『THE LIFE AQUATIC
STUDIO SESSHIONS FEATURING
SEU JORGE』『ライフ・アクアティック』(
過去記事)が今年のベスト・ムービー最有力候補であることは間違いない。やや意固地気味ではあるけれども、ぼくはそう確信しているのだ。海中でゆらゆらと揺れるオーウェン・ウィルソンのバックショットなどは、今でも鮮明な映像としてぼくの脳裏に焼きついている。ほかにもいくつもの素晴らしい映画的ショットがあのゆるいコメディの中には散りばめられていた。
”チーム・ズィスー”のひとりとして、『ライフ・アクアティック』に出演したセウ・ジョルジ。彼がアコースティック・ギターを爪弾きながらデヴィッド・ボウイの曲を歌う姿はあの作品の大切なアクセントとなっていて、その歌声は心に響くものだった。
このアルバムは、セウ・ジョルジによるD.ボウイのカバー集となっている。アコースティック・ギターの旋律に彼の歌声がのせられているだけの、とてもシンプルな音楽がこのCDには収められている。ここで採用されているボウイの曲は、60年代から70年代初頭までの”あの頃”のものばかり。セウ・ジョルジの歌声が、当時のボウイ作品にこめられているある心情をすくいとり、剥きだしにしているような気がする。
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ブラジル音楽の底には”サウダージ”という情感が流れている、とよくいわれる。サウダージとはある種の”郷愁”を意味するポルトガル語で、この言葉に対応する日本語はないとされている。だから日本人には理解しづらい感情なのだといわれることもあるのだけど、たとえ対応する言葉がないにしても、日本人はサウダージを感じ取ることができるとぼくは考えている。
サウダージとは何か、ということを自分なりに考えてみると、それは”失われたアフリカ”に対する郷愁ではないか、という結論に辿り着いた。
過去、ブラジルはアフリカで暮らす多くの人々を連行し、彼らを奴隷として酷使した。その規模は世界最大だともいわれている。ブラジルには”アフリカ”を奪われた人々の重い歴史が横たわっているのだ。かつて奴隷たちが抱いた想いは、今もブラジル文化の奥底に漂っているのではないだろうか。
そして、もうひとつの郷愁。それはブラジル先住民たちが寄せる失われた故郷への想いだ。彼らの遠い先祖はアフリカ大陸を後にして、ユーラシア大陸からベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸へと辿り着いた。
ベーリング海峡の手前で止まった人々の一部は、ぼくが暮らすこの列島に流れ込んで縄文人となったのだけど、その海峡を渡った縄文の兄弟たちは、アメリカ大陸を南に進んでいく。ある者たちは途中で立ち止まり、ある者はさらに南へと向かった。そして最も南へ下った人々の子孫たちが彼の地の先住民となったのだ。
だから、ラテン・アメリカの先住民たちは自らのルーツに対して何かしらの郷愁を抱いていたのではないだろうか。ということは、彼らもまた心の中のアフリカを奪われた人々であったといえるのかもしれない。アフリカ大陸を去った彼らの遠い先祖は、長い長い旅の果てにラテンの大地に辿り着いたのだから。
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アフリカを奪われたふたつの民族がブラジルで再会し、混じり合った。その混じり合いの中で育まれたのが”サウダージ”という情感なのではないだろうか。そう妄想すると、この情感がとても複雑な成り立ちをしているということが理解できる。
人類のルーツを辿るとアフリカに行き着く。だから、ぼくの心の中にもアフリカがあるのだと思う。再会の列島(
過去記事)の上で生きるぼくの中にもサウダージはあるのだ。このアルバムを聴きながら湧きでてくる情感は、ブラジルを経由しながら確かにアフリカへと繋がっている。
そして”失われたアフリカ”への郷愁は、『ライフ・アクアティック』に漂う喪失感とも重なっている。スティーヴ・ズィスーとその仲間たちが海へと向かい、獰猛なジャガー・シャークを追い回すのは、心の中の”失われたアフリカ”を埋め合わせるためなのかもしれない。
posted by Ken-U at 17:37|
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