こころをもってしまった。
生命の宿った空気人形が、ひとり窓辺にたたずみ、垂れるしずくを手に受けて、きれい、とつぶやく。たしかに、ぽつりと垂れるしずくは綺麗にみえる。でもあのとき、窓の向こうに広がる世界は彼女の瞳にどう映っていただろう。この世界は代用品で溢れている。豊かさのため、この世に送り出される無数の代用品群は、それらを求める人々と出会い、使い古されて、最後はゴミとなり果て捨て去られる。もちろん、女の代用品である空気人形もその例外ではない。心を持ち、揺らし、恋をして、嘘をつき、信じ、裏切られて。でも、この残酷な運命から逃れることはできないのだ。
とはいえ、代用品ではない存在なんて、この世にどれほどあるのだろう。彼らが言うように、みな中身は空っぽなのかもしれない。外側ばかりで、中は虚しいのだ。では、虚しさの中に心はあるのだろうか。それはどこから来て、どこへ消え去ってゆくのだろう。そして生命は。誰も、なにもわからない。
海辺で、ラムネの瓶を拾い上げて、ビー玉をからから鳴らす様子が綺麗だった。瓶は、太陽の光を浴びてきらきら輝いていた。星を見上げた。バイクで走り回った。船で川を下った。欄干の人たちに手を振った。映画のことを憶えた。それがすべて。でもひょっとすると、それで十分なのかもしれない。
少し不思議な色合いをしていたけれど、描かれている世界は確かにこの世と地続きだと思った。ファンタジーのようで、でもどこか妙な現実味があり、眺めていて、切なくなる。ぺ・ドゥナが綺麗だった。思ったよりも肉感的で、少しどぎまぎして、官能と、哀しみと、フェティシズムと、そしてあの空気をめぐる交感シーンに痺れた。
たぶん人は、あのラムネの瓶のような存在なのだろう。空っぽで、でも光を浴びるときらきらして。そしてガラス玉の心を揺らし、その響きがほかの誰かを魅了するのだ。そしてその響きのつらなりが、音楽になる。



なにも特別なことが起こらない一日。しかし、日常とはどこか違う一日。是枝監督は、そんな家族の一日をうまく映画に仕立てていたと思う。
さて、この『花よりもなほ』の舞台も長屋である。ただし、時は近未来ではなく、元禄15年、江戸時代の長屋が描かれている。こじんまりとしたお稲荷さんの脇から坂を下ると、そこにはとても粗末な格好をした、何を生業にしているのかも定かではないような輩がうじゃうじゃと暮らしている。この物語の主人公、青木宗左衛門もその中のひとりである。が、彼は父親の仇を討つために長屋に身を潜め、その仇討ちの相手である金沢十兵衛を日々さがし回る侍なのである。復讐こそが武士の美徳である、と宗左衛門は信じている。
是枝監督の「
正月も3日になると昼のTV番組も手抜き過ぎ。是枝監督の「幻の光」を観た。