2006年05月01日

「ブロークン・フラワーズ」 過去を弔う巡礼の旅

ジム・ジャームッシュ監督 『ブロークン・フラワーズ』

broken_flowers00.jpg冒頭、若い女が、年老いた「ドン・ファン」を見捨てるように、あるひとりの壮年の男のもとを立ち去っていく。その惨めな「ドン・ファン」とは、ビル・マーレイ演じるドン・ジョンストンのことである。かつて彼は、プレイボーイとしてならし、いわゆるIT系事業で一儲けするような男だった。しかし現在、手元に多少のカネが残ってはいるものの、それ以外に見当たるものが何もない。彼の目の前には、荒涼とした世界が広がるばかりである。そしてある日、苦々しい思いを噛み締めるドンの許に一通の手紙が届き、それがきっかけとなって、彼はひとりで旅に出ることを決心する。

ドンの旅は、彼自身の過去と再会するためのものであり、その過去を弔うための儀式でもある。そのひとり旅を通して、ドンは自分の葬儀をあげているかのようにみえる。巡礼の旅の道中、彼が黒い服(正確にはネイビーか)をまとっているのはそのためである。

そして旅のクライマックス。ドンは奥深い山の中へと入っていく。そこで彼は手痛い目にあってしまい、すごすごと自宅へ引き返すのだが、その展開もなにやら意味深で、そこに偶然の一致的な何かを感じとってしまった。また、壮年男のほろ苦い通過儀礼の様子が、淡々と、そして事の核心を微妙に外すように描かれているところに味わい深さを感じた。

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旅のきっかけは、19歳になるというドンの息子の存在だった。といっても、本当にその息子が存在しているかどうかは判らない。それでも、ドンはまだ見ぬ息子の幻影に翻弄されてしまう。彼がそこまで息子に拘るのは、自分の過去(人生)が何かを生み出したという証拠が欲しいからなのだろう。だから彼は、知らず知らずのうちに自分の息子(の幻影)を追いかけてしまうのだ。しかし、その息子(の幻影)は彼の目の前をすり抜けていくばかりである。

ラストの結び方もやや残酷で、心に染み入る余韻があった。とはいっても、ぼくはまだここまで枯れてはいないのだが。いや、それでもあと10数年したら、その頃もまだ独身で、かつ何も成し得ていないとしたら、人生に残された「余白」があと僅かであることを噛み締めながら、熊野の森の中をひとり彷徨っていたりするのかもしれない。
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2006年04月20日

「ヒストリー・オブ・バイオレンス」 セックスと暴力の矛盾

未明にライヴで観た、チャンピオンズ・リーグの興奮醒めやらぬまま新宿へ。
デヴィッド・クローネンバーグ監督『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を鑑賞。原題は『A HISTORY OF VIOLENCE』

history_of_violence01.jpg地方都市ミルブルックで暮らすトム・ストールは小さなダイナーを営んでいる。彼には弁護士をしている妻と、学生の息子、まだ小さな娘の3人の家族がいる。家庭は平穏そのもので、ダイナーには町の善良な住民たちが集っている。慎ましやかだが、トムの生活はとても満たされているようにみえる。しかしある晩、ダイナーに二人組の強盗が押し入ったことがきっかけとなって、トムとその家族の平穏な生活は大きく揺さぶられてしまう。

強盗との銃撃戦の中で、彼の”もうひとつの顔”が剥きだしになってしまう。強盗のひとりが命を落とす直前、トムの片足にナイフを突き刺すのだが、そのナイフの一刺しはある”しるし”であるかのように描かれている。闇の世界の使者であるその強盗は、自分の命と引き換えにトムの体に刻印を押したのだ。その刻印はトムが闇の世界の住人であることを意味している。”しるし”を押され、片足を引きずりながら歩くトムは(参考記事)、もはやあの善良な小市民のトムではない(そのもうひとりのトムは”ジョーイ”と呼ばれている)。

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トム・ストールは光の闇の二面性を抱える男として描かれている。この作品において、クローネンバーグは平和と暴力を完全に切り離すことはできないのだといいたいのかもしれない。それは、人間を暴力へと突き動かす衝動が、セックスに対する衝動と重ねて描かれていることからも伺える。その意味で、トムと妻エディとの関係(あるいは対比)はとても興味深く描かれていると思う。

エディは暴力を強く嫌悪する一方で、セックスに対する欲望は深い。クローネンバーグはそれをある種の”矛盾”であるかのように描いている。彼女は10代の頃をとても禁欲的に過ごしたため、その埋め合わせをトムとの性生活で行おうとしているのだ。だからエディのセックスに対する姿勢はどこか過剰である。それを端的に表しているのは夫婦二人だけで夜を過ごすシーンで、彼女はなんとチア・リーダーの格好をしてトムをベッドに押し倒し、そのまま彼の性器を咥え込んでしまうのだ。ここではエディが抱える”矛盾”を強調するために、”端的に表す”という以上の過剰な演出がなされているように思われる。

その後、トムの闇の部分を垣間見たことで、エディは彼を遠ざけようとするが、ある日、トムは逆上して家の階段の上でエディを襲う。この瞬間、”階段”という境界領域において、セックスと暴力が渾然一体となった状態がつくられる。この時のトムはトムであるのか、あるいは”ジョーイ”となっているのかが判然とはしない。トム(あるいはジョーイ)は嫌がるエディに無理やりのしかかり、そのまま犯すのだが、その最中、エディはトム(ジョーイ)を拒むことはしない。しかし行為が終わると、エディはトム(ジョーイ)を振り払い、階段を駆け上がっていく。このシーンにおいてもエディの”矛盾”が描かれている。また、ここでとても興味深く感じられるのは、エディが立ち去った後、階段で死体のように横たわっているトム(ジョーイ)が、にやりと笑みを浮かべることだ。この”笑み”が、エディの”矛盾”に対するクローネンバーグのメッセージとなっているような気がした。

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サスペンス劇としてのディテールは面白いほど省略されているので、そのつもりで観ると拍子抜けしてしまうかもしれない。が、破壊される顔面や、飛び散る肉片など、クローネンバーグ的に”悪趣味”な演出も散りばめられているので(ぼくはクローネンバーグ作品を数本しか観てはないけど)、別の面ではそれなりに楽しむことができると思う。ただ肝心の、”バイオレンス”の捉え方については消化しきれていないので、そこについてはもう少し考えてみたい。
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2006年03月26日

「マンハッタン」 離れられない街

ウディ・アレン監督『マンハッタン』 (自宅にて)

原題『MANHATTAN』

TVの構成作家をしていたアイザックは、ある日突然、スタジオを飛び出して自分のキャリアに終止符を打つ。もううんざりしてしまったのだ。馬鹿馬鹿しい。彼は小説家としてデビューすべく、執筆にとりかかるのだった。

manhattan04.jpgモノクロームのマンハッタン。夜空に浮かぶ摩天楼の姿がとても魅力的に描かれている。そこにはウディ・アレンのその街に対する想いがこめられているのだろう。しかし、そこに色彩はない。さらに街に近づき、その細部に光を当てて眺め直すと、魅惑的な摩天楼とは異なるマンハッタンの姿が浮かび上がってくる。乾いていて、麻薬や暴力、そしてゴミが溢れかえる街。そこで暮らす人々の心はどこか歪んでいる。彼らは自由を謳歌しているようにみえるが、何かに弄ばれているだけのようでもある。

メリーはいかにも”マンハッタン的”魅力に満ちた女性である(フィラデルフィア出身のおそらくクエーカー教徒という設定、その意図はよく解らない)。最初、知的エリートを気取った鼻持ちならない女として彼女は現れるが、同時に捨てがたい魅力も携えていて、アイザックはその複雑な性格に魅了されてゆく。そして、彼はそれまで付き合っていた、まだマンハッタンに染まりきれない17歳のトレイシーを棄て、メリーを選ぶことを決意する。が、メリーはあまりに”マンハッタン的”であるがゆえに、すぐに身を翻してアイザックの許を去ってしまう。アイザックは、自分が致命的な過ちを犯し、大切なものを失いつつあることに気づいて、その修復のために全身全霊をかけて走るのだった。

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アイザックとメリー、トレイシー、そして彼の友人であるエール(次々に車を買い換える男として描かれている)との間で起こる恋愛劇。きっと、アイザックの目にはメリーが身勝手な女として映っているのだろうけれど、おそらく彼女はアイザックの姿を映す鏡に過ぎないのだろう。メリーだけではなく、アイザックを囲む人たちはすべて彼の鏡であるように感じられる。ただし、まだ未成熟なトレイシーを除いては。そしてアイザックは鏡に映る自分自身の姿に右往左往したあげくに、己の愚かさを思い知るのだ。愚かなアイザックはやはり”マンハッタン的”である。

独善的な中年男のほろ苦い恋。ラストでトレイシーをみつける時に流れるのは"BUT NOT FOR ME"で、これがまたほろ苦い。『僕のニューヨークライフ』(過去記事)はこの作品の延長線上にあるのだと思う。
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2006年03月17日

「ゴッドファーザー」 運命に操られる男たち

フランシス・フォード・コッポラ監督『ゴッドファーザー』。家族の崩壊を描く操り人形劇。そのシリーズ第1作。

godfather00.jpg暗闇の世界を生きるビトー・コルレオーネ。彼は絶対的な力を持つ父親であり、その家族は彼を中心に固く結束をしている。しかし、時代とともに闇の世界は変容し、ビトーとその家族を危機に陥れる。この家族の危機を救うために、マイケルは闇の世界に身を投じることを決意する。

闇の世界で生き抜くことの苛酷さとともに、家族という共同体の終焉の始まりが描かれている。マイケルは父権的な共同体から抜け出し、闇の世界と決別しようとしていたにもかかわらず、その希望を叶えることができなかった。彼は自分を捨て、家族のために銃を手にしなければならなかったのだ。マイケルは自分で人生の選択をしたわけではなく、何か大きな力に操られているようにみえる。その大きな力とはなんだろうか。ビトーはそのひとつを政治権力だという。しかしそれだけなのだろうか。さらに大きな力が彼らを支配しているのではないだろうか。

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闇の世界、断ち切ることのできない過去、父権的な共同体と銃、そして排除される女、と、見どころは満載である。とくに印象に残るのは、マイケルがレストランで初めて拳銃を扱うあのシーンだ。引き金を引くあの瞬間、彼の人生は大きく変わる。その過程はある種の通過儀礼のように感じられた。

そしてラスト。ケイがマイケルと抱擁を交わし、部屋を出た後の描写。部屋の中を振り返る彼女の目に映るのは、闇の世界の権力者として振舞うマイケルの姿である。彼女にはマイケルが遠ざかっていくように感じられる。そして部屋の扉がゆっくりと閉じられ、マイケルは闇の中へと姿を消していくのだった。
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2006年02月02日

「僕のニューヨークライフ」 繰り返す過去は断ち切れるか

昨日の恵比寿。ウディ・アレン監督の『僕のニューヨークライフ』。原題は『anything else』

ウディ・アレン出演作。彼は年老いたコメディ作家、ドーベルを演じている。コメディ作家といっても、パブリック・スクールで教鞭をとりながら、その傍らで執筆活動をしているセミプロ作家である。いい年をしながら、彼はまだ創作だけで食べていく自信を持てずにいる。

anything_else01.jpgドーベルはユダヤ人である。彼の頭の中にはアウシュビッツの恨みが今も残っていて、その記憶が彼を苦しめ続けている。それなのに、巷はユダヤが戦争の元凶などと言っている。この世間の風評は彼を苛立たせ、思考の歯車をどこか狂わせてしまっている。

豊富な知識と(笑えない)ジョーク、それに湧き出る妄想をない混ぜにしながら、ドーベルはその想いをジェリーに伝える。ジェリーは若手のコメディ作家で、ドーベルは若き日の自分を彼の上に重ねているようだ。ドーベルはジェリーの仕事や恋愛、セックスなどの相談を受けながら、彼に過去を断ち切るよう諭し、ある提案をする。

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ドーベルとジェリーは度々同じ色の服を着ているせいもあって、同一人物であるかのように見えてしまう(といっても、ルックスがあまりにも違うのだけど)。だから今回は、仕事や恋愛に関する葛藤を分身のジェリーに任せて、ドーベルは思う存分に狂っている。自分の身は自分で守れと言ってジェリーにライフルやサバイバル・グッズを無理やり買わせるところや、強面の男たちの不躾な態度にキレて彼らの車を叩き壊すシーンなどはあまりにも馬鹿馬鹿しく、笑うに笑えないけれども、やはりゲラゲラと笑ってしまう。

悲惨な過去に縛られ、過剰な行動で周囲を混乱に陥れて、仕舞いには自滅の道を歩んでしまう狂ったユダヤ人を、ドーベル(というかアレン)は自虐的に演じて見せている。その自縛の苦しみがあるから、ドーベルはジェリーに過去を断ち切れと諭すのだろう。過去を切り捨て、欲望に対して忠実になることで、死の恐怖は遠ざかり、充実した人生が獲得できるのだ。そう狂ったドーベルは主張している。

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とても複雑なラストだった。あなたではない誰か、ここではない何処か、今に満たされずに他の何かを求め続ける若者たちの姿に、ウディ・アレンはどのような視線を送っているのだろう。そこには温かさや冷たさ、あるいは諦念などの様々な心情が込められているような気がする。
posted by Ken-U at 16:14| Comment(2) | TrackBack(1) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月24日

「ヴィレッジ」 未来のためにすべきこと

M・ナイト・シャマラン監督の『ヴィレッジ』を鑑賞。

人間は心の闇の中に欲望を抱えている。ときにその欲望は自制が働かなくなるほど膨れ上がり、人間を破滅へと導く。ある時は犯罪を生み出し、人間を傷つけ、その命をも奪ってしまう。

the_village02.jpg欲望の渦巻く世界から切り離された小さな村が、この物語の舞台となっている。この村には貨幣が流通していない。そして村人は互いに助け合い、つつましやかに暮らしながら、この共同体の均衡を保っているようにみえる。

禁欲的な暮らしを送る村人たちには、コヴィントンの森というタブーがある。村を外界と隔てているその森には、獰猛な魔物が棲んでいると伝えられており、ここに足を踏み入れることは固く禁じられている。そして、赤という色も不吉なものされている。赤は血の色であり、欲望を刺激する色であるからだ。赤い木の実が成るコヴィントンの森には、人間が抱える心の暗闇が投射されているのだろう。

この物語は3人の登場人物により進められる。盲目のアイヴィー・ウォーカーという娘と、知的障害を持つノア・パーシーという青年。仲のよいこのふたりは村の住人でありながら、他の村人とは異なる世界を生きている。
そしてもうひとり、ルシアス・ハントという青年。彼は境界領域に足を踏み入れる男として描かれている。アイヴィーに寄せる密かな想いから、彼は森に立ち入ろうとするし、自ら禁じていたアイヴィーへの想いを打ち明け、結婚しようとする。その結果、ある事件よって生死の境界を彷徨うことになる。

ルシアスとアイヴィーの結婚は、村の未来と重ねられている。そしてルシアスの危機は、この村の未来を危うくすると考えられている。村の未来を守るために、アイヴィーの父親はある決意をする。そして暗闇の中に光を見出すことのできる自分の娘、アイヴィーを導き、ルシアスの命を救おうとするのだ。

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若者が生きる未来のために、大人たちは保身ばかりではなく、ときには危険を伴なう判断を下す必要がある。と、この物語は諭しているのかもしれない。大人のための寓話のような作品である。

しかし、なにか薄い。映像は凝っているけれども、設定が安易なせいか、物語の舞台が書き割りのように感じられてしまう。それに、ルシアンやノアを行動に駆り立てる動機が弱いし、作品の主軸となる3人以外の人物造形も希薄だった。その薄さを「飛び道具」で補填しているような印象を受けてしまう。それなりに面白いけれども、少し安っぽい。でもそれがシャラマン監督の作風なのかもしれないし、案外、この希薄さを心地よく感じる人も多いのかもしれない。
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2006年01月18日

「マルコヴィッチの穴」 映画業界の縮図

少し飲み過ぎ。で、少し早起き。スパイク・ジョーンズ監督の『マルコヴィッチの穴』、2回目の鑑賞。

being_john_malkovich01.jpg社会に適応できない芸術家肌の男、人形使いのクレイグ。彼は働きもせず、独りで人形を弄んでばかりいる。
彼の妻ロッテは傷ついた動物たちを引きとり、同居しながらその面倒を見ている。彼女にとって、クレイグはきっとそのケモノたちと同じようなものなのだろう。彼らの部屋の中で、クレイグはトラウマを抱えたチンパンジーとならべられているのだ。

そのロッテの強い勧めもあって、クレイグは就職をする。しかし、正常と異常とがどこか逆転してしまっているクレイグの目には、オフィスの光景はとても奇異なものとして映ってしまう。それに、同僚や上司との会話もすれ違いがちで、うまく会話を成立させることができない。

そしてある日、クレイグがオフィスの壁に開けられた抜け穴を見つけるところからこの物語は急展開する。マルコヴィッチの中へと続くこの抜け穴に侵入し、その身体を借りて世界を覗き見る行為は、秘められた人間の欲望を剥き出しにしていく。おそらく、この抜け穴は、映画という装置そのものを表しているのだと思う。

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作家の苦悩を描いたこの荒唐無稽な物語は、監督の私的心情が下敷きになっているのではないだろうか。そして、悲喜劇的ではあるけれども、悲しい、喜しい、というよりも、どことなく恐ろしさを感じさせる。

結局、クレイグが見つけたあの装置は彼自身のものにはならず、永遠の命を生きようとする老人たちに奪い返されてしまう。これは映画業界の力関係を表しているのかもしれない。19世紀に建築されたというあのオフィス・ビルは近代の象徴でもあり、その隙間に造られたいびつなフロア(7・1/2階)は映画業界そのものを表しているのだ。

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クレイグと関係するふたりの女性、ロッテとマキシンを眺めていたら、ソフィア・コッポラのことを連想してしまった。彼女たちはペニス願望を抱えた強欲な女として描かれているのだけど。それに、糸に吊るされた操り人形からは『ゴッド・ファーザー』、マルコヴィッチがみせた踊りからは『地獄の黙示録』が連想された。いろんな意味で、コッポラ色を強く感じてしまう作品だった。
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2006年01月07日

「老人と海」 生死の境界を漂う

ジョン・スタージェス監督の『老人と海』を鑑賞。生死の境界域を彷徨う、ひとりの老人の姿が描かれている。

the_old_man02.jpgこの作品を初めて観たのは小学生の時だったと思う。ぼくが生まれる前に製作された作品なので、劇場ではなく、TVで観た。あの時、小さな舟で大海を彷徨う老人の姿に、ぼくはすっかり惹きつけられてしまった。30年程も昔のことなのに、その映像が今も記憶に残っている。といっても、その姿はとても曖昧なものだけれども。

独り漁に出た老人は、久しぶりの”大物”に遭遇し、魅了される。そして姿の見えない獲物と共に、幾日も海の上を漂いながら、格闘する。
老人にとって、海は死の世界の入り口ということになるのだろう。その死の世界に棲む”何か”は、一本の綱によって老人と結び付けられる。そこから、老人と死の世界の綱引きは始まるのだ。彼は幾度となく意識を失いそうになりながらも、懸命に綱を手繰り寄せ、この世の中に留まろうとする。

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約30年ぶりの鑑賞ではあったけれども、老人の手のひらに刻まれた傷、滲む血の様子など、自分の記憶と繋がる映像を幾つも確認することができた。しかし子供の時のように、固唾を飲んで老人の姿を見守る、というところまではいかなかった。ナレーションが多用されていたり、映像的に単調だったりで、鑑賞するにはやや退屈に思えた。当然のことながら、あの頃の自分とは受け取り方が違う。ある種の懐かしさを感じながらも、そんな当たり前のことをいろいろと考えた。確実に加齢は進んでいる。そのうち、ぼくもあの老人のようになるのだ。それが成熟というものなんだと思う。
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2005年12月04日

「スパイダーマン2」 葛藤するアメリカの英雄

サム・ライミ監督の『スパイダーマン2』を鑑賞。極上の娯楽作品。

やはりこのての作品は劇場で観るべきなんだろう。でかいスクリーンと音響設備が欲しいところ。うちでできることといったら、TVの粗末なスピーカーじゃなくて、オーディオ用のアンプとスピーカーに繋いで音を鳴らしてみることぐらい。なんていいながら、夕飯の準備をしたり、食べながらの鑑賞だったので、細かいところは把握できていない。

spider-man2_1.jpgなんといっても、画作りが素晴らしい。カメラワークやCGの水準がとても高く、かつそれらが滑らかに繋がっている。観ていて飽きることがなく、躍動する画にうまくのせられてしまう。

面白いのは、ある意味「ヒーローもの」を捨てているところ。キャスティングもうまくはずしているし、悪役のキャラクターづくりも微妙。それに、メディア(あるいはハリウッド)に対する皮肉もうまく織り込まれていたりする。それをこれだけの娯楽作品に仕上げてしまうのだから、その手腕につくづく感心させられる。

ラストの展開も面白かった。暴走する核融合施設をどうするかっていう逼迫した局面で、結局それを川に捨てるっていうオチ。川に捨てるって、おい...
それでも、そこからうまくまとめてエンディングに繋いでいくのだから、これも演出のうまさということなんだろう。

作品の基本は、進路を迷う青年が綴る恋物語といったところか。それを極上の娯楽作品に膨らませている。サム・ライミは、きっとスパイダーマン以上にタフな男なんだと思う。
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2005年11月14日

「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」 死刑をめぐるサスペンス劇

アラン・パーカー監督の『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』を鑑賞。テキサス州の死刑制度を題材にしたサスペンス劇。

the_life_of_david_gale01.jpg大学教授であり、死刑制度廃止運動の活動家でもあったデビッド・ゲイル。彼はレイプ殺人の容疑で逮捕され、死刑囚となった。目前に刑の執行を控えたゲイルは、高額の報酬と引き換えに、雑誌社の取材を受け入れる。そのインタビュアーに指名されたのはビッツィー・ブルーム。彼女は助手を連れて、テキサス州エリス刑務所へと向かう。

テキサス州は合衆国内で最も死刑執行数の多い州で、デビッド・ゲイルが逮捕されたことになっている94年は、ジョージ・W・ブッシュがテキサス州知事に就任した年と重なっている。ブッシュが大統領選に出馬した際に、知事時代の死刑執行件数や、死刑囚の多くは社会的弱者であるという事実などが話題になっていたことを思い出した。作品中、デビッド・ゲイルがテキサス州知事をTV討論番組の中でやり込めるシーンがあって、その直後に、彼はレイプの容疑をかけられる。この作品には、テキサス州の死刑制度を批判するとともに、ブッシュ大統領の政治姿勢を疑問視するという意図も含められているんじゃないだろうか。

とはいえ、政治色がそれほど強いというわけではなく、あくまでも、ゲイルに対する死刑執行を延期、もしくは中止するために、ビッツィーが事件の謎を解いていく過程が前面に描かれている。しかもラスト近くで状況が二転三転するという、娯楽性の高いサスペンス劇に仕上げられているんじゃないだろうか。

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まずまずの作品だった。社会派でありながら、娯楽性も確保されている良作。でも演出がちょっとくどい。死刑制度の問題点を説明するための台詞が多かったせいもあるのかもしれない。とくに映像で頻繁に語句を挿入する意図が解らず、煩わしかった。しかし、くどいわりには軽い印象を受けてしまうのは何故なんだろう。あの不思議な軽さはケヴィン・スペイシーが醸し出してるんだろうか。あるいは、物語の仕掛けが周到すぎたのかも。仕掛けに驚くというより、納得することの方が多かった。
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2005年10月22日

「フレンチ・コネクション2」 闇の世界と交わる男

ジョン・フランケンハイマー監督の「フレンチ・コネクション2」を鑑賞。「フレンチ・コネクション」(過去記事)の続編。舞台はフランスのマルセイユ。

french_connection_II.jpgジミー・ドイル刑事は、NYで取り逃がしたアラン・シャルニエを捕らえるために、単身でマルセイユに乗り込む。しかし、彼はマルセイユ警察から歓迎されることはなく、招かれざる客として扱われる。与えられた環境に苛立ちを覚えながらも、ドイルは自らの直感と欲望に従う。そして再び刑事の枠から大きく逸脱していく。

紡がれる物語はカオス的ともいえるものだった。異邦人という立場も手伝って、もはやドイルの行動は刑事のものではなくなっている。彼は闇の世界の力に絡めとられそうになり、生死の境界を彷徨う。蘇生後には、壮絶な銃撃戦の只中に身を置く。さらには闇の世界を炎に包もうとする。その行動の全てが常軌を逸している。カオス的な闇の世界と交わるドイルの様子が、全編に渡って描かれている。ドイルは刑事の職務から、そしてこの作品も、”刑事もの”というカテゴリーから大きく逸脱してしまっている。

ラストでは埠頭を走る。息を切らせながら、シャルニエを追って走りに走る。彼は何を求めて走っているんだろうか。そしてこの物語は、”刑事もの”らしからぬエンディングを迎える。何故かこの終わり方が妙に気持ちいい。思わずにやりとしてしまう。

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改めてこの2作を眺めてみて、その魅力を再確認することができたような気がする。どちらかというと、1作目の方が出来がいいと思う。そしてジーン・ハックマン。彼が本当に素晴らしい俳優だということも、今回の鑑賞で再確認することができた。朝晩で2作を堪能する、満足の1日だった。
posted by Ken-U at 02:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月21日

「フレンチ・コネクション」 闇の世界に魅了された男

ウィリアム・フリードキン監督の「フレンチ・コネクション」を鑑賞。

この作品の魅力は、闇の世界を追う”ポパイ”の姿に尽きる。マルセイユとニューヨークを結ぶ麻薬ルート、フレンチ・コネクションを、”ポパイ”こと、ジミー・ドイル刑事が追う。

french_connection.jpgNYは麻薬の供給が滞っていた。ガサ入れしても、捕まえることができるのはチンピラや子供ばかりだ。
ある日、ドイルは同僚のルッソとクラブで飲んでいた。そこでドイルは、見覚えのある密売人たちが別のテーブルで飲んでいるのを見つける。彼の”勘”がはたらく。無意識が刺激され、ピンとくる。闇の世界に飢えていた”ポパイ”は、派手に豪遊している彼らの姿にすっかり魅了されてしまったようだ。彼は早速ルッソを誘い、不審な男女を尾行することにする。

そこで尾行したサルとアンジーが手がかりとなって、ドイルはフレンチ・コネクションを嗅ぎつける。マルセイユから運び込まれる大量の麻薬を取り仕切るのは、アラン・シャルニエ。ドイルは狂ったようにシャルニエを追う。その姿はとても魅力的だ。彼は尾行し、走る。そして取り逃がす。命を狙われる。そしてあのカー・チェイス!

*****

ドイルは決してシャルニエを捕まえることはできない。その寸前のところまでは辿り着けるのだけど。しかしこの暗闇の奥底から現れた得体の知れない男、シャルニエとはいったい誰なんだろう。

ラストでは、”刑事もの”として描かれていた物語の表皮が剥がれてしまう。ドイルはシャルニエを追って薄暗い建物の中に入る。そして見失う。それでも懸命に探し回るドイル。彼は狂っている。薄暗い空間の先に動く影をみつけ、彼は反射的に撃つ。何発も銃弾をぶち込む。しかしシャルニエを捕らえることはできない。それでもドイルは影を追い、暗闇の向こう側に走り去っていく。

この物語は、”刑事もの”から”ホラー”へと変容しているようだった。この作品の続編は、「フレンチ・コネクション 2」として製作されているけれども、「エクソシスト」へと引き継がれたものもあるのかもしれない。

*****

この作品は子供のころから大好きで、最初に観たのが何年生だったのかは忘れたけど、放送されるたびにTVの前に噛り付いていたのを思い出す。何度となく興奮させられた。ポパイ、麻薬、そして暗闇。闇の世界へと引き込まれる男たち。15年以上ぶりの久々の鑑賞だったけど、じゅうぶんに楽しむことができた。傑作。
posted by Ken-U at 13:39| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画(USA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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