2010年01月14日

「空気人形」 ガラス玉の心、きらきらして

是枝裕和監督 『空気人形』 (シネマライズ渋谷)

こころをもってしまった。

kuki-ningyo.jpg生命の宿った空気人形が、ひとり窓辺にたたずみ、垂れるしずくを手に受けて、きれい、とつぶやく。たしかに、ぽつりと垂れるしずくは綺麗にみえる。でもあのとき、窓の向こうに広がる世界は彼女の瞳にどう映っていただろう。

この世界は代用品で溢れている。豊かさのため、この世に送り出される無数の代用品群は、それらを求める人々と出会い、使い古されて、最後はゴミとなり果て捨て去られる。もちろん、女の代用品である空気人形もその例外ではない。心を持ち、揺らし、恋をして、嘘をつき、信じ、裏切られて。でも、この残酷な運命から逃れることはできないのだ。

とはいえ、代用品ではない存在なんて、この世にどれほどあるのだろう。彼らが言うように、みな中身は空っぽなのかもしれない。外側ばかりで、中は虚しいのだ。では、虚しさの中に心はあるのだろうか。それはどこから来て、どこへ消え去ってゆくのだろう。そして生命は。誰も、なにもわからない。

海辺で、ラムネの瓶を拾い上げて、ビー玉をからから鳴らす様子が綺麗だった。瓶は、太陽の光を浴びてきらきら輝いていた。星を見上げた。バイクで走り回った。船で川を下った。欄干の人たちに手を振った。映画のことを憶えた。それがすべて。でもひょっとすると、それで十分なのかもしれない。

少し不思議な色合いをしていたけれど、描かれている世界は確かにこの世と地続きだと思った。ファンタジーのようで、でもどこか妙な現実味があり、眺めていて、切なくなる。ぺ・ドゥナが綺麗だった。思ったよりも肉感的で、少しどぎまぎして、官能と、哀しみと、フェティシズムと、そしてあの空気をめぐる交感シーンに痺れた。

たぶん人は、あのラムネの瓶のような存在なのだろう。空っぽで、でも光を浴びるときらきらして。そしてガラス玉の心を揺らし、その響きがほかの誰かを魅了するのだ。そしてその響きのつらなりが、音楽になる。
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2008年08月13日

「歩いても 歩いても」 死の暗闇、家族

是枝裕和監督 『歩いても 歩いても』 (アミューズCQN)

失業中の男が、妻子を連れて生家に帰る。そこで一夜を過ごす。

aruitemo00.jpgなにも特別なことが起こらない一日。しかし、日常とはどこか違う一日。是枝監督は、そんな家族の一日をうまく映画に仕立てていたと思う。

まず、台所で発揮される年老いた母親の手仕事に見入ったり、彼女とその娘との間で交わされる滑稽な言葉の応酬ににやりとさせられたりしながらすんなりとこの作品世界に入り込んだ。ここで暮らす老夫婦の息子と娘はすでに独立して各々の家庭を持っており、それぞれにいろいろなものを抱えながら暮らしているのだけれど、しかしこの一日のために毎年、生まれ育った家に集まり互いの顔をあわせている。とくに本作の中心人物である失業中の男は、亡き兄に対して複雑な思いを抱いていたり、父親との間に確執めいた心の壁があったり、かと思うと、妻の連れ子である息子との間に微妙な距離があったりで、あまり気乗りのしなかったこの集いの中で少し居心地の悪い思いをしている。でもまあ、懐かしい料理を口にしたり、これまで何度も繰り返されたはずの思い出話に花を咲かせたり、ほかにも他愛のない会話で笑ったりむっとしたりしているうちに、その居心地の悪さにも慣れるというか、心が少しほぐれ、この家族の一部分としてにそれなりに気持ちをおさめていく。そんな細部の集積体として描かれているこの家族の情景を眺めていると、不思議とどこか懐かしく思えてくる。たしかに親戚の集まりとはこんなものだったなあ、と感じてしまうのだ。そうして自分の子供のころの思い出や、家族のない人生を歩んでいるこれからのことなどに思いをめぐらせてしまう。

平凡な暮らしの中にも必ず死は訪れる。人は死ぬし、しかし死によって残される人たちはその死を乗り越え、その後もそれぞれの生を続けていかなければならない。本作でいえば、長男の不幸な死と、間もなく訪れるのであろう老夫婦の死の問題がある。つまりここで描かれている一日は、亡き長男の魂を鎮め、残された人たちの心の傷を癒すためにあり、そしてさらに、年老いていく両親がこの世を去る日が刻々と近づいていることを実感し、その心の準備を進めるためにあったのだと思う。本作は、その死の暗闇を家族で包み込み和らげていく様子を描いている。
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2006年06月06日

「花よりもなほ」 糞を餅に変えるこころ

日曜日は渋谷。曇り時々晴れ。是枝裕和監督『花よりもなほ』

長屋という言葉の響きには不思議な魅力がある。ぼくは今でこそ低層マンション暮らしをしているけれど、将来、結婚できない駄目人間が集う長屋を建設する計画があるので、そこにぼく自身も入居しようかと考えている。ぼくはこの計画を、10年以上前から周囲に吹きまわっているのだけど、年を重ねるごとに賛同者は増える一方である。世の中、それでいいのだろうか。

hanayorimonao03.jpgさて、この『花よりもなほ』の舞台も長屋である。ただし、時は近未来ではなく、元禄15年、江戸時代の長屋が描かれている。こじんまりとしたお稲荷さんの脇から坂を下ると、そこにはとても粗末な格好をした、何を生業にしているのかも定かではないような輩がうじゃうじゃと暮らしている。この物語の主人公、青木宗左衛門もその中のひとりである。が、彼は父親の仇を討つために長屋に身を潜め、その仇討ちの相手である金沢十兵衛を日々さがし回る侍なのである。復讐こそが武士の美徳である、と宗左衛門は信じている。

*****

戦(いくさ)のない平時に生まれた武士たちは、仇討ちというフィクションを拠りどころとして暴力の連鎖を生み出そうとする。彼らはそれ以外に生み出せるものがないのだ。その一方で、長屋で暮らす人々は、自らの手を汚しながら食い扶持を稼ぎ、その日その日をどうにか生き延びている。彼らは糞を肥にして商売することも厭わない。

武士が生きるフィクショナルな世界と、長屋の住人が生きるリアルな世界が対比されながら、宗左衛門の復讐をめぐる物語が軽快に紡がれている。宗左衛門は、そのふたつの世界を行き来しながら自らの気持ちを少しずつ変化させる。武士道というフィクションが彼の心の中で解体されていくのだ。そしてついに丸腰になった宗左衛門は、剣の代わりに筆を執り、フィクションを乗り越えるための新たな物語を綴る。彼は武士の呪縛から解放され、筆の力で生き直そうと決意するのだ。

と、ここまで書いたところで思いついたことがある。これは是枝監督の自伝のような作品なのではないだろうか。第二次大戦中、是枝氏の父親は兵役についており、戦後、彼自身も自衛隊官舎で育ったという話を以前TVで観た記憶がある。とすると、この作品で描かれている、存続すら危うい長屋とは日本映画界のことであり、筆はカメラということになるのだろう。彼はこの作品を通して、映像作家としての決意表明をしようとしたのかもしれない。

*****

宗左衛門の物語に寄り添うように描かれていた、そで吉とおりょうの物語が心に沁みた。このふたりの物語からは、前作『誰も知らない』と通じるものが感じられた。あの作品の続編的な要素が込められていたような気がする。

大予算をもってつくられた商品として成功しているかどうかは別として、ぼくはこの娯楽劇を楽しんで鑑賞することができた。これからも、是枝作品をフォローしていきたいと思う。

(関連記事:「忘却」 社会の外側へ消し去られるもの/2005/05/06)
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2005年04月14日

是枝裕和監督の新作情報など

spring.jpg少し古い情報になってしまうけど、是枝裕和監督の新作映画情報を書き留めておく。彼は最近大学の先生になったんじゃなかったっけ。

花よりもなほ

この作品は時代劇で、宮沢りえや岡田准○をキャスティングしているらしい。正直とても驚いた。これまでとはまた違ったアプローチで撮るんだろう。それに普通の時代劇にもならないんだろうな。とても楽しみだ。今月クランクインで、公開は来年の夏。それまで生きてるようにしよう。

またNONFIXの 『憲法』 シリーズ、『忘却』(是枝氏制作) が5月3日深夜に放送されるようだ。


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話しは飛ぶ。今日は珍しくやや長電話をした。そして脱力。いろんなことが起きるもんだ。まあこれで一旦解決ということにしよう。そして先送りにしてしまおう。

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話しはさらに飛ぶ。先日のクラシコ。いつものように凄い試合だった。あれこそまさに「絶対に負けられない戦い」というものだろう。90分があっという間に過ぎ去った。

クラシコの直前に、関係者が皆リーグ優勝をあきらめている中、ベッカムの発言がとりあげられていた。

ベッカム信じる!クラシコ勝利で逆転Vだ

この発言を「イタイ」と茶化している人もいたようだけど、ぼくの印象は違うものだった。この記事にあるリーグ戦逆転優勝もそうだけど、ぼくにとっては1998-1999シーズンのチャンピオンズリーグ・ファイナルの記憶の方が強烈に残っているからだ。カンプノウでの対バイエルン・ミュンヘン戦。90分経過時点で0−1、バイエルンの1点リード。試合内容も完全にバイエルンのものだった。しかしロス・タイムでマンUは2点を奪い、奇跡の逆転勝利と成し遂げた。この光景はあまりにも強烈で、見る者の人生観を更新させてしまうような出来事だった。この2得点の起点になるコーナー・キックを蹴ったのがベッカムだった。

そのシーズン、彼はマンチェスター以外のイングランド全域で、ブーイングを浴び続けながらプレーをしていた。それは98年W杯の対アルゼンチン戦で、彼が不用意な報復行為によって退場処分を受けたからだった。イングランド代表はその試合で敗退してしまい、国民はベッカムをその戦犯とみなしていた。しかしこのカンプノウの奇跡は、マンUだけではなく、ベッカムをも戦犯から国民的英雄へと変えてしまった。サッカーは最後のホイッスルが鳴るまでは、なにが起きるかわからない。サッカーは人生と同じだ。彼はあんなキャラだけど、サッカーに対してとても真摯な姿勢をみせる。

なんか話しが脱線しすぎたな...


(関連記事:「忘却」 社会の外側へ消し去られるもの/2005/05/06)
posted by Ken-U at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(是枝裕和) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月09日

DISTANCE もどることのない人々の面影

distance.jpg是枝監督の「DISTANCE (ディスタンス)」を鑑賞。気づいたら返却日が明日だった。日々の流れは意外と速いもんだ。

カルト教団の信者として多くの死傷者をだす事件を起こし、その後その教団によって殺された5人の実行犯。その遺族達を中心に物語は進む。

流れる映像と音がゆっくりと心に滲みるという点は他の作品と共通する。これがとてもいい。また、引き裂かれたふたつの世界で離れ離れになってしまう人々を描いている点もほぼ共通してるといっていいと思う。引き裂かれた関係は修復されることがない。残るのは喪失感だけだ。これが是枝監督自身のテーマなんだろう。

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2005年01月04日

「幻の光」 超越した力の存在感

maboroshinohikari.jpg正月も3日になると昼のTV番組も手抜き過ぎ。是枝監督の「幻の光」を観た。

初詣のお不動様のせいじゃないとは思うけど、この映画を観ている間、ぼくの頭の中には「縁」という言葉がずっとつきまとった。縁、因縁。映画の冒頭、主人公の女はある因縁を背負わされる。

行方不明になった祖母。謎の死(自殺?)を遂げた夫。夫の死は、貧しいが幸せな家庭を築くことができるかと思われた矢先の出来事。女の人生に深い影を落とす。自分の手には決して届かない場所から、彼女の人生に深く刻まれてしまった因縁の力はあまりにも強い。その後彼女は新しい夫と新しい土地で人生をやり直すが、やがて自分はこの超越した力から決して逃ることはできないのだと思い知らされる。ぼくは観ているうちにすっかり女と自分を重ね、息を呑みながら彼女の人生を見守っていた。

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posted by Ken-U at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(是枝裕和) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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