2010年09月05日

「民藝とは何か」 その余白は残されているか、民藝の未来とは

柳宗悦著 『民藝とは何か』 (講談社学術文庫)

民藝とは民衆が日々用いる工藝品との義です。(p.21)

yanagi_muneyoshi_mingei.jpgあるきっかけから、「民藝」という言葉の意味を理解したくなり、本書を手にした。

民藝品とは、民衆が日用づかいするために量産される工藝品のことで、本書ではそれが貴族的な工藝品(作家による作品群)との対比の中で語られているのだけれど、かといって、それは市場に溢れている工業製品とも異なり、民藝品は用のため、工業製品は利のために生産されるという性格の違いがあって、柳氏は、機械化され、濫造される製品群を雑器と呼び分けている。

そう考えると、今、市場を眺めたり、自分の、周囲の日常を見まわしてみたときに、「民藝」に位置する品々はほぼ皆無で、雑器ばかりが目立つ。民藝らしきもの、たとえば、musuburiの生地、10年1着の衣服などは手工藝であり、限りなく一点ものに近くて量産品ではない。あるいは、いわゆるセレクトショップの棚にみえるそれらしき品々も、こじんまりとした作家物か、いわゆる途上国の土産物的工藝品であり、本書で語られるような、民衆のための、普段づかいの、用のものではない。いまや民衆は、日用品を100円ショップやスーパーマーケットなど、廉価を売りにした商店群、あるいはネットで買い漁るのであり、あとはせいぜい無印であるとか、どちらにしても雑器に行き当たるしかないのだ。

とはいえ、日常の中につつましい美しさを求める心は、今も人々の胸の内に残されている。ただ、それは市場に溢れかえっている商品群というより、カフェやギャラリーなどで開かれる小さな展示会やワークショップなど、参加可能な空間で生み出される品々のような、量産品ではない、極私的なモノの中に見いだされつつあるのかもしれない。
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2010年04月25日

「陰翳礼讃」 闇の中、浮かび上がるもの

谷崎潤一郎著 『陰翳礼讃』 (中公文庫)

暗闇とともに生きる。

in_praise_of_shadows.jpg日本人の暮らしと暗闇について、谷崎自身の考えとともに、当時の日本の情景、背景などを感じとることができて、いろいろな発見があり、楽しく読み進めることができた。また、下ネタに始まり、下ネタで結ばれるところなども本書の魅力を高めていると思う。

暗闇とともに生きる。たしかに、幼い頃は、まだ暮らしのそばに暗闇が残っていた。例えばトイレに行くときに、薄暗い縁側を通り抜け、小さな電球の明かりの下で用を足さねばならず、だから居間を出る前に相当の覚悟が必要で、その時の葛藤がいまも思い出される。毎回、命懸けであった。実際、庭にうずくまっている野良猫の眼がきらりと光ったり、蜥蜴や小虫が不意に現れたり、それらを振り切って扉を開けたら、古びたトイレ(というか便所という方が実際に近い)の壁に大きなアシダカグモが張り付いて腰を抜かしそうになったり、恐ろしい出来事がいくつもあった。だから、さらに時代をさかのぼると、夜、暗闇はさらに支配的であったのだろうなあ、などと思いつつ、想像を膨らませながら本書を読み進めた。

伝統的な生地の染めについて、あの少しかすんだトーンは闇の中でこそ際立つのだと発見した。親しくしている若手デザイナーが、彼は90年代のアントワープ系に大きく影響されているのだけれど、一緒に呑んだときに、伝統的な染めの方法については否定的で、夜の闇は芯から暗いんですよ、黒ですよ、と力説していて、その時はなるほどそうかと思ったりもしたのだけれど、しかし黒の生地が際立つのは、現代社会から闇が排除されていているからで、闇とともに生きる時代にあっては、そうした黒の魅力は闇に飲み込まれて発揮されず、むしろ少しかすれた墨色、灰色などの方が闇から浮かび上がる感じがして、その色の奥行きが人々の心を惹きつけたとしても不思議はない。やはりいろいろな意味で、黒は近・現代の色なのだ。

谷崎によると、当時、夜行列車で東京から大阪まで、およそ12時間かかったという。かつての東京〜大阪は、今でいうと、東京〜パリ、ミラノに相当する。なんて発見もあった。
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2010年03月23日

「単純な脳、複雑な「私」」 散在する心、他者を通して浮かび上がる私

池谷裕二著 『単純な脳、複雑な「私」』 (朝日出版社)

私とは何者か。私は自由なのか。心はなぜ生まれるのか。それはどこにあるのか。

brain01.jpg久し振りの脳科学。これまでたった二冊の本を読み(過去記事1過去記事2)、それでなんとなく分かったつもりでいたのだけれど、しかし実際に本書を読み始めると、また目から鱗、新たな発見の連続だった。人間の「心」の在り方と脳のつながりはまだなんとなくわかるとして、そこからさらに、人間に真の自由はあるか、とか、幽体離脱の正体、あるいは人間の織り成す組織の機能について、また、「ゆらぎ」や「ノイズ」、「使い回し」が個人、あるいは社会に創造性をもたらすことについて、講義はしばしば科学の枠を逸脱しながら、思想、宗教の領域へ足を踏み外し、思考の原野を巡る。

生命の営みの中で、使い回し、ゆらぎ、ノイズが重要な役割を担っている、ということが科学的に語られていて、それが心強く感じられた。で、使い回しといえば、くくのち学舎で憶えたブリコラージュという言葉が思い浮かび、さらに、単純な機能を持つ組織が集まり、繋がることで予期せぬ複雑な運動を始めるという話からはアーセナルやバルセロナのサッカーのことが想起されて、創造的であることと、単純なことの積み重ね、繋ぎあわせることとの関連であるとか、いろいろなことが湧いてきて、思考、記憶の断片が次々に連なっていった。

人生において大切なことは考えずに決断する。という私のモットーは、その正当性が脳科学の視点から証明されつつある。が、注意しなければならないのは、直感はあくまでも学習、経験の賜物であり、外部からなにか超自然的な力によってもたらされるものではないということで、だからこれからも自分を閉ざすことなく、恐れずに、様々な事柄に触れて、経験を積み増し、おのれの勘の精度を上げていけたらなと思う。
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2010年01月30日

「ファッションから名画を読む」 モードの変遷、その目撃者たち

深井晃子著 『ファッションから名画を読む』 (PHP新書)

芸術家はモードを愛した。

mode_art.jpg時代とともに変化するモードの歴史が、その時々の名画とあわせて語られている。扱われる絵画は主にルネサンス期以降のもので、中でも、印象派の画家たちとモードの繋がり、女性の身体を拘束し続けるコルセットの在り方などに重きが置かれている。

政治や産業の遷り変わりともに、衣服の素材、かたちが変化していく。たとえば、欧州の貴族階級に身を置く女性たちは、産業革命による綿織物の普及とともに、絹素材で仕立てられた複雑な構造を持つ衣服ばかりでなく、綿をつかった簡素なドレスを身につけるようになり(素材だけではなく、スタイルそのものが簡素な英国風となる)、あるいは鉄の大量生産によりコルセットが普及すると、衣服だけではなく、身体そのものが本来の輪郭から大きく引き離され、歪められてしまう。こうした衣服(身体の輪郭)の変遷は、かつて絵画の主流であった肖像画から多くを読み取ることができる。

十九世紀以降、産業構造の変化により新富裕層と中産階級が生み出されると、それぞれの市場に向けてオートクチュール、プレタポルテが創出され、又、ヴァカンスの普及など、女性のライフスタイルに多様なヴァリエーションがみられるようになり、モード界はかつてないほどの華やぎをみせる。さらに二十世紀には、ポール・ポワレが先陣を切り、コルセットから開放された女性の身体をきらびやかな衣服で包み、続くココ・シャネルは機能性を重視するアクティヴな衣服を提案して、社会進出を目指す女性たちから熱狂的な支持を受ける。印象派の画家たち、そしてその後に続く抽象画家たちはその変遷の目撃者であった。

ほかにも、染料の開発・普及とモード、絵画の発展の関係であるとか、東洋趣味とジュエリー、パラソルの関係など、先日の『阿修羅のジュエリー』(過去記事)にも繋がる文章がみられ、また読了後に観た『ラグジュアリー展』のよい予習にもなった。やはり、モードは社会と個人の関係を映す鏡なのだと思う。
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2009年11月22日

「汚穢と禁忌」 穢れもの、この世の肥しとして

メアリ・ダグラス著 『汚穢と禁忌』 (ちくま学芸文庫)

原題 『Purity and Danger』

穢れとは、この世界の秩序を乱すノイズである。

purity_and_danger.jpg本書のタイトルから、穢れに対する人間の心の動き、その変遷などが語られているのではないかと勝手に想像しながら読み進めたのだけれど、実際の内容は、『汚穢と禁忌』というタイトルから受ける印象とは少しずれがあるように思えた。ではどう違っているのかというと、細かな事柄は忘れてしまったけれど、本書では、人間の心の深層というより、どちらかというと社会の表層における穢れの扱いのことが主に語られていて、とくにその視座、つまり著者の立ち位置が予測とは違っていたところからそのずれを感じたのだと思う。

中沢新一さんの解説にあるように、おそらく、本書は英国保守主義の立場からこの世界を眺めている。その視座から、秩序ある清浄な世界を構築しようとすればそこから排除される不浄のもの(=異例なるもの)が必ず発生すること、その不浄のものをこの世界から完全に排除することは現実的でないこと、又、世界の未来のためには不浄のものを排除してはならず、むしろそれを「堆肥」として辺境領域に保持すべきであることなどを語っているのだ。だから読み進めていてずれを感じてしまうし、逆にいえば、英国保守主義の懐の深さを感じることができる。

以下、解説から少しの引用をする。

*****

「清らか」であることは、矛盾のない体系の中に経験を押し込めようとする試みであるが、手に負えない経験に直面しては、かならずや矛盾に陥らざるをえないだろうし、そのことを理解するのが、人間の成熟を意味する。(p.430)

ひと言で言えば、メアリー・ダグラスは、サッチャーのように失業者を切り捨てたりはしない女性なのだ。彼女は知恵ある英国の母親として、「異例なるもの」という文化体系にとっての失業者に雇用を与え、彼らの労働を堆肥と化すことによって、文化の土壌に豊かさをもたらそうと主張している。そのためわたしはときどき、彼女のけがれ論は、経済学におけるケインズ理論の人類学版なのではないか、などと思うことすらある。(p.431)

*****

「清らか」であることに偏執する社会。この未来なき世界に身を置きながら本書を読み、いろいろなことを想った。
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2009年07月19日

「瀕死の双六問屋」 僕もそのうち死ぬだろう

忌野清志郎著 『瀕死の双六問屋』 (小学館文庫)

この時、彼はすでに瀕死の状態であった。

dying_kiyoshiro.jpg五月二日、彼が亡くなって以降、うしろめたい気持ちをずっとひきずっている。振り返ると、忌野清志郎とはずっと縁が薄かった気がする。きっとタイミングが悪かったのだろう。RCサクセションがブレイクしたときは僕はまだ中学生で、学内のヤンキーたちが矢沢永吉やクールスなどと並べて彼らを崇めていたという背景もあり、ヤンキー文化とは無縁であった僕はRCを当然の如くスルー、その後、大学生になってやっと『Please』と『Blue』、そして少しとんで『RAZOR SHARP』、『COVERS』を聴いたのだった。しかも、どれも自腹で買ったのではなく他人から借りて聴いたのだ。しかもこの頃、RCはすでにピークを過ぎていて、ライヴ活動もとくになかったと記憶している。当時、ガイタレが来ない地方都市で暮らしていた僕は、ストリートスライダース、泉谷しげる(当時のバックバンドは豪華だった)、憂歌団、シーナ・アンド・ロケッツ、ローザルクセンブルク、それに駆け出しのエレファントカシマシなど、日本人ミュージシャンのいろいろなライヴを観ていたのだけれど、結局、清志郎の姿をステージで観る機会には恵まれなかった。そしてその後も、これからも、彼のパフォーマンスをみる機会は永久にないのだ。

そうした疎遠の中、リアルタイムで唯一の接点となったのがこの『瀕死の双六問屋』だった。当時、僕はこの連載を楽しみにしていたのだ。そして深く共鳴していた。音楽を聴くように彼の文章を読み、それから自分の人生を少しだけ狂わせたのだ。2000年には二度目の転職をして、その翌年には先を決める間もなくまた退職した。阿呆な上層部と揉めてしまったのだ。会社とは、その上層とは、人をかくも阿呆にしてしまうものなのかと呆れてものもいえなかった。そうこうしてぶらぶらしているうちに、歌舞伎町の雑居ビルで火災、その直後、ニューヨークで超高層ビルの崩落、そしてアフガニスタン紛争の勃発など、無数の罪無き人々が続々と死に、ああ、こうしてすべては終わりに向かうのだなあ、などと思いながらうちに籠もった。もうなにもしたくなかったし、関わりたくなかった。

以来、いつか読み返したいと思っていたのだけれど、彼の死がそのきっかけになるとは思いもよらなかった。芸術について受け手ができることといえば、その作品に直接ふれて心揺らすこと、その想いを誰かに伝えること、そして自腹のカネをなんらかのかたちでそのつくり手にまわすことだと思う。ではその受け手として、僕は忌野清志郎になにをしてきたのだろう。本作の連載中に活動していたラフィータフィーの音を初めて聴いたのは彼の死後であった。そしてその音に愕然とした。予想よりずっとかっこよかったのだ。当時、瀕死状態であったにもかかわらず、彼は至上のバンドサウンドを編み出していたのだ。しかもそれだけではない。その前のタイマーズも、おまけにアルカイダーズ、セムシーズですら締まったよいサウンドを響かせていたのだ。彼の死後、ネット上でその映像を漁りつくすように観て、その素晴らしさがようやくわかってきた。後悔さきに立たず。

忌野清志郎は、当時からずっと瀕死状態だった。ただ、このときの「瀕死状態」は、言い換えれば「絶望状態」だったといえる。腕に自信があり、実際、いい音を出していたにもかかわらず、上層部のわけのわからん圧力でその仕事が握り潰され、世間はその在り様を見て見ぬふり、自分はこの腐れきった世界相手にどうやって才能を発揮すればいいのだ、と彼は深く失望していたに違いない。本書を読み返していてもその絶望がひしひしと伝わってくる。まだ前半は文末に「もうしばらく君のそばにいる」などと優しい言葉が添えられているのだけれど、後半に入るとそのフレーズも消えうせ、ただ荒涼とした心象風景が綴られながら文章が結ばれていくのだ。ブルース。哀歌である。そしてこの『瀕死の双六問屋』以降の連載では、さらに彼の態度が投げやりに変わっていく。つまり、この世は清志郎を黙殺し続け、長い長い年月をかけてこの五月にその目的を達成したのである。この世界が忌野清志郎を殺したのだ。少なくとも、僕にはその実感がある。

最後の町田康による解説、清志郎本人によるあとがきが心に沁みた。僕は僕なりの姿勢でこの世界と向き合うしかないのだろう。
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2009年07月11日

「阿修羅のジュエリー」 きらきらしさの魅力、生命の華

鶴岡真弓著 『阿修羅のジュエリー』(理論社)

阿修羅がまとうジュエリーに着目し、時空を超えて、シルクロードを巡る。

ashura02.jpg予想以上に発見があり、読み進めながらわくわくした。人はなぜジュエリーに惹かれ、それを身につけたがるのだろう。本書にあるように、光を生命の象徴と捉えてみると、人は、太古の昔から、ジュエリーのきらきらしさの中に生命の力を重ね合わせ、それをまとうことによって自らの生命力そのものを増進できると信じてきたのだと考えられる。たしかに、いわれてみると、光をまとうことは生命力を高めることに近しい行為であるような気がしてくる。だから、古代から現代に至るまでの長い間、ジュエリーはその価値を保ち、高め続けることができたのだろう。

太陽神である阿修羅の起源ペルシャ(過去記事)、あるいは中央アジアを源として、その東西に伸びる経路を辿りジュエリーは往来した。西方からみると、東方は富が湧き出すきらきらしい異界であり、彼らはその輝きに魅了され、狂い、欲望のままその支配に乗り出そうとする。「支配とは、魅了されること」(p.216)という鶴岡さんの言葉は女性ならではの視点から発せられているのだと思うけれど、言われてみると、なるほどその通りだと素直に納得できる。

また、本書は、ジュエリーに限らず阿修羅の装飾の魅力を教えてくれる。読み進めていると、彼(?)が身につけるほかのアイテムもたいへん興味深く思えてくるのだ。とくに、条帛のドレープづかいや、裙にほどこされたオリエンタルな花文様などは見事に今秋のトレンドと重なっていて驚かされるのだけれど、その花文様を「地上の星」と見立て、それは「天上の花」である星(きらきらしいジュエリー)と呼応しあい、生命の光を絶やさぬようきらきらと輝き続けるのだという指摘には魅了された。

プリミティブに向かおうとするモードの流れと阿修羅像の人気の間には、人間の無意識を背景として、なにかしら摩訶不思議な繋がりがあるように思える。実際、私が見た阿修羅像は、最新のコスチュームに身を包み、スポットライトを浴びて、大勢の人たちに取り囲まれ、あたかもロックスターの如くであった。あれほど多くの人々が阿修羅像に魅了され、あるいは、阿修羅のようなコスチュームを身にまといたいと欲望するのはいったいなぜなのだろう。私たちは、そこで何を発見し、見直そうとしているのだろうか。
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2009年06月14日

「言語にとって美とはなにか1」 編み物としての言語、その価値、美

吉本隆明著 『定本 言語にとって美とはなにか1』 (角川ソフィア文庫)

言語は自己表出と指示表出で編まれた織物であると考えられる。

gengo01.jpg言語の自己表出性は、言葉の流れを生み出すためにつかわれる品詞、例えば助詞や感嘆詞の中に強く含まれている。また、この表出は言葉が生み出す価値と深い関わりを持つ。というか、吉本氏がいうように、はじめて海岸に迷い出た狩猟人が眼前に広がる青い海原をみて思わず「う」と呟いたのが「海(うみ)」という言葉の始まりであるとしたら、つまり自己表出が言語の発生そのものに深く関わっていたとするならば、この自己表出という言語要素は品詞を問わず言葉のあらゆる部分に含まれていると考えられ、言葉の並び、流れ、捩れ、うねりなどにより生みだされる言語の価値(美)に大きな影響を与えていると考えられるだろう。

年初、ETV特集の「吉本隆明 語る」を録画予約し損じ、あわててTVを点けたらちょうど吉本氏が自己表出と指示表出の話をしているところだった。その語りが印象的で、それに前半部分の話を聞き逃した悔しさもあって、その後、いろいろ探っているうちに本書にたどり着いた。が、自分には少し難しかった。そもそも、文学の素養が足りないのだ。でも、なんとなく感覚的につかめる部分もあり、たまには背伸びをして読書するのも悪くはないと自分に言い聞かせながら長い時間をかけてゆっくりと読み進めた。先日、横光利一を読んだのはそのETV特集の影響で、近いうちに彼の『機械』も読みたいと考えている。あと、久しぶりに太宰治も読みたいと思った。
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2009年05月04日

「犬の記憶」 揺れる自我、複写を超えて生きる

森山大道著 『犬の記憶』 (河出文庫)

その半生と、写真について。

memories_of_dog.jpg本書も、旅の途中で読むつもりで購入した。「犬の記憶」と「僕の写真記」、ふたつのパートで構成される。

「犬の記憶」の序盤は森山大道の生い立ちに関する文章で、大作家が抱える私的背景を興味深く読んだ。彼は、双子の弟として生まれ、しかし兄がすぐに亡くなってしまったため自身を死んだ兄のコピィ、さらには森山家のリコピィと捉えてその後の人生を歩む。さらに、親の仕事の都合、あるいは自身の健康の問題から家を転々としたり、親元を離れて暮らしたりと安定とは無縁の環境の中で子供時代を送る。こうした境遇はとくに自我が揺れる思春期に大きな影響を与え、彼は野良犬の如く夜の街を徘徊するようになる。その後、放蕩する犬が如何にして写真家に成り上がったか、が後半部分の「僕の写真記」で振り返られている。

中盤の写真論には冗長なところがあって少しだれたけれど、序盤と後半部分は面白く読むことができた。思いつきで写真の世界に飛び込み、その後とんとん拍子に階段を駆け上がっていく森山大道の姿には何故か我が事のようにわくわくさせられた。たぶん、時代もよかったのだろう。でももちろんそれだけではないのだ。深い想い入れと情熱、それと善き人々との繋がりが運命の網をかたちづくり、彼の存在をマエストロの段階にまで引き上げていったのだろう。成功する人は皆そうしたネットワークを持っているんだよなあ、なんて思っているうちにまた着陸態勢、シートベルトをぎゅっと締めるとみるみる高度が下がっていく。
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2009年02月21日

「謎の会社、世界を変える」

須田将啓、田中禎人著 『謎の会社、世界を変える。―エニグモの挑戦』 (ミシマ社)

株式会社エニグモの創業記。

enigmo.jpg正直、読み物としては少し冗長に感じるところもあったけれど、事業立ち上げの思い出話を創業者自身が回想する、という本書の性格上、それはしょうがないと思う。その冗長性も含め、面白く読むことができた。とくに前半、彼らがBuyMaを立ち上げるまでの過程にはわくわくさせられた。世界のそこにしかない商品と、細やかな消費者のニーズを1対1でマッチングさせるためのサービス、というコンセプトには大いに共鳴できる。ただし、そのバイマの実際が当初のコンセプトとやや離れてしまっていることと、エニグモの事業自体が「モノ」から離れ、経営陣の得意分野である「広告」へとシフトしている点は残念に思える。すでに外部から投資を受けていたり、株式公開の計画があるという背景を考えるとそれもやむを得ないのかもしれないけれど、帯にもあるように、ソニー、ホンダと比較されるためにはやはりネット内部では完結し得ない実業的広がりが必要だと思う。

この本も友人から借りた。本書と、年初に知ったあるイベントが刺激になり、モノとの新しい関わり、自分のこれからについていろいろと考えている。
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2009年02月11日

「俺はまだ本気出してないだけ」 肥大化する自我、その脆弱性

青野春秋著 『俺はまだ本気出してないだけ(1-2巻)』 (IKKI COMICS)

そろそろ本気を出してやる。

ore_wa_mada.jpg四十路を迎えた「俺」は、駄目な自分に向き合えず、また会社を辞め、そろそろ本気を出そうと思い立って、漫画家を目指す。「俺」は奮闘する。

そんな「俺」の奮闘ぶりが滑稽に描かれていく。でも結局のところ、等身大の自分自身に向き合えない彼は、いつまでたっても駄目人間から抜け出すことができない。彼は一向に結果を出せず、悶々とのたうちまわり続けるのである。そしてそのあげく、小手先でこねくり回して自分の作品をますます劣化させていく。「俺」は、厳しい現実から目をそらそうともがく。ゲームやら、近所の子供たちとの野球遊びやらに興じる。いつまでも逃げ続ける。

この腑抜けた中年男の周囲にいろいろな人たちが配置されていて、腑抜けとの関係の中でこの作品に奥行きを与えている。父親、娘、バイト先で知り合った青年など、彼らはみなどこかしら味わいがあり、読み進めていて、それぞれいろんなものを抱えて暮らしているんだよなあ、なんてしみじみした。彼らが見守る中、あの腑抜けはこれからどうしていくのだろう。転落はまだ続くのだろうか。

漫画を読むのは約30年ぶり。面白いよ、といって友人が貸してくれた。で、借りたその晩に2冊とも読み終えてしまった。たしかに面白かったけれど、なぜだかほろ苦い余韻が残った。
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2009年01月25日

「三つのエコロジー」 自滅的思考からの脱却

フェリックス・ガタリ著 『三つのエコロジー』 (平凡社ライブラリー)

環境のエコロジー、社会のエコロジー、精神のエコロジー。

les_trois_ecologies.jpgここでガタリ氏は、エコロジーという思想を環境保護運動の枠の中に閉じ籠めるのではなく、これを人間社会(社会のエコロジー)や個人(精神のエコロジー)の領域にまで導き入れ、彼自身がエコゾフィー(ecologie + philosophie)と呼ぶ総合的思想として捉え直そうとしている。

『したがって、実践的かつ思索的、倫理‐政治的かつ審美的な新タイプのエコゾフィーこそが、旧来の宗教的、政治的、連合的などなどのアンガージュマンの形態に取ってかわらねばならないと私には思われる。それは内面への自閉にむかうということでもなければ、古いタイプの「活動家主義」の単なる刷新でもない。むしろ、分析的で主観生産的な諸装置と諸審級を設置することをめざす多面性をもった運動が大切なのである。個人的・集団的な主観性が、自己同一性に囲い込まれ、「自我化」され、個人的に仕切られた境界区域からいたるところではみ出し、社会体の方向だけでなく、機械領域、科学技術的な参照の場、美的世界、さらには時間や身体や性などの新たな「前‐個人的」理解の方向へと、全方位的にみずからをひらいていくようにならなければならない。再特異化の主観性が欲望や苦痛や死といったようなすがたをまとった有限性との遭遇を真正面からうけとめることができるようにならなければならない』(p.70-71)

エコロジーを謳う商品が大量に生産され、消費され、それが塵として灰になり果て、あるいは地中にそのまま埋め立てられて腐乱していく。そうした過程を眺め、想像しているうちに、エコロジーという価値観そのものが塵化して廃棄されているような気がしてきて、絶望的な心持ちになる。が、それではいけないのだ。本書に触れ、私は私にできうる限りのことをしようと思った。それはやはり環境保護に限ったことではなく、どちらかというと、再特異化に向かう意思というか覚悟といえばいいのか、とにかく私は、反エコロジカルな力に飲み込まれてその運動に同化し、平坦に均されることをこれからも拒否し続けたいと思う。

『生産のための生産、成長率を上げようという強迫観念は、資本主義市場であれ社会主義経済であれ、とてつもない不条理にいたりつくのです。人間活動の唯一受け入れ可能な合目的性は、世界との関係を持続的なやり方でおのずから豊かにしていく主観性の生産にあります。主観性の生産装置は、巨大都市のレヴェルでも、詩人のことば遊びのレヴェルでも、ひとしく存在しうるものです。このような主観性の生産の奥深いバネ−存在を自己創造していく意味の切断―を把握させていくためには、今日、私たちにとって、おそらく、経済学や人文諸科学を寄せ集めたもの以上に詩から教えられるところの方が多いのではないかと思われます』(p.100)

日常の中の違和感をもっと大切にしたい。
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