2009年02月01日

「イントゥ・ザ・ワイルド」 新たな共生の時代のために

ショーン・ペン監督 『イントゥ・ザ・ワイルド』 (下高井戸シネマ)

原題 『INTO THE WILD』

すべてを捨て去り、野生に向かう。

into_the_wild00.jpg実話をもとにした作品である。ひとりの青年が、父親との確執から家を出て、カネも学歴も捨て去り、バックパックひとつで荒野に入る。その後、彼は縦横に大陸を移動しながら、やがて目的地であるアラスカへと辿り着くのだ。しかし、野生の世界はあまりに過酷で、その圧倒的な力は彼を窮地に追い込む。

この作品の味わいを深めているのは、ショーン・ペン監督の主人公に対する距離感とそのあたたかな眼差しだと思う。彼は、青年の未熟さを未熟さとして描きながら、同時に、その至らなさをやさしさでくるみこんで、その死の悲劇性をある意味において救おうとしている。青年のとった行動はあまりに無謀で、結果としてそれは過ちだったといえるのかもしれないけれど、しかし青年が抱えていた想いや衝動は大いに共感しうるものであり、鑑賞後、こうして生き延びている私にはいったい何ができるのだろう、と考えさせられてしまう。

繰り返すけれど、本作におけるショーン・ペンの演出は優れていると思う。青年を手放しに英雄視することなく、適度な距離を保ちながら、その様子を見守るすべての人たちになにかしらのメッセージというか、それを遺言といってもいいのかもしれないけれど、ある想いを託そうとする。そこには、青年の死を無駄にはしたくない、という監督の強い意思が感じられる。

全編を通して映し出されるアメリカの自然がきらきらとしていた。青年は、車を捨てて自然界に身を投じたのだが、皮肉なことに、最後にはまた車に行き着いてしまう。そこで彼は、まず火を起こし、ナイフを研ぐのである。つまり、人間は人間であり、自然と一体となって暮らすことはそもそも不可能なのだ。だからわたしは、成熟した眼をもって、新たな共生の時代のために、自然との関わり、そして人間同士の繋がりについて考え直さなければならない。
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2008年12月30日

「僕らのミライへ逆回転」 創造の可能性と人間の幸福について

ミシェル・ゴンドリー監督 『僕らのミライへ逆回転』 (シネマライズ渋谷)

原題 『Be Kind Rewind』

閉鎖の危機に瀕する小さなレンタルビデオ店。ある日、妄想癖のある男が押しかけてきて店に致命的なダメージを与える。店内にあるすべてのVHSから映像が消失してしまったのだ。

be_kind_rewind00.jpgミシェル・ゴンドリーとはいえ、ベタな喜劇なら見送ろう。なんて思っていたのだけれど、でも思い直してよかった。前半は、映画でこれほど笑うのは久しぶりだなと思うほどげらげら笑い、やがてしんみりきて、最後には思わずほろりとしてしまった。その演出のトーンが見事に切り替えられいて、ふと気づくと作品世界の流れに我が身をまかせている。それが心地よかった。さらに本作には、モノをつくる行為へのオマージュが籠められているというか、人間の創造性が人々を幸せにしていく過程がきめ細かく描かれていて、その様子を眺めるこちら側までもが不思議な幸福感に包まれていく。つまり、二時間弱のあいだに心の中の様々な感情が刺激され、意識のどこかしらがよみがえるというか、活性化されてしまうのだ。

そのレンタルビデオ店は、近代建築物の隅にへばりつくように建てられている。どうにかぎりぎりのところに踏みとどまっている、その在り方もよかった。しかし、偽善者たちはいかにも偽善的に立ち振る舞い、その圧倒的な力で映画を踏み潰して、この小さな店を消し去り、この世のすべてを平坦に均そうとする。悲劇である。げらげらと笑ってしまったけれど、この話には哀しい側面がほかにもいろいろとある。だから喜劇的でありながら、どこか哀しいのだ。という意味で、本作は、悲喜劇的な成り立ちをしているこの世界をうまく表現できていると思う。それでも嘘と妄想の力をもってすれば、それをかたちにする能力を磨き、情熱を持つことができてさえいれば、均質に向かおうとするこの世界のあちらこちらに特異点をつくることはできる。人にそう思い込ませるだけの力がこの作品には籠められている。
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2007年12月31日

「マイティ・ハート/愛と絆」 混沌とする世界で揺らぐ境界線

マイケル・ウィンターボトム監督 『マイティ・ハート/愛と絆』 (アミューズCQN)

原題: 『A MIGHTY HEART』

2002年、ふたりはカラチに辿り着くが、その後、街を去る直前になって、男が忽然と姿を消す。男は、その街に巣食う闇の力に身柄を拘束されてしまったのだ。女は男の跡を追うが、複雑に交差する光と闇が妨げとなり、彼女らの追跡は困難を極める。そして男の命は、善悪が混沌とする世界の境界線上で宙吊りにされる。

a_mighty_heart.jpgパキスタンは不思議な国だ。イスラム国家でありながら親米でテロとの戦いを支援してみせるその一方で、テロリストたちの姿を隠し、その活動を影で支えているようにもみえる。彼の国家では、その民主主義がいまだ洗練されてはいないために、国家が国家であるがゆえに抱く矛盾をうまく隠すことができず、とても醜いかたちでさらけ出している。光と闇が混沌と入り乱れる世界では、正義と悪を容易に判別することは不可能なのである。

本作は、拉致されたジャーナリストを取り戻すために進められる捜査の過程と、その被害者の妻の心の揺れ動きを主軸として描くサスペンス劇として仕立てられている。その視点は、あくまでも正義と悪の対立を基盤とするいわゆるアメリカ的なものなのだけれど、しかしそこはさすがマイケル・ウィンターボトム、舞台がパキスタンであることを活用して、このサスペンス劇を複雑な構造を持つ多次元的世界として描き、観る側に突きつけている。つまりこの作品は、視点を変えることによって様々な側面をみせる映像の多面体として組み立てられているのだ。

例えば、被害者夫婦は共にジャーナリストで、彼らはジャーナリストとしての正義を固く信じているのだけれど、しかしその正義が落とし穴となって引き起こされたこの拉致事件をきっかけに、彼らの正義は大きく揺さぶられてしまう。拉致された男を救うために強引な家宅捜索が繰り返し行われ、罪なき人々に銃が突きつけられ、その中に潜む容疑者が連行されて天井から吊るされ拷問にかけられてしまうのだけれど、ここではもちろん、正義のために振るわれる暴力はすべて正当化されていて、当局はこの暴力的な捜査の反復によって闇の真相に迫ろうとする。しかし、ここで実際に家宅捜索や拷問の様子を映像として突きつけられてしまうと、はたしてそれが本当に正当な行為であるのかどうか、判らなくなる。とくに、被害者側の優雅な生活ぶりと、捜査される側の貧しい暮らしとの落差を目の当たりにすると、どうしても拭い去れないしこりのようなものが脳裏に引っかかり、そこから様々な想いが広がってしまうのだ。

さらに、宙吊りにされた被害者夫婦の命運を取材するために、無数のジャーナリストがそれこそゾンビのように被害者宅周辺に押し寄せるのだけれど、ある時、被害者側に身を置くある人物が、群がるジャーナリストたちのことを、皮肉にも、クソ呼ばわりするシークエンスがあり、そしてその直前(だったと思う)にも、TV番組に出演した被害者の妻が、そこで不躾な質問を投げかける司会者に「あなたはそれでも人間か?」と問いかけるシークエンスがあって、そこで浮き彫りにされるジャーナリズムの矛盾や歪みのようなものがそのまま正義という言葉に重なり、自分が身を置く世界の基盤について多くを考えさせられてしまう。

実話を基に製作された映画であるという事実を超えて、この作品が深くリアルに感じられてしまうのはなぜなのだろう。光と闇が、嘘と実が、正義と悪が複雑に絡み合うもうひとつの世界。この別世界が意外と身近なところに実在する、という事実を本作は表わしている。しかも、その事実は、わたしたちの世界を支える価値観がとても脆弱なものであることを示してもいるのだ。この事実を目の前に突きつけられたとき、わたしはいったいどのような態度をとればいいのだろうか。

*****

生贄の肉の三分の一は家族へ、もう三分の一は隣人へ、そして残りの三分の一は貧者へと切り分けられるという。時代が移り変わり、世界がよりいっそうの高度化を推し進めたとしても、生贄の儀式はかたちを変え、意味を変えながら残り続けるのかもしれない。


あと少しで今年が終わる。来年もよい年でありますように。
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2007年11月15日

「タロットカード殺人事件」 生死の境界で宙づりになる人たち

ウディ・アレン監督 『タロットカード殺人事件』 (ル・シネマ)

原題:『SCOOP』

ある女子大生のもとに、あの世から抜け出しきた元新聞記者が現れる。そして連続殺人事件の隠された秘密を告げる。ジャーナリスト志望の彼女は、年老いた奇術師と組んでその闇の部分に迫ろうとする。

scoop00.jpg70歳を越え、ウディ・アレンもさすがに年をとったと思う。あのぺらぺらとよけいな事をしゃべり倒す過剰っぷりも影を潜め、すっかり毒っ気が抜けてしまった。彼も観念しつつあるのかもしれない。あれだけ恐れていた死の暗闇が、もう間近に迫っているのだから。いまのウディ・アレンにとって、死はとても身近な問題なのだと思う。それでこの『タロットカード殺人事件』においても、死の問題を大きく、そして近しく扱ったのではないだろうか。人間はなぜ死なねばならないのか。あまりに多くを知りすぎてしまったから、ということなのだろうか?

この作品の中で、ウディ・アレンは湖(またはプール、地下室)をとても重要な舞台として描いている。この水の領域は、死後の世界へと繋がる通路のようなものとして位置づけられており、その境界領域を元新聞記者や女が行ったり来たりしてみせているのだ。老いた奇術師はその通路の案内人のような役割を担っている。それで本作は、その生死の境界を彼らが宙づり状態のままドタバタする様を描いたいわゆるサスペンス劇として仕立てられているのだ。

*****

冒頭、暗い湖面の左から右へと舟がゆっくりすべる様子を眺めていて、ぼくは溝口健二のことを思い出した(過去記事)。この作品が製作されたのは溝口の没後50周年である2006年。だからといって、これで本作が溝口健二に対するある種のオマージュであると捉えるのはたぶん考えすぎだと思うけれど、しかしぼくはあの湖の扱い方から溝口を連想してしまった。ただし、いまのアメリカ女は溝口が描いた女たちよりはるかにタフなのだな、と再認識させられたりもしたのだけれど。スカーレット・ヨハンソンは確かに魅力的だったけれど、ぼくは『ロスト・イン・トランスレーション』(過去記事)の彼女の方が上だと思う。あと、ウディ・アレンをスクリーンで観るのはこれで最後なのかもしれないな、と感じ、それが少し寂しかった。
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2007年08月04日

「バベル」 銃による悲劇、その連鎖が繋ぐ世界

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督
『バベル』 / 『BABEL』 (シネマート六本木)

銃による暴力は私たちを引き裂く。が、その一方で、私たちは、この銃による悲劇の連鎖によって繋がっている。

babel08.jpgたしかに、本作で描かれている世界は、ぼくが住むこの世界の縮図なのだと思う。かつて引き裂かれた世界が、銃によって繋がり、そして再び散り散りに引き裂かれてゆく。私たちはある高みを目指して前進しているつもりなのだけれど、実際のところは、ある場所で堂々めぐりをしているだけなのかもしれない。そしてその堂々めぐりの閉塞の中で、私たちは、私たち自身を無数の欠片へと引き裂いてしまう。それでも私たちは、その高み、頂上を目指して我々が信じるところの「前進」を続け、そしてこれまでと同じ悲劇を無数に繰り返してしまうのだろう。

主題からは外れてしまうかもしれないけれど、本作で最も印象に残ったのは、メキシコで行われる結婚式のシーンだった。性にまつわる儀式の中で、人々が歓びに包まれ、酔い、歌い、踊り狂う。その享楽的な姿がとても生き生きとしていて、暗いトーンに包まれたこの作品から少し浮き出ているようで、何故かそこに強い魅力を感じた。この監督は、これからもハリウッドで映画を撮り続けるのだろうか。個人的には、彼がメキシコを舞台にした作品を撮ってくれると嬉しいのだけれど。本作における白人夫婦の描写をみていても、ハリウッドで映画を撮ることの限界のようなものを感じてしまう。それでも彼は、たぶん、これからもアメリカに挑み続けるのだろう。
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2007年03月04日

「マリー・アントワネット」 革命による魂の解放

ソフィア・コッポラ監督 『マリー・アントワネット』 (渋東シネタワー)

14歳になるマリアは、母国オーストリアからフランス王家へと贈られ、両国間の友好の徴としてルイ・オーギュストの妃となり、王太子妃マリー・アントワネットに生まれ変わる。

marie_antoinette07.jpg異邦人であるマリー・アントワネットの孤独が淡々と描かれている。この作品は、それ以外の何ものも描こうとはしていないのではないか、と思えるくらいにひっそりと進んでいく。彼女以外のあらゆるもの、舞台であるヴェルサイユ宮殿はもちろんのこと、そこに出入りする華やかな貴族たちも、義父である国王も、夫であるルイ・オーギュストでさえこの物語の背景であるように感じられる。いや、そもそも物語らしい物語が語られてすらいないのだ。彼女は、王家をとり巻く人々と触れあうことなく、すれ違いながら、ただガラス越しに外の景色を眺めるばかりである。

フランス貴族社会との断絶に悩みながらも、彼女は、疎外によって生まれる心の空白を埋めようとつとめる。しかしその振る舞いは、彼女の意図から離れ、周囲の貴族たちや、さらにはフランス民衆の感情をも逆撫でしてしまい、結果として、彼女をさらなる孤独に陥れてしまう。異邦人である彼女は、人々が抱える憎悪の標的となってしまうのだ。そしてついに暴徒と化した民衆は、大挙してヴェルサイユに襲いかかり、宮殿を包囲して、高らかに武器を掲げながら王家を倒すべく気勢をあげるのだった。しかし、彼女は驚くほど無抵抗にその残酷な状況を受け入れようとする。その淡々とした態度は強く印象に残るのだが、とくに、あのバルコニーのシーンはそれまでの文脈をやや逸脱しているだけに少し異様にすら感じられる。身を隠していたはずのマリー・アントワネットが唐突に民衆の前に姿をあらわし、静まり返った人々に向かって深くこうべを垂れてみせるのだ。その姿は、まるでマリーが自らの首を民衆の前に差し出しているようにみえる。この時、彼女はすでに自らの最期を予期していたのかもしれない。革命による斬首によって自らの魂が開放されることを、彼女はわかっていたのだろう。

*****

前作『ロスト・イン・トランスレーション』と同じように、本作の評判もあまり芳しいものではないようだ。ソフィア・コッポラは、なぜ彼女のファン(あるいはウォッチャー)の期待を裏切り続けるのだろう。その理由について考えをめぐらせていると、あのバルコニーのシーンが思い浮かぶ。観客に酷評され、あるいはブーイングを浴びるソフィア・コッポラと、あのマリー・アントワネットの姿が重なってみえてしまうのだ。映画を撮るという行為は、ソフィア・コッポラにとってどのような意味があるのだろう。そしてこれから、彼女はどのような作品を撮っていくのだろうか。
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2007年02月19日

「リトル・ミス・サンシャイン」 古いミニバスはハイウェイを走り続ける

ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督
『リトル・ミス・サンシャイン』 / 原題『LITTLE MISS SUNSHINE』 (シネクイント)

いわゆる「ミスコン」というイベントは、それまで多様であった女性の美の基準を切り分けて、それを均質なものにつくりかえてしまう。さらに、その勝者である「ミス」の容姿は、マスメディアによって流布され、女性たちの脳裏に見えないコルセットとして刷り込まれて、自由であるはずの現代女性の身体を類型的な美の枠の中に縛りつけようとする...

little_miss_sunshine00.jpg本作は、オリーヴが念願のミスコン出場の夢をかなえ、家族とともに会場を目指して旅をし、そのステージでひと騒動やらかすまでの過程を描いている。彼女が、美の勝利者を目指して心躍らせる様子を眺めていると、ふと上にあるようなミスコン批判の言葉を思い起こす。たしかに、本作で描かれるミスコン会場の女の子とその親たちは、皆どこか病的で、とても醜くみえてしまう。しかし、オリーヴはそれでも輝かしい「ミス」の座に夢中なのである。ただし、オリーヴに限らず、彼女の家族もそれぞれに勝利のレースに狂い、あるいは巻き込まれて、しかも、皆それらのレースから転落しかけている。彼らはみな敗北者なのだ。そして自覚なき負け犬たちは、互いに反発しながらも、オリーヴの夢のために旅を続ける。そしてついに、彼らが味わう敗北のクライマックスであるミス・コンテストが幕を開けるのだ。

*****

とてもよくできたコメディだと思う。とくに、映像と音楽のバランスが絶妙である。いい意味でMTV出身者なのだなあ、と思った。役者それぞれの演技も冴えているし、とくに、オリーヴが可愛らしいのがよい。ニーチェに傾倒しているドウェーンの立ち振る舞いもよかったし、プルースト学者である(であった?)彼の伯父フランクが、ミニバスから飛び降り、会場を目指して走る姿などは胸に迫るものがあった。それに、あのステージでの大騒動はかなりベタだったけれど、あのベタを「あり」だと思わせる力がこの作品にはある。笑いながら、ちょっとぐっとくるような、そんな瞬間が度々ある作品である。

*****

ミスコンを終えた後も、一家は壊れかけたミニバスで旅をする。皆の力を合わせなければ動かないこの古いミニバスは、それでもアメリカのハイウェイを走り続ける。そのハンドルを握るのは、一家の主である父親でなければならない。母親が運転しようとしても、うまくギアが入らないのだ。コンクリートで平坦に均された道路の上を、彼らを乗せたバスが軽快に駆け抜けていく。この旅を通して、彼らの何が変わり、何が変わらぬまま残されるのだろう。
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2007年01月06日

「硫黄島からの手紙」 仮想化の進む現実の中で

クリント・イーストウッド監督
『硫黄島からの手紙』 / 原題『LETTERS FROM IWO JIMA』 (渋谷ピカデリー)

大日本帝国陸軍は、本土防衛の最後の砦である硫黄島で、まもなく上陸するであろう米軍を迎撃すべく、決死の覚悟で戦闘準備を進めていた。

*****

クリント・イーストウッド監督による「硫黄島二部作」の第二作目にあたるこの『硫黄島からの手紙』は、一作目の『父親たちの星条旗』(過去記事)と同じように、戦場の悲惨さを映像として露わにすることをその主題に据えているのだと思う。本作の一作目との違いは、カメラが米軍ではなく、日本軍側に持ち込まれているという点にあるので、この二部作を通して、正義を振りかざしながら互いに殺し合うアメリカ人と日本人の姿が両者の視点から描き分けられたことになるのだが、その死闘の様子を双方の立場から眺めることによって再認識させられたのは、戦場に正義など存在しないということ、あるいは、正義は悪を生みさらには戦争を引き起こすという残酷な現実である。実際にそこにあるのは、飛び交う砲弾や銃器、その鉄の塊によって引きちぎられた人間の首や手足、そして腹から垂れ落ちるはらわた、さらにとめどなく吹き出す血飛沫なのである。戦場は人間を幸福にはしないが、人間は幸福のために戦場を必要とする。その矛盾が生み出す悲劇的な現実を、この二部作は容赦なく映像化していると感じた。

letters_from_iwo_jima.jpgさらに、この『硫黄島からの手紙』でとくに印象深く感じれらたのは、アメリカ人が描いたとは思えない日本人の生々しい姿である。本作では、大きく分けてふたつのタイプの日本人が描かれていた。ひとつは、栗林中将や西中佐のように、自分たちが誰と戦っているのかが実感できている日本人である。彼らは、それまでの人生の中で実際にアメリカやアメリカ人と触れる機会を持っていた。とくに栗林は、経験だけではなく、実感することの大切さを知る人間であるように描かれている。それは、彼が着任した当日、まず島をぐるりと歩くことを選択するという行動の中に、そして正攻法ではなく、ゲリラ戦によって米軍と戦うことを決めた判断の中に見出すことができる。彼の下す判断はどれも現実的であるように感じられるが、戦地の日本人の中にはそれを受け入れ難く感じる者もいた。

その栗林の判断に批判的な態度をとる日本人とその部下たちがもうひとつのタイプの日本人である。彼らは、大本営が描く「美しい国家」というフィクションの中を生きている。その稚拙なフィクションを基盤とする価値観は妄想的で、しかも彼らは妄想的であることに無自覚であるがゆえにしばしば狂った行動をとってしまう。彼らは米軍というより、目には見えない何者かと戦っているようにもみえる。実際、米軍に追い詰められた彼らは、戦うことをあっけなく放棄し、何かを恐れるかのように自決の道を選択してしまうのだ。おそらく、彼らは米軍よりも、米軍と実際に接することでおのれのフィクショナルな価値観が崩壊してしまうことを恐れていたのだろう。客観的にみると、その立ち振る舞いは滑稽なほど自滅的であるが、その滑稽な妄想世界は意外と身近なものであるようにも感じられる。

*****

冒頭とラストで描かれるのは、当時の日本軍人が書き残した膨大な量の手紙が現在の日本人よって掘り起こされる様子である。その手紙は、届かないことを知りながら、軍人たちが家族に宛てて書き残したものなのだが、ここで手紙が映し出されるのは、その手紙が、彼らの家族だけではなく、現在を生きる日本人に向けられていることを示している。あるいは、この作品自体が、「美しい国家」というフィクションの犠牲になった日本人から現在の日本人へと向けられた手紙であると捉えることもできるだろう。本作が日本人ではなく、アメリカ人によって製作されたという事実も含めて、この手紙を受け取るにあたって我々が考えなければならないことは多いのではないだろうか。
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2007年01月03日

「イカとクジラ」 オイディプスな童貞喪失前夜

ノア・バームバック 監督
『イカとクジラ』 / 原題『THE SQUID AND THE WHALE』 (新宿武蔵野館 )

ウォルトとフランクの兄弟は、ある日、両親に呼び出されて、彼らが離婚を決意したことを告げられる。

squid_and_the_whale.jpg子供にとって両親の離婚とは、大地震のような天災に近い出来事なのだと思う。自分の力では防ぎようがなく、いざそれが起きてしまうと、それまで自分を支えてきた生活基盤がいとも簡単に引き裂かれ、崩れ落ちてしまうのだ。その時、子供たちは、夫婦とはあくまでも他人に過ぎないこと、そして自分と親との結びつきにしても、半分は血の繋がった親子であるが、残りの半分は他人であることを思い知らされる。両親の離婚をきっかけに、子供たちはそれまでとは異なる世界に放り出されてしまうのだ。両親の共同監護のもとで暮らすことになったウォルトとフランクも、別居する父と母との間を日ごとに行き来するという奇妙な生活を送るはめになった。

ただし、両親の離婚という災害は、この作品の主題ではなく、あくまでも物語の背景に過ぎない。ウォルトが周囲を見渡してみても、同じような境遇にいるやつらは意外に多い。今の時代、親の離婚などはありふれた出来事に過ぎないのだ。では、この作品の主題は何かというと、まだ大人になりきれない兄弟の成長記録ということになるのだろう。作中、主に描かれているのは兄弟の性の物語である。思春期の真っ只中にあるウォルトと、まだ精通して間もないのであろうフランクのふたりは、それぞれに自己の不安定な性と向き合っている。そしてこの性の問題が、彼らと両親との距離にも影響を与えている。この親子の距離の問題は、エディプスコンプレックスの概念を下敷きにしながら描かれているようだ。だから兄が父親派になり、弟が母親派になるように配置されているのだろう。

*****

しかし、父親派であった兄にも転機が訪れる。終盤、ある事件をきっかけにして、ウォルトが幼い頃の記憶を思い起こすのだ。そして彼はその思い出の場所に足を運ぶ。見上げると、そこには大きなイカとクジラの模型が浮かんでいる。怪物のように巨大なダイオウイカが、その長い腕をマッコウクジラに絡みつけているのだ。その様子はとても淫らで、幼い頃の彼はその怖ろしげな交わりを正視することができなかった。しかし成長した今では、その淫靡な光景をしっかりとみつめることができる。このラストは、親からの自立に目覚めたウォルトが、両親の離婚という困難な状況と同時に、直面している性の問題を乗り越えつつあることを示している。

そしてさらに、そのイカとクジラのシーンの少し前の、ウォルトの父親が救急車で運び去られるシーンにも息子の親離れが暗示されている。しかしここで面白いのは、去り際に何故か父親がゴダールを引用するところだ。つまり、このシーンでは息子の親離れが描かれているだけではなく、ノア・バームバックが映画監督としてある種の宣言をしているように思えてしまうのだ。彼はここでゴダールを葬り、映画監督として自立するというか、新たな時代を切り拓くことを宣言しているように思えてしまう。本作は、困難を乗り越えて成長する少年たちの姿に重ねて、若手映画監督の決意をも同時に描こうとしているのではないだろうか。

そう考えると、この『イカとクジラ』はいろんな意味で未来を感じる素敵な作品であるような気がしてくる。次の製作もすでに決まっているようだし、新作が公開されたら是非とも劇場まで足を運びたい。ノア・バームバックはついつい将来を期待してしまうタイプの監督である。
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2006年11月11日

「父親たちの星条旗」 血飛沫がとび肉片が躍る戦場

クリント・イーストウッド監督 『父親たちの星条旗』 (渋谷ピカデリー)

原題:『FLAGS OF OUR FATHERS』

flags_of_our_fathers03.jpg

戦争を肯定する者の多くは戦場を知らない。そして、その戦争の現場を体験したことのある人々は、その過去について口をつぐみがちである。それは、戦場を知る者たちが、その悲惨な過去を自らの記憶から消し去ってしまいたいと強く願っているからである。

作品の序盤、年老いた元兵士の姿にこのナレーションが重ねられる。上に挙げた言葉は正確なものではないけれど、意味合いはほぼ合っていると思う。この言葉から思い出されるのは、先日観たドキュメンタリー作品『蟻の兵隊』(過去記事)のことである。あの作品では、元兵士がかつての戦場へと足を運び、人殺しであった過去の自分と対峙するまでの過程が描かれていた。一方、この『父親たちの星条旗』で描かれているのは、血飛沫がとび肉片が躍る悲惨な戦場の光景であり、その記憶に苦しめられる元兵士の姿である。おそらく、冒頭のナレーションはこの作品の主題を表しているのだろう。本作は、沈黙を守る元兵士たちに成りかわって、人間の抱える野蛮が露わになる戦場の姿を、この世界に暮らす人々に提示しようとしているのだ。

たしかに、戦場が悲惨であることは疑問を挟む余地のない事実なのだと思う。膨張する国家同士の境界線が衝突することによって、国家の輪郭は破れ、その裂け目から強烈なエネルギーが吹き出して、殺し合いのための戦場が生み出される。そしてカオス的な混乱が渦巻く戦場は、国家の境界線はもちろんのこと、正義と悪、生と死、そして敵と味方との境界さえも曖昧にしてしまい、その境界領域に足を踏み入れる兵士たちを混乱に陥れ、その命を次々に奪っていく。飛び交う銃弾や砲弾など、無数に降り注ぐ金属の塊や銃剣によって、彼らの身体は一瞬にして引き裂かれ、血塗られた肉片へと成り果ててしまうのだ。

*****

スクリーンには、悲惨な戦場の光景と、そこを生き延びた男たちの姿が交互に映し出される。銃弾をかいくぐることで生き残った男たちは、「美しい国家」というフィクションに取り込まれて、国家の英雄として祭り上げられてしまうのだが、やはりこれも戦争が生み出す悲劇の一部と考えることができるだろう。戦争は人間を幸せにはしない。しかし、国家が戦争を必要として、それが民主的なプロセスに則って引き起こされる限り、この悲劇は無限に何度でも繰り返されていくのだろう。生死が入り混じった恍惚の時空。戦争には抑圧された人間の心を惹きつける強い魅力があるのかもしれない。我々は戦争を必要としているのだ。

(関連記事:「硫黄島からの手紙」 仮想化の進む現実の中で/2007/01/06)
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2006年09月07日

「マッチポイント」 貨幣の過剰が生み出す悲劇

ウディ・アレン監督『マッチポイント』。原題『MATCH POINT』

プロテニス・ツアーの苛烈さに嫌気がさしたクリスは、プロの世界から身を引き、イギリスの会員制テニス・クラブで職を求める。そこでコーチとして雇われた彼は、資産家の息子であるトムと出会い、意気投合して、トムの家族と共にオペラを観にいく機会を得る。さらにクリスは、そこでトムの家族、とくに父親のアレックと妹のノラにいたく気に入られ、それを足がかりとして、それにドストエフスキーの後押しもあって、イギリス上流家庭の中に自分の居場所を見出すのだった。彼は、アイルランドの貧しい家庭から、イギリスの富裕層の世界へとのぼりつめることに成功する。

match_point_00.jpgクリスは多くの富と高い地位を手に入れる。と同時に、ある種の罪悪感や嫌悪感が複雑に入り混じったような、なにか得体の知れない恐怖に襲われるようにもなる。つまりクリスは、ある種の高所恐怖症に陥ってしまうのだ。だから彼はアスピリンを飲まなければならない。しかし、薬では症状をやわらげることができなかったクリスは、その硬質で乾いた世界の外側へと抜け出し、渇きを癒すため、女を捕らえて、その肉体から体液を貪り取ろうとする。

*****

現状に対する不安から逃れるために、友人の恋人につい手を出してしまう...これは、ウディ・アレン監督がこれまで度たび利用してきたプロットである。きっと、その経験から負った傷跡が、年老いた今も彼の心の中で疼いてしまうのだろう。しかし、この作品は彼の極私的な恋愛経験を綴っただけの物語ではない。苛烈なアメリカ映画業界に嫌気がさし、イギリスの、それもBBCで映画製作をすることになった彼の現状や、あるいは私的な領域を超えて、富める世界を守るために振るわれるいわれ無き暴力の問題、さらにはその暴力に対するユダヤ系アメリカ人としての苦悩、といったいくつものテーマを繋げ合わせ、幾重にも重ね合わせることによって生み出すことのできた作品であるように思える。そして、扱われているもうひとつのテーマが、人生における不確実性という問題である。

前作『メリンダとメリンダ (MELINDA AND MELINDA)』において、ウディ・アレン監督は、メリンダの人生における悲喜劇性を1枚のコインの表と裏のように描き分けた。たしかに、人生とは悲劇的であり喜劇的でもあって、それはコインを媒介とした表裏一体のものであるようにも思える。つまり、コインのどちらの面が上になるかで、その物語が悲劇と喜劇のどちらに転ぶのかが決まってしまうのだ。さらに、視点を逆転させてコインの側から人生を眺め直してみると、貨幣が生み出す過剰なエネルギーが、人生を悲劇的に、あるいは喜劇的に仕立て上げているのではないかとさえ思えてくる。

この『マッチポイント』という作品は、その貨幣の過剰が生み出す悲劇的な面を、とてもオーソドックスな不倫劇の体裁をつかって描き出そうとしている。だから、”マッチポイント”の時点で柵にぶつかったあの指輪が、柵のどちら側に落ちたとしても、クリスの人生が悲劇的であることにかわりはない。つまり、ゲーム前の”コイントス”の段階で、彼の運命はすでに決められていたのだ。
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2006年07月30日

「ローズ・イン・タイドランド」 この醜悪な世界をすり抜ける少女

29日(土)恵比寿。テリー・ギリアム監督『ローズ・イン・タイドランド』。原題『TIDELAND』

rose_in_tideland06.jpgジェライザ=ローズは夢見がちな父親の大切な娘である。とても父親思いの彼女は、腕まくりをして待つ父親にヘロイン入りの注射器を準備してあげたり、”夢の世界”から戻ってきた彼に「不思議の国のアリス」を読んで聞かせたりしている。その仕草は、まだ10歳の少女なだけあって、とても可愛らしい。

そんな狂った日常を生きているジェライザ=ローズは、ある日、居場所のなくなった父親に連れられ、草原の中にぽつりと建つある一軒家に転がり込むのだった。その廃屋は、父親が祖母と過ごしたという思い出の場所であった。彼らはそこで、2人だけの新しい生活を始めようとする。しかしその矢先に、ジェライザ=ローズの父親は、彼女を独り残し、果てしなく深い夢の世界に迷い込んでしまうのだった。

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ジェライザ=ローズが直面している現実はとても醜悪なものだ。彼女はジャンキーの両親に翻弄されながら育ち、そしてついには独りぼっちにされてしまう。さらに、彼女の目の前に現れる人間たちは皆どこか狂っていて、しばしば彼女を危険な目にあわせるのだ。その救いのない現実を生き抜くために、ジェライザ=ローズは、親譲りの、悪魔的な妄想力を発揮して、自分を取り巻く全てのものをファンタジーの世界の中に塗り込もうとする。その悪戦苦闘の様子が、とてもテリー・ギリアムらしい、刺々しい皮肉に満ちた、下品で悪趣味な娯楽劇として仕立て上げられている。

この作品の中で、テリー・ギリアム監督は多少の自己批判をしつつ、死者が蘇ることを信じ、その復活のためにハルマゲドンを仕掛けようとする狂信的な人々のことを痛烈に皮肉っている。おそらく、本作は、荒唐無稽な妄想の世界を描いたカルトな娯楽作品であると同時に、アメリカ現政権を支え続けるカルトな人々を批判する社会派作品であるとも考えられると思う。ラストの、大人たちの言葉を尻目に、どこか醒めた瞳で、ただ遠くを見つめ続けるジェライザ=ローズの眼差しが強く印象に残った。
posted by Ken-U at 19:42| Comment(2) | TrackBack(5) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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