2005年10月20日

「夜の大捜査線」 終わりのない夜はないのか

ノーマン・ジュイソン監督の「夜の大捜査線」を鑑賞。原題は「IN THE HEAT OF THE NIGHT」。しかしながら、この邦題はちょっとないんじゃないかと思う。

in_the_heat_of_the_night02.jpg”刑事もの”というジャンルは、善と悪の境界的な領域から生み出されるドラマを綴ったものではないかと書いたけれども、そう考えると、この「夜の大捜査線」はいわゆる”刑事もの”の枠からは外れた作品なのかもしれない。

確かに冒頭には死体が現れるし、事件に巻き込まれてしまったバージル・ティブスは犯人探しに奔走する。しかしこの作品では”善と悪”というよりも、アメリカ社会に横たわる”黒と白”の境界をめぐる物語の方にカメラが向けられていた。

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ミシシッピ州のスパルタ。母親を訪ねるために帰省していたバージル・ティブスは、殺人犯と見做されて警官に逮捕されてしまう。その後、ティブスが警察官であることが判明し、彼は釈放される。また、彼が殺人事件のスペシャリストであることが判り、被害者の妻の強い希望もあって、署長のギレスピーは強い抵抗を感じながらもティブスに協力を依頼する。黒人であるティブスに捜査協力を求めなければないという現実に、ギレスピーは苛立つ。彼も他の南部人と同様、黒人を強く賤視する人間だからだ。ここから”黒と白”の間の衝突、葛藤、そして融和するまでの過程が描かれている。

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賤視による差別の問題はこの国の中にも存在しているけれども、社会の表層には現れ難い。アメリカではそれが肌の色の違いという、非常に判りやすいかたちで剥き出しにされているから、この国の差別とはかなり状況が異なっていると思う。だからこの作品が持つ重みを理解するには限界があるだろう。しかし、この物語を普遍化させながら、自分なりに掴むことはできるんじゃないだろうか。

この作品のみどころは、黒と白との衝突、つまりティブス役のシドニー・ポワチエと、ギレスピー署長役のロッド・スタイガーが、火花を散らしながら互いの演技をぶつけ合うところにあるんじゃないだろうか。ある殺人事件をきっかけにすれ違うふたりが、強く衝突し、反発しながらも友情を芽生えさせる。それがラストにおけるふたりの表情に集約されているようだった。

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作品中、「終わりのない夜はない」という台詞がつかわれている。当時のアメリカでは、黒人の開放をめぐる暴力の連鎖が社会問題になっていたはずだ。その現実が、「夜の熱狂」として観る者に突きつけられていた。しかし同時に、必ず夜は明けるはずだという祈りのような気持ちも、この作品にはこめられていたような気がする。この作品が公開されて40年近くが経った今、果たして、アメリカに夜明けは訪れているんだろうか。
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2005年10月19日

「ブリット」 太陽の街の影を描く

ピーター・イエーツ監督の「ブリット」を鑑賞。今週は4本の”刑事もの”作品が放送される。ぼくは後半の2本を楽しみにしている。録画予約を忘れないようにしないと。

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表と裏、あるいは、光と影の世界が交錯する境界的な領域からは、多くのドラマが生み出される。いわゆる”刑事もの”も、この境界領域を舞台にした作品群だといえるんじゃないだろうか。”善”と”悪”が複雑に絡み合った世界。その境界領域を職場とする刑事たちの姿からは、人を超えた何かが感じられる。作品中、刑事が英雄的に描かれることが多いのは、彼らの仕事から超越的な何かを感じてしまうことと繋がっているように思われる。

bullitt.jpgこの「ブリット」はサンフランシスコの光と影、どちらかというと、主に影の部分を描いた作品だといえるだろう。西海岸の眩しい太陽が現れるシーンはごく限られていて、ほとんどのシーンは暗闇に覆われている。フランク・ブリットの顔に影がかかったショットも多用されていて、そこから彼と暗闇の深い繋がりを感じることができる。

そして病院のシーン。撃たれた男たちが病院に運び込まれ、処置を受ける様子が執拗に撮られている。そこがとても興味深かった。そしてブリットが病室をゆっくりと歩き回る。ベッドに横たわっているのは、生命維持装置をつけられるような重症患者ばかりだ。これらのシーンでは、刑事が生きる世界が、”善”と”悪”だけではなく、”生”と”死”の境界領域でもあることが示されているようだった。

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ところで、影を描くからジャズなんだろうか。この作品では、オープニングからジャズが効果的につかわれている。オープニング・ロールも、BLUE NOTEのジャケット・デザインを連想させるようなスマートなものだ。ジャズから”黒”を読み取れということなんだろうか。黒人の音楽という意味で。
黒人の配置のされ方でいうと、病院で処置を担当する医者が黒人だった。患者を挟んで右側が黒人の医者と看護士、左が白人の医者と看護士というショットもあって、このあたりの表現方法はどうなんだろうか、とも考えた。

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クライマックスのカー・チェイスのシーンもいいんだけど、恋人との関係の描き方にも惹かれるものがあった。
恋人のキャシーはとても美しいんだけど、とても理論的な人間として描かれている。彼女がいる世界とブリットの世界の間には大きな溝があって、あることがきっかけで、彼女はその現実に直面してしまう。そこで彼女が抱えてしまったものは、ブリットを苦しめる。その苦悩はラストへと繋がる。光と女、そして拳銃のショット。手を洗い、鏡を見つめるブリットの姿。その表情。

善と悪、生と死の境界で生きる男の影、苦悩がとても印象的に撮られている、なかなかの作品だった。
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2005年10月04日

「ホテル・ルワンダ」 国内公開情報

hotel_rwanda00.jpg映画「ホテル・ルワンダ」の劇場公開を実現するために、ネットを通じて署名活動が行われていたけれども、この2日に、国内で公開されることが決まったらしい。ネットや郵送を通じて、4,101名分の署名が集まったそうだ。12月にシアターN渋谷(現:渋谷ユーロスペース)で公開、その後は未定とのこと。渋谷での興行成績によって、その後の公開予定が決められるようだ。

ぼくはこの作品を観たわけではないので、内容についてはなんとも言えないけど、未公開のまま埋もれてしまうような作品ではないと思う。詳細な情報は、リンク先で得ることができる。


リンク: 『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会

(関連記事:映画「ホテル・ルワンダ」情報/2005/07/24)
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2005年09月07日

「ターネーション」 救いようのない晒し者

今日は久しぶりに三宿でピッツァ・ランチ。食後、豪雨に遭遇。で、渋谷で映画。ジョナサン・カウエット監督の「ターネーション」(official site)を鑑賞。水曜は1,000円。ジョナサン・カウエットの自分史を映像化した作品。製作費が218.32ドルと、超低予算らしい。

tarnation01.jpgジョナサンは心の中にとんでもないものを抱えてしまっている。少年の頃からビデオ・カメラを据えて、カメラの前で”女優”としての異常な演技を披露している。この作品はドキュメンタリーが中心ではありながら、過剰に加工された妄想的な映像も多く挿入されいているので、観ていると気分が悪くなってしまう。しかしその映像が悪趣味に思えたとしても、それを云々することはできないような気もする。そういった私的な映像をどう受けとめたらいいもんだか、よく解らないまま作品は終了した。

ジョナサン・カウエットという人は、何者かを強烈に欲しながら、同時に強く拒否しているんじゃないだろうか。そういう印象を受けた。だから鑑賞中に、居心地の悪さを感じたのかもしれない。それでも彼はカメラの前に立って、自分自身を晒さなければならない。この人は救いようのない世界の中を生きている、ということはよく解った。
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2005年08月27日

「ラスト・ショー」 止まった時間の中で朽ちていくアメリカ

ピーター・ボグダノヴィッチ監督の「ラスト・ショー」を鑑賞。モノクロームで綴られた青春劇。舞台はテキサスの田舎町アナリーン。地元のハイスクールの学生であるサニーの姿を通して、寂れた町で暮らす人々の様子が淡々と描かれている。

the_last_picture_show.jpgとても印象的なのは、映像に季節感がないこと。季節が移り変わり、1年が過ぎて、サニーや仲間達がハイスクールを卒業するまでの間、町の風景から季節感があまり感じられない。まるで時間が止まってしまったかのように見える。そこに、時代の流れに取り残されてしまったアナリーンという町の状況がよく表れている。

時間が止まってしまった町の中で暮らす人々。彼らは古く保守的な価値観を持ちながら暮らしてきたのに、町の中にはそれを支えるべき何かが欠落している。サニーには母親がおらず、父親はジャンキーに成り果てている。周囲の家庭もみな破綻している。若者は受け継ぐべき財産や価値観もなく、手に入れられる新しい価値感も見つからない。彼らは皆、行き場のない欲望を抱えてしまっていて、乾いたセックスがその捌け口になっている。サニーも人妻と不倫関係に陥りながら、同窓生のジェイシーの誘惑にも翻弄されてしまう。

時代に取り残されながら、時間が止まったように見える状況の中でも、ゆっくりとアナリーンという町は朽ちていく。そして町とともに、古いアメリカも消え去ろうとしている。
閉館が決まった町で唯一の劇場の中で、サニーが友人とともに観る映画にそれが集約されているようだった。

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時間の流れが淡々としてるだけに、物語や映像のディテールに凝らないとダレてしまう。そういうタイプの作品なんじゃないかな。そういう意味では、ぼくにはちょっと緩かった。まずまずのアメリカン・ニューシネマ作品。
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2005年08月21日

「アリスの恋」 乾いた空気に舞う美しい砂埃

マーティン・スコセッシ監督の「アリスの恋」を鑑賞。原題は「ALICE DOESNT'T LIVE HERE ANYMORE」。邦題とはずいぶん印象が異なる。

見事な作品。美しい映像に惹きつけられてしまう。今ではカメラをぶるんぶるん振り回すばかりの爺さんにも、こういう時代があったのかと再認識させられた。
女のことがよく解らない男が、見事に女性を描けているようにみえるんだけど、それは優れた女優陣による支えがあったからこそなんだろう。エレン・バースティンの演技はもちろんのこと、まだ幼さが残るジョディ・フォスターの怪演も強烈な印象を残す。
アメリカ南部の乾いた空気の中で紡がれる物語が、そこで舞う砂埃とともに、とても美しくフィルムに収められている。

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ニューメキシコ州ソコーロ。そこで暮らす夫婦とひとり息子。
alice02.jpg父親のドナルドは、コカ・コーラのユニフォームを着たまま食事の前には祈りをささげ、その一方で生意気な息子に暴力を振るおうとする。怒鳴る。そういう男だ。妻や息子との関係は乾ききっている。ある日、ドナルドの運転するトラックは事故に遭ってしまい、彼は砕けるコーラ瓶とともに命を落とす。

未亡人となったアリスは再びピアノの前に座る。そして歌う。結婚前の思い出が心の中によみがえる。歌手として暮らしていた幸福な日々。そしてアリスは、失われた時間を取り戻すために、息子のトムと共に街を去ることを決意する。家財道具を売り払い、わずかな現金とスーツケースを手に、母と息子のドライブが始まる。目指す街はモンテレー。彼女はかつてその街で歌っていたのだ。

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母と息子はアメリカ南部の街トゥーソンに立ち寄る。アリスはその街のダイナーで、ウエイトレスの職を得る。店に集まるのは、乾いた南部の土地で貧しく暮らす人々。彼らは多くの物語を抱えながら生き延びている。
その質素なダイナーの中で、それぞれの人生が交錯しながら、新しい物語が生み出される。そのファンタジックな様子がとても美しく描かれている。

作品中2度ほど、砂埃が奇跡的に美しく舞う瞬間がある。とても印象的なショットなんだけど、そのショットにこの作品の全てが集約されているような気がした。

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ジョディー・フォスターが演じるのはドリスという少女。父親は蒸発していて、母親とふたりで暮らしている。母親は3時になると、娼婦として仕事に出る。ドリスは父親を憎みながら、彼女自身はいつも大人の男のように振舞っている。父親を乗り越えるためだろうか?そして自分の中の女をも殺そうともしているようだ。そういったとても複雑なキャラクターを見事に演じきっている。恐ろしい人だな。まさに天才子役といった印象。
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2005年08月13日

「イージー・ライダー☆レイジング・ブル」 ニューシネマを駆け抜ける

「イージー・ライダー☆レイジング・ブル」を鑑賞。原題は「EASY RIDERS RAGING BULLS: HOW THE SEX DRUGS AND ROCK'N'ROLL - GENERATION SAVED HOLLYWOOD」と長い。 '60年代から'70年代にかけて躍動した「アメリカン・ニューシネマ」を駆け足で振り返ったドキュメンタリー作品。

easyrider_ragingbulls.jpgとにかく情報量が多いというか、様々なインタビューや当時の映像が次々に入れ替わりながら、それこそ走馬灯のように目の前を過ぎ去っていく。そのテンポはまさにアメリカン・ニューシネマ的といえるのかもしれない。振り返ってみると、アメリカ映画史における"躍動の時代"はとても短いということに気づかされる。あっという間に走り去った出来事だったのだ。
ぼくが生まれたのは'66年。子供時代に"TVで"この時代を体験した。それもあって、このドキュメンタリーをとても興味深く観ることができた。

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ニューシネマの胎動はその'66年から。既にハリウッドのスタジオ・システムは崩壊していて、製作会社には状況を打開するための展望がない。世の中は既にTVの時代になっている。
そんな状況の中、ヨーロッパ映画の影響を受けながら、若者たちが動き出す。ロバート・ベントンとデヴィッド・ニューマン。このふたりのライターは、自分たちが書いている脚本をヌーヴェルヴァーグの作家に渡し、アドバイスを求める。その作家とはフランソワ・トリュフォー。ふたりはトリュフォーに加え、ゴダールからも学びながら脚本を仕上げる。その脚本のタイトルは、「俺たちに明日はない」。アーサー・ペンが監督し、公開されたのが'67年。

落ち目のパラマウントでは、事業を立て直すために、ボブ・エヴァンスに白羽の矢が立てられる。彼はピーター・バードと組んで新しい映画を目指す。そしてポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」が生まれる。それが'68年。

翌年'69年には、新しい作家たちの活躍が加速する。コロンビアからはデニス・ホッパーが監督した「イージー・ライダー」が発表され、若者たちから熱狂的な支持を受ける。ジョン・シュレシンジャーの「真夜中のカウボーイ」はユナイテッド・アーチスツから。ちょっとあれだけどウディ・アレンが初監督作品を発表したのもこの年。ニューシネマの躍進はピークを迎え、映画製作の主導権は製作会社から監督へと移っていく。
その後はスコセッシやコッポラ、デパルマ、スピルバーグ、ルーカスなども加わり、この時期に新しい作家の時代は隆盛を極める。

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2005年08月05日

「スコルピオンの恋まじない」 無意識の底に眠る感情と向き合う

またまたウディ・アレン。「スコルピオンの恋まじない」を鑑賞。原題は「THE CURSE OF THE JADE SCORPION」
タイトルが邦題に差し替えられる際に、どの作品も毒が消されるというか、去勢されるというか。カワイイ感じにされてしまうのが不満だ。

scorpion.jpg舞台は1940年のニューヨーク。ウディ・アレンは保険会社の調査員であるC.W.ブリッグスを演じている。C.Wは勤続20年のベテラン調査員。学歴はないけれど、前科者やホームレスによる独自の人脈を持っていて、そのネットワークからもたらされる情報と直感を頼りに、これまで多くの実績をあげてきた。見かけはさえないけど切れ者で、同僚からも慕われている。
このキャラクターも、社会の底辺で生きる人達との繋がりを持っていて、無意識の領域から湧き出てくる一種のマジック(=直感)を駆使しているっていうのが面白い。

そんなC.W.にも社内に天敵がいる。半年前に入社してきたベティ=アン・フィッツジェラルドだ。彼女は高学歴で男勝りなキャリア・ウーマン。社長直属で、業績改善のための社内改革を推し進めている。彼女の目には、C.W.の仕事のやり方はいかにも古臭いと映っている。直感に頼る仕事には無駄が多い。これからの企業は、科学技術を駆使するべきだと考え、社内のファイル・システムの合理化にとりかかったりしている。まるでIBMにいるような女だ。

揉めてばかりのふたりだけど、同僚の誕生パーティーで違った姿をみせる。パーティの余興で、怪しげな奇術師から催眠術をかけられるのだ。ふたりは互いに愛し合っているという暗示をかけられ、その通りに愛の言葉を交わし合う。催眠術というマジックの魔力が、ふたりの間に張り詰めていた緊張を解いてしまった。その滑稽な姿に、同僚たちは笑ってしまう。しかしこの魔術師はとんでもない男で、C.Wとフィッツジェラルドはある事件に巻き込まれてしまうのだった...

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ここからはいろいろあって笑わせてくれる。で、最後はハッピーエンド。災い転じて福になったって感じ。物語を通して、ふたりが抱える相容れない世界(知性・高学歴・富裕層・科学と野生・低学歴、貧困層・直感)の対立が描かれている。しかし、催眠術がそれぞれの無意識の領域に隠されていた感情を刺激したことによって、ふたりは互いを受け入れることができるようになる。

無意識の領域に潜む感情から目を逸らしてはいけない。というテーマは、「ギター弾きの恋」と共通している。知性を超えた世界にこそ、大切なものが隠されているのだ。

そういえば、ふたつの世界を繋ぐもうひとつの存在を忘れてはいけない。シャーリーズ・セロン演じる富豪の娘、ローラ・ケンジントンだ。彼女の存在は「ギター弾きの恋」のブランチ(ユマ・サーマン)と共通している。あと、ふたりともぼくが大好きだったのも共通している(ユマ・サーマンはちょっと前だけど)。いやあ、とにかく美しいっす。

(関連記事:「ギター弾きの恋」 見落としがちな幸福への扉/2005/08/05)
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2005年08月04日

「ギター弾きの恋」 見落としがちな幸福への扉

外はかなり暑い。暑さのせいじゃないけど、このエントリーを全部書き直した。
で、またウディ・アレン。「ギター弾きの恋」を鑑賞。原題は「SWEET AND LOWDOWN」
知る人ぞ知る天才ジャズ・ギタリスト、エメット・レイの悲劇を描いた物語。

sweet_and_lowdown.jpgこの「ギター弾きの恋」は、「おいしい生活」のひとつ前の作品なんだけど、扱っているテーマはよく似ていると思う。というか、ほぼ同じなんじゃないだろうか。裏社会で生きてきた男が、マジック(ギターや泥棒)の魔力によって表社会の中で成功しようと七転八倒する様子が描かれている。

「おいしい生活」のレイには才能がないんだけど、それでも愛する妻と支え合って生きている。しかしこの作品のエメットは、才能はあるんだけれども、愛情には恵まれていない。トラウマによって感情が抑圧されていて、他者を愛したり、愛されたりすることができない。そして「おいしい…」は喜劇として描かれながら小さなハッピーエンドで終わるんだけれども、この作品はとても切ない悲劇として描かれている。
このふたつの作品を通して、才能が人生を救うことはないという、ウディ・アレンの心情が滲み出ているような気がした。

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エメット・レイの才能は自他共に認めるもので、本人は世界で2番目の天才ギタリストだと名乗っている。この"2番目"というのはとても大切なポイントだと思う。あくまでも、1番の才能の持ち主はジャンゴ・ラインハルトだとされている。
エメットはジャンゴと遭遇したことがあるんだけど、緊張のあまり失神してしまったそうだ。そしてジャンゴのプレイを聴くと、彼は感動のあまり涙してしまう。明らかにエメットはジャンゴを神格化している。自分の才能が決して届かない神の領域がそこにあることを無意識に把握しているんだろう。だからうかつに近づいてしまうと、彼は意識を失ってしまうのだ。

エメットにとっての"ジャンゴの領域"と、「おいしい生活」のレイにとっての"銀行の金庫"はよく似ている。どちらも彼らの才能の延長線上にある究極の存在となっている。しかし彼らは決してそこに辿り着くことができない。その点も共通していると思う。
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2005年08月03日

「おいしい生活」 ふたつの世界を繋ぐ夫婦愛

午前中、録画していたウディ・アレン監督の「おいしい生活」を鑑賞。原題は「SMALL TIME CROOKS」邦題はおかしいと思う。

small_time_crooks.jpgブロンクス育ちのウディ・アレンが演じるのは、夢見がちでなにをやってもうまくいかない泥棒上がりのレイ。妻のフレンチーは元ストリップダンサー。レイは貧しい暮らしから抜け出して成功する夢を捨てきれないでいる。

レイのキャラクターは、まさにウディ・アレン自身が話していた彼の実像を連想させる。学もなく、ランニング姿でビールを飲みながら、大好きな野球をTV観戦してる。自分ではキレ者のつもりで、刑務所で"BRAIN"と呼ばれていたのを真に受けているけど、実際は皮肉でそう呼ばれていただけだ。それにレイが企んでいる計画のために集まった仲間もお馬鹿なヤツばかり。それでも彼らは人生の一発逆転を信じている。

レイが企んでる計画とは、ある物件の地下に抜け穴をつくり、銀行の金庫から現金を盗み出すこと。その抜け穴から富が生まれ、自分たちの夢が実現すると信じている。そして抜け穴づくりをカモフラージュするために、フレンチーはその物件でクッキー屋を始める。表向きはクッキー屋、その裏側では抜け穴づくり。レイの計画はドタバタと進んでいく。

さすがレイは"BRAIN"と呼ばれるだけあって、計画は最初から失敗続き。ゲラゲラと笑わせてくれる。ところが、苦労して掘った抜け穴ではなく、思わぬところから富が湧き出てくる。フレンチーのクッキーが街で大評判になってしまったのだ。
フレンチーのクッキーをフランチャイズ展開することで、彼らは大きな富を得る。レイとフレンチーの生活は、いかにも成金臭くなってしまって笑わせてくれる。そこからは、裕福で知的な社交界を皮肉りながら、夫婦の絆の危機と再生が描かれている。

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面白かったのは、ウディ・アレンはつくづく自分の根っこ(ダウンタウン)に拘ってるなっていうこと。自分はそこから抜け出して、アッパーな世界に転がり込んだはずなのに、居心地が悪いから周囲には毒を振り撒く。でもその毒はユーモアで包まれているから、ついつい笑ってしまうんだけど。豊かで知的な世界と貧しく粗野な世界。その相反する世界の間を、彼は行き来しようとしている。

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2005年08月02日

奇跡を生み出す装置の中で自分を晒す男

昨晩、NHK-BSで放送されていた「ウディ・アレン 映画と人生」を観た。アメリカのTV向けに制作された、ウディ・アレン本人に対するインタビュー番組。

woody_allen.jpg面白いと思えたのは、彼は子供の頃、とても手品に惹かれていたということ。手品そのものや、使われる道具に魅力を感じていたらしい。そこには現実を超えた、なにか不思議な力が宿っているように思えたそうだ。この発言を聞きながら、思わずうんうんと大きく頷いてしまった。
ウディ・アレンはマジック、クストリッツァは遊牧民の音楽、フェリーニはサーカス。この人達は、それぞれ違うものなんだけどどこかしら繋がりのあるものに惹かれながら、軌跡を生み出す映画の世界へと辿り着いたんだな。なんて想いを巡らせてしまった。

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ぼくは若い頃、なんとなくウディ・アレンを遠ざけていた。興味が無いこともなかったんだけど、「ウディ・アレンが好き」っていうのがなんかヤで。あるでしょう、そういうところ。でもそれが4年前に変わってしまった。その年、NHK-BSでウディ・アレンの特集をやっていて、たまたまある作品を観てみたら、誤解が解けたというか、彼と和解することができて、すっかり意気投合したのだった。一方的にだけど。
あの頃も仕事しないでしばらくブラブラしていたので、早速ビデオをレンタルし、ほとんどの作品を一気に観た。それ以降、劇場公開の際には必ず足を運ぶようにしている。

インタビューの中で、彼は自分のことをインテリではないと言っていた。そう思われるんだけど、それは誤解だと。自分は下町育ちで教育も不十分、ランニング姿でビール飲みながらTVで野球観戦するような男だと語っていた。まあ半分はそうなんだろうな。

そういう彼自身が作品に登場することには賛否があるようだけど、ぼくは断然出演して欲しい派だ。彼が演じるキャラクターには、当然だけど彼自身の多くが投影されていると思う。彼は自分が創造する作品の中で、ずいぶんと長い間、それもコンスタントに自分自身を晒し続けている。そこがぼくには魅力的に映る。

ぼくは何故か晒し者に惹かれてしまう。ぼく自身の中に、晒し者になりたい願望が潜んでいるようだ。20年前、ぼくはビニ本(ビニールでパックされたエロ本)の男モデルになると宣言してた。まあ当然のことながら、実際はならないんだけど。そしてここ数年は、密かに道玄坂のサンドイッチマンに惹かれている。
4年前に付き合ってた女性に、「1日中冗談言ってる才能があるんだったら、それを活かす仕事があるといいんだけどねえ」なんて言われてたのを思い出す。子供の頃は、クラスでやる劇の企画や脚本なんかをやってたんだった。まあそういうことはどうでもいいか。

あの当時、NYの映像作家と親交を深めてたら、NYの高層ビルが崩れ落ちたんだった。あの年って、世界も自分もどっか変わっちゃったんだろうな。
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2005年07月24日

「スカーフェイス」 闇の力に翻弄された男

ブライアン・デ・パルマ監督の「スカーフェイス」をTV鑑賞。

1980年5月、キューバのカストロ議長はマリエル港の封鎖を解き
アメリカに家族のいるキューバ人の出国を許した
アメリカから迎えに駆けつけた船は3,000隻
だが船には目当ての出国者のほかに刑務所で積み込まれたものもあった
フロリダに着いた避難民は125,000、25,000は犯罪歴を持っていた


scarface.jpgアントニオ・モンタナも、犯罪歴を持った難民のひとりだった。入国後、彼は難民収容施設に収容されるが、収容施設の中で得た"仕事"のおかげでグリーン・カードを手に入れる。そして娑婆に出たアントニオは、弟分のマニーと共に次々に危険な"仕事"をこなしながら、フロリダのマフィア界の中に自分の居場所を見つけていく。

悪党の国とされているキューバから排除され、流れ着いた正義の国アメリカの中では社会の底辺に押し込まれてしまう。そんなアントニオを受け入れ、チャンスを与えてくれたのは悪党たちが蠢くマフィアの世界だった。キューバン・レストランの皿洗いか悪党か。アントニオは成功を求めて悪党の道を突き進む。そして悪党の世界の闇の中から、多くのものを奪い取ることに成功するのだった。

"THE WORLD IS YOURS."

*****

作品自体はなんというか、デ・パルマらしいテイスト。アル・パチーノの鬼気迫る演技が、この作品のレベルをぐっと引き上げているんだと思う。もし並みの俳優がアントニオ・モンタナを演じてたら、この作品はとてもチープなものに成り果てたんじゃないかって気がする。
アル・パチーノ自身も、シチリア移民の子供として貧しい環境で生まれ育った。彼は演技を超えたなにかを、アントニオのキャラクターの中に投影させていたのかもしれない。そんなことを考えた。

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