2015年04月14日

「アメリカン・スナイパー」 殺人により失われるもの

americansniper.jpg

2015年2月25日(水)

『アメリカン・スナイパー』
監督:クリント・イーストウッド
原題:American Sniper
場所:新宿バルト9

この作品を戦争映画としてみると、というか、戦場の描写に多くの時間を費やす本作はまぎれもなく戦争映画といえるのだけれど、まずその戦地の描写に引き込まれた。作り物とはいえ、これがあの頃のイラクなのかと。米軍がファルージャを攻撃したとき、現地はこのような惨状だったのか。戦地の様子を眺めながら、そこに当時の記憶を重ねた。このような、あるいはさらにむごいカオスの中で、彼らは互いに殺しあっていたのだ。過酷な戦争の現実。まだ幼い「テロリスト」を容赦なく射殺し、その一方で、撃たれた仲間が血塗れになり倒れる。殺戮が無限に繰り返されていく。それでもあの地獄に自ら赴き、正義のために戦う人たちはやはり英雄なのだろうか。それとも単なる野蛮人なのか。

殺人のプロ、米軍の狙撃手であるクリス・カイルには妻と子がいる。仕事に没頭する父親と家族との軋轢はクリント・イーストウッド監督が繰り返し描くテーマなのだけれど、この「アメリカン・スナイパー」もその流れをくむ作品なのだと思う。正義のために繰り返し戦場に赴き、生きた伝説ともいえる名誉を得るのだが、その一方で取り残された家族との溝は深まっていく。そして最後までその絆が元に戻ることはない。

この二つの物語を描くことによって、本作は戦争が人間から奪うものは命だけではないことを伝えている。それでも戦争を続けなければならない理由とは?人が人を殺さなければならない合理的な理由は存在するのだろうか。殺人の欲求はどこから生まれてくるのだろう。人間が殺人の欲求を乗り越えられる日はくるのだろうか。
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2011年04月23日

「SOMEWHERE」 まだみぬ未来へ

ソフィア・コッポラ監督 『SOMEWHERE』 (新宿ピカデリー)

閉塞の中、男は車を棄てた。

somewhere.jpgソフィア・コッポラの新作。主人公が裕福な世界に暮らしていて、孤独で、といういかにも彼女らしい世界を描いた作品だったけれど、これまでと大きく異なる点はあって、それはノイズの扱い方なのだと感じた。過去の作品では、悪くいえばサントラのプロモーション・フィルムみたいな演出というか、作品世界からノイズが排除され、そのかわりに趣味のよい音楽がひたすら流れ続ける綺麗な画づくりという印象があって、眺めながら、いつもイヤホンをつけて暮らしている人に世界はこのようにみえるのだろう、しかし現実の世界はノイズに覆われていて、鳥がさえずったり、木の葉が擦れ合ったり、とつぜん地鳴りが響いたり、サイレンが鳴り響いたり、笑ったり、泣いたり、溜息をついたり叫んだりしているわけで、そうした生々しさというか、この世界との距離感に少し物足りなさを感じる部分もあったのだけれども、今作は違う。冒頭から車のエンジン音(とくに止まったあとの余韻)がとても印象的で、その後も、とくに事件らしい事件が起きるわけでもなく、主人公の孤独を包むこの世界の有り様が淡々と描かれてゆくのである。僕は、その描写にある種の成熟を感じた。

車を乗り捨てた男の行く先には何があるのか。光か、闇か。想いをめぐらせながら、垣間みえた笑みに未来を感じた。まだみえぬ未来に向けて、歩く。
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2011年03月27日

「ファンタスティック Mr.FOX」 生命に感謝、そして祝杯

ウェス・アンダーソン監督 『ファンタスティック Mr.FOX』 (シネスイッチ銀座)

原題: 『FANTASTIC MR. FOX』

生きていてくれて、ありがとう。

fantastic_mr_fox.jpgストップモーション・アニメでつくられてはいるけれど、父と息子の関係であるとか、散りばめられた笑いによる独特のゆるみなど、本作でもいつものウェス・アンダーソンらしさは健在であった。でもアニメであるせいか、表現の幅、奥行きに限りが感じられるところもあって、これはこれでいいのだけれど、正直、次作は実写だといいなと思った。つまり、いい歳こいた私にはまずまずの作品だったのだ。とはいえ、近くにいた子供たちが喜んでやいやいしていたので、やはり、これはこれでいい作品なのだと思い直したり。

息子は父親との関係をこじらせている。自分が父親に認められていないと感じていて、でもその想いに押し潰されてしまわないよう葛藤し、反抗してみせたり、常にもがいている。それであえて無茶をしたり、その挙句に失敗を重ねてさらなる偏屈の穴倉の中に陥りかけてしまうのだけれど、しかし彼の父親はさらに無茶な男で、それで親子の無茶がさらなる無茶を誘発し、ついには家族や周囲の人たちを巻き込んで無茶苦茶な事態を招いてしまうのだ。しかしこの喜劇的な無茶苦茶は、父と息子が、じつは心に同じ問題を抱えながら生きていることを顕していて、どこか切ない。

この『ファンタスティック Mr.FOX』においてウェス・アンダーソンが描きたかったのは、いよいよというところで父が息子に語りかける、あの場面なのだと思う。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のときと同じように、父が息子に珍しく優しい言葉をかけ、その言葉をきっかけにすべてが収束に向かい、人々が再び平和につつまれる。いわゆるハッピーエンドが彼の世界に訪れるのだ。で、その言葉とは、生命に対する感謝の気持ち。父は、我が息子に、生まれてくれてありがとう、と感謝の気持ちを伝える。ウェス・アンダーソンは、本作を観るすべての子供たちにこのメッセージを伝えたかったのだろう。だからこそ、この作品をアニメで仕立てたのだ。

この世に生まれ出たこと、いま生きていること、その事実そのものが素晴らしく、感謝せずにはいられない。そうした気持ちを誘発する作品と、いま出会える奇跡。
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2011年02月05日

「人生万歳!」 偶然の力、無限

ウディ・アレン監督 『人生万歳!』 (恵比寿ガーデンシネマ)

原題:『WHATEVER WORKS』

絶望した男は死のうとするが、果たせず、七転八倒する。

whatever_works.jpg確かに、この世界に身を置いていると、その狂気に、冷酷さにうんざりして、やがて自分が殺戮者であるかのような心持ちになり、殺戮は嫌だ、こんな世界から消えうせてしまいたい、いっそ死んでしまいたい、と衝動的に考えたりしがちなのだけれど、しかし人間そう簡単に死ねるものではなくて、たとえば、窓硝子を突き破って飛び降りてみたところで片脚が不自由になるくらいのもので、あとは偏屈の穴ぐらに閉じこもって、その闇の深さに脅えるしかない。本作は、自殺未遂の果てに片脚を引きずるひとりの男を中心に、彼と彼を取り巻く人々の暮らしぶりを描きながら、その悲喜こもごもを軽妙な喜劇に仕立て上げている。

しかし、救いは知性の外側からもたらされた。男は、偶然の出会いと、その連鎖がもたらす摩訶不思議な幸福にひたりながら、宇宙が知性を超えた高次元の成り立ちをしているというこの世の秘密(過去記事)に気づく。だから、なんでもあり。人は、心をあらゆる拘束から解き放って、知を棄て、目の前にある悦びをあるがままに受け入れなければらない。

やはり、ウディ・アレンはNYなのかなと思った。ここ最近では最高の出来、素敵な作品である。笑いどころが随所に散りばめられていて、ほろ苦く、しんみりする場面もあって、でも劇場を出るときには世界が少しキラキラと感じられる。そして知覚の外に広がる宇宙について、不意にもたらされる幸福について、生きる悦びについて、想いを巡らせた。幸福とは、掴めるものなのだろうか。
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2010年12月19日

「シングルマン」 男の孤独、拳銃と死

トム・フォード監督 『シングルマン』 (恵比寿ガーデンシネマ)

絶望と孤独。男は死の暗闇に惹かれる。

single_man.jpgあのトム・フォードが映画を撮るというので、金持ちは道楽にもカネをかけるものだなあ、なんて思いながらその記事を流し読んでいたのだけれど、予想外に評判も上々のようだったので久し振りに映画館へ。

あるひとりの男が、恋人を亡くし、醜い世界にひとり取り残されて、死を想う。そして拳銃を手にし、それを口に咥えてみたりもするのだけれど、しかしうまく扱うことができずに七転八倒。その様子がスタイリッシュに、かつ滑稽に描かれている。当時のモードに身を包んだ美男美女が、擦れ違いざまに視線を交わし、互いの孤独を舐めあう様子はあまりに現実離れしていて魅惑的だ。

ところで、女は穢れた生き物なのだろうか。しかし女を排除し、男だけの純粋な世界を目指そうとするとき、その清き世界は破滅に向かう。純度の高さは、脆さと一体である。男たちは、欠落を補えぬまま空虚の地平で干乾びるしかない。

後半少し散漫になり尺が長く感じはしたけれど、それなりに楽しむことができた。映像の中で印象に残ったのは、出勤前、完璧に身なりを整えた男が家の中を歩くのだけれども、その姿をガラス越しに捉えたショットである。硝子が光を反射し、瞬間、男の姿が透明にみえる。同じショットが作中で繰り返され、その光景が、自身の存在が透明であることを度たび口にする彼の台詞と重なる。完璧で、しかし空虚で、砂漠のような、あるいは氷原のような世界を生きる。その無様な姿を、ユーモアを交えつつ滑稽に描いている点がこの作品の救いなのかもしれない。
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2010年06月13日

「インビクタス/負けざる者たち」 祭りの中、融和する社会

クリント・イーストウッド監督 『インビクタス/負けざる者たち』 (渋谷シネパレス)

原題 『INVICTUS』

祭りの中、黒と白が融和する。

invictus.jpgイーストウッド御大の映画だから、まず間違いない。そうした期待を裏切らない優れた作品だと感じた。ある白人の青年が、国家元首である黒人の支援を受けながら世界大会に臨んでゆくのだけれども、祭りの中、かつて対立していたふたつのものが融和し、協調をみせ、ついに栄冠を手にするまでの過程が描かれている。

美談だと思う。よく整えられた娯楽作品である。でも話が平坦ではなく、いろいろな想いを喚起させられるところに本作の魅力があるのだと感じた。たとえば、マンデラ大統領と彼の娘の関係。彼は、人種間の軋轢を埋める仕事に人生を捧げているのだけれど、他方で家族との間には問題を抱えているらしく、そのいろいろが彼と娘の関係に集約して描かれている。彼は娘に会いたいようなのだけれども、おそらく、娘は拒絶している。つまり彼は孤独なのだ。しかし孤独でありながら、あるいは孤独であるがゆえにということなのかもしれないけれど、マンデラは社会の、人々の融和を目指した。

しかし祭りの後、世界の何が変わったのだろう。と、知る限りの世界を見渡し、つい悲観的に考えがちになるのだけれど、おそらくイーストウッド監督が言いたいのは、諦めず、希望を持ち続けることがなにより大切だということなのだろう。実際、マンデラは、何十年もの間、独房の中で諦めなかったのだから。これはここ数年にわたるイーストウッド作品群に籠められている主要なテーマのひとつである。希望は、抱き続ける間、存在する。

あと、話の脇の部分で感じたのは、人を褒められる人間になりたいということで、マンデラが周囲の女性たちに優しい褒め言葉をかけるのだけれど、その度に心の中で復唱した。褒められると嬉しいし、だからきっと、人を褒めることはよいことなのだろう。

*****

先の金曜からワールドカップ南アフリカ大会が開幕。開催国である南アフリカは、初戦、メキシコと引き分け。
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2010年05月04日

「夢と犯罪」 貨幣の過剰、地上から引き剥がされた命運

ウディ・アレン監督 『ウディ・アレンの夢と犯罪』 (恵比寿ガーデンシネマ)

原題:『Cassandra's Dream』

男たちは賭けに出る。

cassandres_dream.jpgある兄弟が奈落の底に転落する。しかし転落といっても、彼らはそれまでとくに成功を収めていたわけではなく、兄は家業を手伝いながら投資資金を蓄える程度、弟は車の整備工場で平坦な日々をやり過ごしているにすぎなかった。そうした日常の中、つつましく暮らしていたはずの彼らが、なにがきっかけだっただろう、「カサンドラの夢」という名のクルーザーがひとつの転機になったのかもしれない。しかしその背後には賭博があり、彼らがその魔力に魅了され、翻弄されたことこそが転落のきっかけになってしまったのだ。しかも、気づくとすでにゲームは始まっており、そこから後戻りすることはできなかった。

賭博は人を日常の呪縛から引き離し、その運命を宙吊りにする。その背後には人智を超えた恐ろしい力が潜んでいて、人はその魔力にある種の畏怖の念を抱く。兄弟は、あの時、宙吊りにされた自分たちの運命を見上げながら、なにを思っただろう。恐怖と恍惚の混在する人生の転機。彼らは、身震いしながら一気に賭博の世界に近づき、その魔力に身をあずけて、この閉塞した世界から脱出を図ろうとする。

貨幣が生む過剰な欲望、そして人生の不確実性を描いているという点では、以前の『マッチポイント』(過去記事)によく似た作品だと思う。たしかに、人生は不確実性とともにあるし、とくにそこに貨幣が絡む場合、その賭博性は人間を破滅に追い込む場合がある。だから人は、こうした危険に充分に注意を払いながら生きていく必要があるのだけれど、しかし魔力は人智に優る力を持っているがゆえに、人を盲目にし、その判断力を易々と奪ってしまうのである。とくに莫大な貨幣が仮想空間を流動するこの世界において、命がけの賭博と無縁に生きていくことは可能なのだろうか。実は、誰もが転落と隣り合わせで、人殺しを強要されながら生きている。この世界の有様とはそんなものなのかもしれない。
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2010年01月09日

「扉をたたく人」 合理が生む不合理、分断への怒り

トーマス・マッカーシー監督 『扉をたたく人』 (下高井戸シネマ)

原題:『the Visitor』

歳をとり、妻に先立たれて、殻に閉じ籠もるように日々をやり過ごしていた男が、思わぬ出会いをきっかけに心を開き、殻から足を踏み出す。

the_visitor00.jpg過去の講義資料を使いまわすために、大学教授である男が書類の日付を修正液で塗り消すショットであるとか、細部の描写にそつがなく、又、それぞれの俳優も味わい深い演技をしていて、配役も絶妙で、役者とその演技を軸とした、地味だけれども繊細に作り込まれた良作だと思った。

ジャンベに限らず、太鼓の音が好きだ。だから、男がジャンベの音に魅了され、心を開き、その響きに導かれるようにこの世界と繋がり直すという話の筋には素直に魅力を感じた。たしかに、グルーヴは人の心を繋ぐ。がしかし、忘れてならないのは、高度な世界はグルーヴなるものを必要とはしないという残酷な事実で、だから男は大切な友人たちとの繋がりを断ち切られてしまうのだ。彼にはそこに不合理を感じ、憤る。が、高度な世界にしてみれば、それは合理性追求の結果に過ぎない。だからこの世界は、この場合、不法移民収容施設の係員を窓口として、その冷酷な現実を彼に伝えるのだ。

この世は捻じれ、歪んでいる。そしてその歪みはしばしば罪なき人の足をすくい、疎外し、あるいは人と人との繋がりを断ち切ってしまうのだ。あの施設の街は殺伐としていた。係員はアフリカ系ばかりだった。ふと、ヒースロー空港のセキュリティ・チェックの係員が中東系とアフリカ系ばかりだったことを思い出した。理由はよくわからないけれど、きっとその方が合理的なのだろう。この世の正義である合理性の追求。その正義が生み出す不合理に直面すると腹立たしくなり、無性にジャンベを叩きたくなってしまうのだけれども、彼は、あのあとジャンベをどうしたのだろう。それでもジャンベと、それを通じて出会った人々の記憶は彼の人生を豊かなものにするに違いない。
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2009年12月31日

「ドリーム・オブ・ライフ」 死の闇を乗り越え、歌う

スティーヴン・セブリング監督 『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』 (シアターN渋谷)

原題:『PATTI SMITH: DREAM OF LIFE』

patti_smith_dream_of_life.jpg断片化した過去の記憶が、かけらのまま繋ぎ合わされ、ひとつの映画となる。モノクロームの映像と、即興でのせたというナレーション、流れる音楽、叫び。ひたりながら、パティ・スミスの11年間に思いを馳せ、そして、これまで出会った人たち、もうこの世にいない人たちとの思い出などが脳裏を巡った。

10代の頃、ニューヨーク・パンクを追体験しているときに、パティー・スミスの歌に出会った。霊媒師の如き声、音楽を超えんとする歌。彼女の作品には近づきがたい凄みがあり、アルバムをターンテーブルにのせ、そこに針を落とすにも心構えが必要だった。そういえば、昔は、音楽を聴くことは今よりもずっと儀式的であった気がする。

過去の存在であったパティ・スミスにも、現在がある。というあたりまえのことを、この『ドリーム・オブ・ライフ』を通じて感じた。大切な人たちの死。そうした負の経験をきっかけに音楽界に復帰し、ふたたび歌い始める彼女の姿、貫かれるその真摯な姿勢に心を揺さぶられた。やはり、歌とは祈りなのだ。激しく、でもしなやかに、歌い、叫び、あるときはキャンバスに絵の具をぶつける自在な魂。その在り方に、名の有り無し、才の有り無しに関わらず大切にすべきものがこの世にはある、と思いをあらたにした。
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2009年09月06日

「それでも恋するバルセロナ」 満たされぬ欲望、アメリカ

ウディ・アレン監督 『それでも恋するバルセロナ』 (ル・シネマ)

原題:『VICKY CRISTINA BARCELONA』

ふたりはバルセロナに旅立つ。そして出会う。

vicky_cristina_barcelona03.jpgアメリカに対する強い皮肉を感じる作品だった。今に満足できないアメリカ女がふたり、ひとりは足りないもの探しに積極的、もうひとりは消極的な態度をとり続けるのだけれど、そのふたりがバルセロナで芸術家と出会い、恋をして、で、その恋心を捨て去るまでの過程が喜劇的に描かれている。

強欲のアメリカ。クリスティナがあのふたりに別れを告げたときに、ペネロペ・クルス扮するマリアが彼女を罵倒するのだけれど、なぜかその態度、言葉に共鳴した。たしかに、マリアとアントニオはクリスティナに多くのものを与えていた。その最大の贈り物はやはり愛なのだと思う。クリスティナはその愛を全身に浴び、彼らとの暮らしを謳歌していたはずなのだけれど、ふと心変わりをして、ふたりのもとを離れることを決意したのだ。その理由はよくわからないけれど、思うに、彼女はもっと確かなものが欲しかったのかもしれない。心が満たされていたとしても、その暮らしがふたりの(気まぐれな?)芸術家に支えられていたとしたら、そしてその暮らしが彼女の知る秩序の外に位置していたのだとしたら、おそらく、彼女はその満ちた世界が孕む不確実性にどこか不安を覚えていたのだと思える。あるいは、彼女はふたりの愛をすでに消費し尽していたのかもしれない。とにかく、クリスティナはそこを離れることにしたのだ。彼女は盗人であり、裏切り者なのである。

創造する者は、奪われ、その挙句に狂人扱いされなければならないのだろうか。バルセロナの休日は、アメリカ女たちの心の中にいったいなにを残したのだろう。非日常を消費し、再び日常に帰る者、あらたな非日常を求めて旅立つ者。いろいろあるのだろうが、どちらにしても、彼女たちの心がアメリカから離れることはないのだろう。あのラスト、彼女たちの姿は囚われ者のようにみえた。その行く末に自由はあるだろうか。幸福はあるのだろうか。
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2009年07月16日

「グラン・トリノ」 すべては未来のために

クリント・イーストウッド監督 『グラン・トリノ』 (渋谷TOEI2)

原題: 『Gran Torino』

未来のために、過去を葬る。

gran_trino00.jpgこれが、自身が出演する最後の監督作品になるという記事をどこかでみた。そういわれてみると、たしかにこの作品はクリント・イーストウッドの生前葬のようなつくりをしていたと思う。彼の遺言となる本作のテーマは、『ミリオンダラー・ベイビー』(過去記事)と同じく"Tough ain't enough"ということになるのだろう。未来をつくるためには、タフなだけではいけないのだ。彼は本作の中で、そのメッセージを彼自身の身をもって表現した。そして棺の中に身を横たえ、合衆国という共同体を強欲の白人たちにではなく、古風で素朴な性格を持つ移民たちの手に委ねたのだ。

あの決定的な事件が起きるまでは、どちらかというと、作品世界にどこかほのぼのとした雰囲気があった。孤独な男とモン族一家がみせるつつましい交流。その過程ではいくつかの小さな事件があったけれど、しかしモン族がみせた誠実さや、その後の微笑みがその歪みを掻き消してくれた。その中でもとくに印象に残ったのは、モン族がみせたあの過剰なまでの贈与の行為である。そうした様々なかたちの交歓を通して、互いの心は徐々に通い合っていったのだ。しかし、あの忌まわしい事件をきっかけに、世界は暗転する。この極端な転調はとくにひねりもなくまっすぐに演出されるのだけれども、その身も蓋もない残酷さが暴力の暴力らしさを際立たせていて、そこにイーストウッド監督の本作に対する強い思い入れが籠められているように思えた。

世代交代。そしてタフな男像の倒壊の描写は、偶然にも先日みた『ウェディング・ベルを鳴らせ!』(過去記事)と通じていると思った。やはり、時代は変化していくのだ。そして変化させていかなければならないと思う。とりあえずぱっといけばよい、ぶっ放せばよいというものではないのだ。
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2009年05月05日

「チェンジリング」 絶望の中、微かに残された希望

クリント・イーストウッド監督 『チェンジリング』 (渋東シネタワー)

原題: 『CHANGELING』

警察の知らせを受け取ると、女は安堵した。行方不明だったひとり息子が無事保護されたというのだ。が、再会の日、彼女は愕然とする。眼前に現れた少年は彼女の息子ではない。見知らぬ赤の他人だったのだ。女は狼狽し警察に訴えるが、男たちはそれを棄却する。

changeling01.jpg1920年代のLAの景色を借りながら、この世の在り様が凝縮されて描かれている。残酷な世界。この世は残虐な者、冷酷な者たちで溢れかえっている。我々が引き起こす暴力の渦はあらゆるものを引き裂きながら膨張を続け、いまでは我々自身の意識をも混乱に陥れている。光と闇が複雑に交差するこの世界の中では、善人、悪人の区別でさえ判然としない。

例えば、作中で最も悪い人間であるはずの無差別殺人犯‐おそらく彼は多くの少年たちを殺害している‐ですら、どこか被害者の如くみえてしまう。法廷で、あるいは執行台の上で曝け出される彼の無様な姿の中に、かつて彼が負ったであろう心の傷跡が垣間見えてしまうのだ。その執行台で、彼は正義の名のもとに殺されなければならないのだが、しかしその殺人の様子から正義、善を見出すことは難しい。つまり、人殺しは人殺しに過ぎないのだ。しかし正義の名のもとに遂行される暴力、殺人行為はやはり善と呼ぶべきなのだろうか。

又、最も善き人間であるはずの牧師‐彼は警察と戦うために女を援護する‐にしても、最後、悪人たちが裁かれるとき、つまり彼自身の正義が果たされるときに、悪人と同様の言葉を女に吐く。彼女に対して、もう息子のことは諦めろと諭すのだ。ここで彼の正義と女の心の間にすれ違いが生じる。この時、彼女は彼の助言を受け入れようとはせずに、独りで自身の人生を歩む道を選ぶ。何故なら、彼女は正義のために行動したのではなく、彼女のたったひとりの家族、かけがえのない息子を取り戻そうとしたに過ぎないからだ。おそらく、その死の証拠がみつからない限り、彼女は息子がどこかで生きていることを信じ、いつまでも彼を探し続けるだろう。

その息子は彼女にとって未来そのものであり、希望なのだ。絶望的にみえるこの暴力の世界においても、その希望は微かに残されている。それは諦めない限りどこかに存在し続けている。希望とは意思であり、その意志により未来はつくられるのだ。
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