登場した探偵ルンババと、その親友、西村友紀夫の12歳から19歳までを描いた青春物語といったところ。

この作品では密室が物語の中心に据えられている。密室の中で無残に殺される人やら心中を図る人、子供や知らない男を密室に閉じ込める人なんかがぞろぞろと出てくる。この作品で描かれている密室とは、超越した力が支配する世界とは反対側の、幾重にも仕切られた硬質な世界、つまりぼくがいま存在するこの世界のことを表しているんだろう。この世界は密室でできている。そして密室の中で無残な死に様を晒す人々。その姿には、この世界の中で抑圧され、押し潰されている人々の姿を重ねることができる。

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この密室から逸脱してしまう存在として、ふたりの女が描かれている。ひとりはルンババの姉の涼子。もうひとりは、友紀夫がひょんなことで出会った井上椿。しかし、このふたりには不幸な結末が待っている(椿は?)。そして残されたルンババと友紀夫、椿の妹の榎は、健全な野生を発揮しながら、この「密室」と、愛する人の死を乗り越えようと成長していく。人間が持つ本能は、密室の外側にある野性的世界に触れることを求めている。
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2005年04月21日

「アルカロイド・ラヴァーズ」 この世の先にある楽園へ

alkaloid_lovers.jpg星野智幸「アルカロイド・ラヴァーズ」を読了。

あなたの部屋が燃えあがっていると、編集部で残業をしていた咲子のもとに消防署から連絡が来たのは、終電もとうに過ぎた深夜だった。

冒頭、「あなた」という二人称でこの作品が始まるのがとても印象的だった。「あなた」とは陽一であり、ベンジャミンであり、ぼくでもあるかのようだ。この物語はぼく自身に突きつけられている。こういう始まりかたにゴダールの「軽蔑」を連想してしまった...そしてあなたやわたしが生きているこの世界と、楽園(パラディソ)の間を行き来しながら物語は進行していく。

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かつて咲子は楽園の住人だった。その楽園は見渡すかぎりの草原。その頃の咲子は植物から生まれ、やがて死んでは土へと還り、また生まれ直しては死ぬのだった。その生命の連鎖は永遠に続くかのように感じられ、そこには時間さえ存在してはいないようだった。そこにはサキコも含め9人の魂が棲んでいて、そして互いに愛し合っていた。

その楽園の光景を読んでいると、なんともいえない快楽を感じてしまい、いつまでも読み続けていたいという欲求に駆られる。そこでわたしたちは誰とでも愛しあい、まぐわい続けることができる。時には嫉妬し、憎み、血を流し合い、互いの肉を喰らい合う。そしてあなたはわたしとなりぼくになる。わたしとあなたの境界が曖昧になって、溶け合うことで得ることのできる快感。そしてあなたの肉は腐り、土へと還る。周囲の草木や大地との境界や、時間の流れさえも曖昧になり、すべてがひとつになってしまうような感覚に包まれる。
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2005年02月21日

阿部和重 形式主義とロリコンの繋がり

「文學界」三月号 ◎蓮實重彦×阿部和重 特別対談 『形式主義の強みと怖さをめぐって』
bungakukai.jpg
タイトルに釣られて読んだ。
めでたく芥川賞作家になられた阿部氏は、自身の「形式主義」について以下のように発言されている。

阿部:イマジネーションをある記号に押し込んでいって、抑制していくような形で作品がつくられているんですね。

彼の「形式主義」についてはこの言葉に集約されるんだと思う。そしてその形式主義もベタではいかんと。ベタだと形式への敗北に終わってしまうと。ズラさなあかんと。ズラしていかなあかんと。まあそううことを阿部作品はもちろん、ゴダールや大江健三郎を引用しながら手を変え品を変え延々と語り合っていらっしゃった。

なんかこの対談自体が抑制とズラしに満ちているような。そして対談中につかわれる「抑制」「抑圧」という言葉が印象に残る対談だった。
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2005年02月02日

さらに舞城王太郎 −闇とともに生きる

kuma.jpg「ピコーン!」読了後の雑感など。今日で舞城は一段落。まあもう1冊単行本を買ってしまってるんだけどw

智与子は中学卒業後、高校へは進学できずにバイト生活。恋人の哲也はバイクに喧嘩の毎日。幼稚な哲也とは違って、智与子はふたりの将来を考え大検受験を決意する。そして哲也にも仕事にまじめに取り組むよう諭す。フェラチオを通して...それも1ヶ月に120本のペースで!!!
智与子の「精通した」フェラチオのテクニックで、哲也にも徐々に社会人としての自覚が芽生え、さらにフェラチオからの自立を決意する。
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posted by Ken-U at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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