2008年11月15日

「耳そぎ饅頭」 偏屈の彼方

町田康著 『耳そぎ饅頭』 (講談社文庫)

わたしをがんじがらめにするこの偏屈の彼方には何があるのか。そこに未来はあるのだろうか。

mimisogi01.jpg偏屈な男が、だからうだつのあがらんパンク歌手なんぞに成りさがってしまうのだ、とおのれの不遇を呪い、その閉塞から抜け出すべく七転八倒する。それまで遠ざけてきた、カラオケ、競馬、ミュージカル鑑賞、クラブ遊び、温泉、グルメ、さらにはディズニーランドにまで足を運び、浮き世の娯楽にまみれながら、泣き、笑う。その無様がなんとも滑稽に綴られていて、笑えた。

今秋、旅の間に読み進めた。異国の地で、様々な人に会い、あたふたと忙しくしながら、喜んだり、感謝したり、いらついたり、悲哀を感じたりといろいろなことがあり、人生、いろいろなことがあるもんだなあ、などとあたりまえのことを思った。僕の人生も手探りの連続で、七転八倒。傍目にはさぞかし滑稽にみえることだろう。みたいなことを、他人の無様を笑いながらしみじみと思い、ぼんやりと空を眺めた。


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2008年10月19日

「地獄の季節」 言葉との決別、砂漠へ。

ランボオ著 『地獄の季節』 (岩波文庫)

詩人の、文学へ向けた絶縁状。

une_saizon_en_enfer.jpg先日読んだ『チベットのモーツアルト』(過去記事)の最後にランボーに関する文章があり、その内容に触発されてこの本を手にした。

中沢さんの文章のどこに刺激されたのか、残念ながらその内容を細かく思い出すことはできないのだけれど、詩を棄て、砂漠へと向かい、その不毛なる世界(砂漠は資本主義的ユートピアのメタファーであると中沢氏はいう)の只中で商いを続けたランボーの生き様には惹きつけられる。おそらく、僕が住むこの世界からみて、詩の彼方に広がる砂漠の世界は果てしなく遠い。けれど、ランボーが目指した砂の世界は、時空を超え巡り巡って、この世界のどこかしらと繋がり合っているような気がする。実際、文学との決別宣言であるというこの『地獄の季節』を読み進めていても、彼の綴る言葉と、僕の日々の想いが不思議と繋がり合うような気がしてならないのだ。

『だが、こんな馬鹿げた商売をして、蛮人や白痴とばかり附合っていると、日に日に老け込んでいくような気がします。(中略)だから、ここで食える以上、僕はここにいるべきだ、ここにいるべきではないか、静かに暮らせるだけのものが手に入らぬ限りは。ところで、暮らせるだけのものは、決して手に入るまい、僕は静かに生きも死にもしまい、これほど確かなことはありますまい。要するに、回教徒が言う「世の定め」だ。これが人生です。人生は茶番ではない』(p.145-146/訳者後記より、ランボオ書簡からの引用部分)

砂漠の商人であり続けることは、それほど詩的なことではないと思う。ランボーはここで完全に詩を捨て去り、無味乾燥な暮らしの中でただ絶望の日々を送ったのではないだろうか。
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2008年09月27日

「神曲 地獄篇」 詩人、流れる者

ダンテ・アリギエーリ著 『神曲 地獄篇』 (集英社文庫)

詩人は地獄の底へと向かう。

divina_commedia_inferno01.jpg難解な本だった。イタリアの歴史に詳しくなく、ギリシャやローマ神話に関する知識も持ち合わせてないぼくにとって、本書の内容はかなりハードルが高い。下に細かな注釈がついてはいるのだけれど、本文と脚注の間を行ったり来たりしているうちに流れがそがれるのでどうしても意識が散漫になってしまう。だから、中盤以降はあまり脚注を気にせず流れ重視で強引に読み進めたのだけれど、そうすると理解不能な言葉(とくに固有名詞)が頻発するのでそれはそれで作品世界との距離が埋まらず、四苦八苦。地獄を、まさに地獄の気分で味わいつつ前進を続け、どうにか読み終えることができた。

私怨。歴史的な背景がうまくつかめないぼくが本作から強く感じたのは、愛する故郷から追放され流れ者となったダンテの怨みつらみである。彼は、憎き奴らを地獄の底に陥れ、その無様な姿を凝視しつつ、さらに呪いの言葉をかける。まさに地獄の情景。えげつないことこのうえない。がしかし、訳文ではよくわからないのだけれども、このタイトルがそもそも"Commedia"であったことを考えてみても、原文ではこの悲惨な地獄絵図の中にもなにかしらユーモアの要素が散りばめられていたかもしれない。

「果物を求めて行脚する者。ただしそのためには、まず地底に下らねばならぬ。」(p.186)と、地獄の底に辿り着いたダンテとウェルギリウスは続いて煉獄へと向かう。
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2008年02月24日

「放浪記」 流れ去る儚きもの

林芙美子著 『放浪記』 (新潮文庫)

「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」(p.8)

hayashi_fumiko01.jpgこの冒頭の言葉を目にした瞬間、本書に強く惹かれた。というのも、ぼく自身がある種の放浪者であり、かつ流れるものに強く惹かれるという難儀な性質を持つからである。また、成瀬巳喜男の作品群を通じてすでに林芙美子には馴染みがあり(過去記事)、さらに、この部屋のすぐ近くにかつて彼女が暮らしたという長屋の跡が残されている、という縁もある。これはもう、ひとりの放浪者として避けて通るわけにはいかない作品なのである。

本書には、1930年に刊行された『放浪記』、『続放浪記』、それに1949年の『放浪記 第三部』の三篇、つまり世に出されているすべての「放浪記」が収められている。1922年から26年までの間、林芙美子は極貧に喘ぐ不遇の時を過ごしていたのだけれど、当時、国内各所を放浪しつつ書き溜めていた雑記帳があり、そこから抜き出された文章によりこの『放浪記』は編まれた。という背景があるので、本書には、若き日の林芙美子の生々しいというかひりひりとした剥き出しの言葉が刻み込まれている。近代化の波に呑まれ、流され、溺れかけながらも、おのれの胸の奥から湧きあがるあぶくのような言葉にすがるようにして生き残ろうとする彼女の姿勢というか生き様は、読む者の心を打ち、深い共鳴を与える。ぼくは、彼女ほど貧しい暮らしを送った経験はないのだけれど、それでも読み進めながらその言葉に度たび共感を覚え、この世界を生き延びる魂の重みについていろいろなことを考えさせられたのだった。

そしてもうひとつ、本書を通して当時の日本の風俗を垣間見ることができ、その情景がとても興味深く感じられた。大正末期にして、ある意味で今と変わりがないのだ。確かに暮らしぶりそのものは大きく違うのだけれど、それでも街には車や電車も走り、外来語を用いた広告看板が乱立して、そのまわりには電飾がぎらぎらとしている。そんな喧噪の中で、個人の心の在り方と社会のつながり方というか、当時を生きる人々の機微の質のようなものはもうすっかり近代的になっていて、今現在のこの時代となんら変わることがない。ぼくは、自分の祖父が当時として特別にモダンな気質の持ち主ではなかったのかもしれないなと思った。

*****

この部屋のすぐ近くにある長屋。林芙美子が実際にそこで暮らした時期はとても短かったようだ。今では大規模な高級共同住宅がそびえ立つあの寺社の裏手も、当時は緑が鬱蒼と繁るなにもない丘であったらしい。当時、彼女は、その丘をとくに目的もないままふらふらと歩き、池尻まで出て、その通りでぼんやり立ち尽くしたことがあるという。本書には、そんな彼女のありのままの裸の言葉が綿々と書き連ねられているのだけれど、それでも当時の想いすべてがここに晒されているわけではなく、林芙美子本人が付記した文章によると、ここに遺された言葉はあくまでその表層にすぎないという。しかし本書の原本である雑記帳は彼女自身の手により廃棄されているため、この『放浪記』の奥底に隠された彼女の心の闇の部分は永遠に陽の目を浴びることがない。
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2008年01月13日

「エロティシズム」 黙殺される暴力の衝動とは

ジョルジュ・バタイユ著 『エロティシズム』 (ちくま学芸文庫)

そこに近づくことは禁じられている。けれどわたしは、この世の果てに広がるその荒々しい無秩序の世界に想いを馳せる。その禁断の世界は、わたしの胸を締めつけ、そして魅了し、誘惑するのである。

l'erotisme00.jpgたしかに、人間は過剰な暴力を抱えた生き物なのだと思う。しかし社会の高度化を推し進めようとする人間は、その暴力を人間自身から隔離し、外部化したうえで、偽装し、隠蔽するのである。自然界とつながるこの暴力の領域は、わたしが暮らすこの世界の内側には無いものとされている。が、たしかに存在するのである。ただ、それは明確な輪郭を持たないがために言葉で言い表すことができない。それは人間を沈黙の領域へと追いやってしまうのだ。

バタイユは、本書においてそれを「エロティシズム」と呼び、その存在を指し示そうとしている。ただし、言葉によってその禁断の領域に辿り着くことは不可能であるため、彼は直線的にそこへ向かうのではなく、その周辺を繰り返し迂回し、あるいは論理の飛躍によって一気にその核心にせまりながら、エロティシズムというかたちなきものの像を浮き立たせようとする。

『言葉においては私たちは、私たちにとって重要なものを把握することができない。この重要なものは、言葉においては、相互に依存しあう命題のもとに姿が見えなくなってゆく』(p.466)

バタイユのいうエロティシズムとは、あえて乱暴にいえば、死なずして死ぬこと、死のうと願うこと。つまり生の極限で死と交わることであると思う。その極限の地平では、生と死が、光と闇が、苦しみと悦びが溶け合いながらわたしの輪郭を破壊し尽くす。わたしという不連続の存在が連続性の波に飲まれ暗闇の奥底へと沈み、消失する。こうして死はわたしのすべてを奪うのだが、その一方で、わたしを無限の広がりの中に解き放つのだ。だからわたしは、死を畏れていながら死に魅せられてしまうのだろう。

*****

ただし、バタイユの言葉にはやはり古めかしく感じられる部分もある。とくに彼の女性観には差別的なところがあり、その古い価値観を不快に思い、それを理由に本書を遠ざける人もいるのではないかと思う。そこは彼が生きた時代、地域という背景を割り引く必要があるのだけれど、だからといって人間がその核の部分にエロティシズムという暴力の情動を隠し持っているという事実が揺らぐことはないだろう。そこでバタイユを否定するのではなく、乗り越える必要があるのではないだろうか。

ところで、バタイユを乗り越えるといえば、本書を読み進めていて思ったのは、その内容が中沢新一の『カイエ・ソバージュ』(過去記事)と驚くほど重なって感じられたということで、思えばたしかに、あのシリーズの序文のどこかにバタイユ思想の再構成という言葉があったような記憶がある。あのシリーズ5冊は、きっと以下のバタイユの言葉を受けて編まれたのだろう。

『言葉は、禁止と侵犯の戯れから独立して存在しているわけではない。それだから、哲学は、もしも個々の問題の全体を極めつくそうとするならば、禁止と侵犯の歴史的分析から出発して、それら個々の問題を検討し直さねばならない。まさしく起源への批判に立脚した異議申し立てにおいてこそ、哲学は、哲学への侵犯に成り変わり、存在の頂点に到達するのである』(p.470)

*****

この世界は、「重要なもの」を隠蔽したまま膨張を続け、その極限を目指し今も前進を続けている。しかしその張り詰めた世界の表面にはところどころ綻びがあり、その裂け目からこの世界が抱える矛盾が歪んだかたちで噴き出しているような気がする。手遅れになる前に、影と向き合う必要がある。そこに人間の成熟があるのではないかと思う。

関連記事:『図版の一部』(link)
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2007年12月01日

「ワープする宇宙」 曼荼羅的な広がりを持つ宇宙

リサ・ランドール著 『ワープする宇宙』 (NHK出版)

原題: 『WARPED PASSAGES』

わたしたちが知るこの宇宙は、人間の知覚を超える高次元空間の一部分にすぎない。

warped_passages.jpg本書が、数式をつかわず、平易な表現で近代物理学の歴史と現在の先端理論を解説した本であることは確かなのだけれど、それでもその内容が、万有引力や相対性理論、量子力学、さらには超ひも理論やM理論までを網羅しているとなると、素人がそう簡単に理解できるものではない。本書を消化するためには、ノートやホワイトボードにその内容をまとめ、頭の中を整理しつつ、確実に前進する必要があるのだろう。ゲージボゾンやらヒッグス粒子やら、力や場や粒子の定義を消化できないまま前進を続けたせいで、とくに後半は頭の中が混乱してしまい、重度の消化不良に陥ってしまった。

それでも、この宇宙の向こう側には余剰次元が横たわっている。そうでなければ、重力だけがこの宇宙のほかの力に比べて極端に弱い理由を説明することができないのだ。しかしその余剰次元が何次元まで存在するのか、その大きさは無限なのか有限なのか、有限だとしたらどのくらいの大きさなのか、はっきりしたことはまだ解っていない。とくに、ひも理論が語る宇宙はどこか妄想的で収拾がつかないものになりがちなようだ。さらにいえば、「次元」という概念そのものが曖昧なのだという。あるひも理論研究者は、「空間と時間は幻想だと、私はほぼ確信している」(p.598)と語っている。そもそも、この宇宙の始まりだといわれているビッグバンにしても、それがなぜ起きたのか、あるいは、それが本当にビッグバンだったのかどうかすら科学的に説明できてはいない。わたしの目の前に広がるこの世界において、現実と幻の間に明確な境界線を引くことは可能なのだろうか。

ただし、うまく説明できないとはいえ、この宇宙は、対称性の自発的な破れによって生まれているらしい。原初の宇宙では、あらゆる力(電磁気力、強い力、弱い力、重力)は同じものであったというのだ。しかし、なにかのきっかけで対称性が破れ、それまで渾然一体であったすべてが引き裂かれて、四次元に隔離された膜(ブレーン)が生まれ、その膜の中に閉じ込められた粒子の振る舞いがこのわたしをかたちづくっている。

『対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしているのだ。私にとって、物理学研究の最もわくわくする側面の一つは、非対称的な世界のなかで対称性を意味あるものにする関係性を探求することだ』(p.280)

*****

科学の進歩により、科学の限界が露呈される。本書を読み進めながら、『対称性人類学』(過去記事)や南方曼荼羅(過去記事)のことを思い出した。科学が描く宇宙の像は、仏教がすでに示している曼荼羅にこのまま接近を続けていくのだろうか。
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2007年08月14日

「モードの迷宮」 <わたし>の脆い輪郭とファッションの変遷

鷲田清一著 『モードの迷宮』 (ちくま学芸文庫)

衣服はなぜ本来の目的を大きく逸脱して人間の身体を拘束しようとするのだろう。絶えず変化するモードは人々に何を与え、あるいは何を奪おうとしているのだろうか。

labyrinthe_du_mode.jpgたしかに、人間は衣服や装飾品の中に拘束・隷属のイメージを漂わせる。ヴィクトリア期に普及したコルセットはもちろんのこと、襟、ベルト、靴、ネクタイ、指輪、ネックレス...現在も日常で使われるこれらのアイテムもまた人間の身体を縛りつけ、そのイメージを強く外部にアピールする。人々はなぜこれほどまでに身体の拘束に向かわなければならないのだろう。我々は衣服を通して何を縛りつけ、抑圧しようとしているのだろうか。鷲田氏によると、その目的とは、内なる自然の拘束・抑圧と、脆弱な「個」の輪郭の明確化であるという。しかも、人間が「内なる自然」を隠蔽しようとすればするほど、人々の視線は隠された秘部に向かうため、かえって肉の荒々しさが露わになり、その目的は果たされぬまま骨抜きにされてしまうというのだ。それでも人間は、手を変え品を変えながら、隠蔽と粉飾に勤しむ。だからモードは絶えず変化しなければならないのだ。

もちろん、服装はたんなるうわべ、アクセサリー的なものだという常識にはまりこんで、ここでいう「遊び」を文字通りに受け取ってはいけない。モードの<軽薄さ>は、<わたし>の根源的なもろさ、こわれやすさを押し隠し、それを移ろいやすい可視的な表面で肩代わりするひとつの「たしなみ」でもあるからである。かつてニーチェも言っていたように、「深さ」からして表面的であるといったこともありうるのだ。(p.141-142)

*****

80年代とフランスの香りがとても強い文章だったけれど、それを乗り越えれば面白く読める本だと思う。本書では触れられていなかったけれど、日本の近世において「帯」や「かんざし」が派手になっていくのはやはり西欧のコルセットとどこか繋がりがあるのだと思う。現代女性はかつての帯やコルセットから開放されてはいるけれども、美容整形や過度なダイエットなどのみえないコルセットによってその身体を拘束され続けている。
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2007年07月15日

「益田勝実の仕事 I」 この国の民俗学を問い直す

益田勝実著 『説話文学と絵巻 ― 炭焼き翁と学童/民俗の思想ほか』

masuda_katsumi01.jpg前半の説話文学に関する内容は難しくて挫折。後半の『「炭焼日記」存疑』以降に続く、民俗学に関する論考のみを読み進めた。「問いの科学」であるはずの日本民俗学は、本当に問うべきを問うてきたか。本書において益田勝実は、柳田國男をはじめとする、南方熊楠、折口信夫などの民俗学者の足どりを辿りながら、この国の民俗学のあり方を改めて問い直している。

この国の民俗学を問い直すことは、日本人の心のあり方そのものを問い直すことでもある。だからこそ、民俗学の知識がないぼくでも、本書(の後半部分)を興味深く読み進めることができたのだと思う。それに、タマや霊魂に関する折口信夫や南方熊楠の文章の引用を見つけたときには、本書の前に読了した『眼球譚』(過去記事)や『人類最古の哲学』(過去記事)のことを思い出し、その偶然の一致にあらぬ妄想を膨らませたりと、本論をやや離れたところで楽しむこともできた。以下に、本書の一部を引用しておく。

***

 わたしが、折口信夫が日本古来の「タマ」の観念を復原するのに、この「鷲石考」が一役演じている、と考えるのは、なにかが中に籠もっている中空の球体に対して人間の托した原始信仰などについて考えたのは、日本では空前のもので、これしかないからである。(中略)一九二九(昭和四)年の「霊魂の話」になって、「かひは、もなかの皮の様に、ものを包んで居るものを言うたので、此から、蛤貝・蜆貝などの貝も考へられる様になつたのであるが、此かひは、密閉して居て、穴のあいて居ないのがよかつた。其穴のあいて居ない容れ物の中に、どこからか這入つて来るものがある、と昔の人は考へた。其這入つて来るものが、たまである。そして、此中で或期間を過すと、其かひを破って出現する」という折口理論が出現する。タマの入れものと古代人が考えたのは、「中がうつろになつたものである」。(以下略)
 折口が、霊と球と玉のような同音語をめぐって、新語原論という独特の方法へ進んでいったのに比べるべき、南方の遊離魂の考え方は、『南方随筆』の(1)「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」、(2)「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」、(3)「臨死の病人の魂、寺に行く話」、(4)「魂空中に倒懸すること」などに見える。(中略)今後、わたしたちが日本人の霊魂観をより深く突きとめようとすれば、これらと異なる資料をどこに新しく求めるか、霊魂と生活のあり方との有機性を断ち切らないところで、いかに新しい分析と綜合による発見に追い込んでいくかの問題があるが、南方の霊魂を細分化していく着眼は、多くの有効性をはらんでいるのではあるまいか。(p.524-p.526)
 
***

 日本近代史の悲劇はそういう<群れに守られて生きる>思想を、ヨーロッパ流の自我の確立、個人の自立の思想でつきくずそうとして、それができなかったことである。たてまえとしてのアカデミーから流れ出た、あるいは、物の本から流れ出た考え方からすれば、<群れ>にしがみついて生きることは、封建的であり、弱いことであり、悪いことであった。しかし、日常生活は<群れ>に守られ、<群れ>とともにしか行われていない。<個>の存立の場は、そこには少しもなかった。<群れ>を解体せよ、<群れ>を突き破れという近代思想のひよわさは、しだいに明らかである。問題は、<どのように群れを組み替えるか>の問題と、<どのような新しい群れが生み出せるか>の問題である。列島社会の<群れ>の生活の歴史を中断して、明日から個中心の世界を作ることはできない。(p.469-p.470)

***

<群れ>の解体は現在も進行中だけれども、その一方で、新たな<群れ>についての議論はなされぬまま、ひ弱な<個>はそのまま放置され続けている。これら脆弱な<個>は、これからどこに逃げ込んでいくのだろう。あるいは、逃げ場を失い、追い詰められ、そこから飛び降りるしかなくなるのだろうか。
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2007年01月14日

「オルガスムの歴史」 肉体的快楽と社会の結びつきについて

ロベール・ミュッシャンブレ著
『オルガスムの歴史』 / 原題『L'orgasme et l'Occident』 (作品社)

この本は、主に16世紀以降の西洋における性の快楽に関する歴史を辿りながら、かつては禁忌の暗闇に閉じ込められ、隠蔽されていた人間の性のあり方を露わにし、個人と社会の結びつきの変遷を肉体的快楽という観点によって捉え直そうとしている。

l'orgasme_et_L'occident01.jpgオルガスムの歴史というより、むしろオルガスムの抑圧の歴史について多くが語られている。近代以前のヨーロッパでは、人間の性的欲動に畏れを抱いていた権力が、教会と結びつきながら住民の性を統制した。当時の教会は、夫婦間の性交のあり方にまで介入し、体位を規制して、妻が性交の際に絶頂に達することを禁じた。又、生殖ではなく、快楽のために行われる性愛は処罰の対象となり、とくにその過ちを犯した女性は魔女とされ焚刑に処されることもあった。これがいわゆる西洋の魔女狩りである(思えば、ホウキに跨って股の間から柄を突き出している魔女のイメージは卑猥な印象を与える)。

その後、産業革命による社会構造の変化によって都市が生まれ、中産階級に属する住民が増加すると、宗教ではなく、中産階級がよりどころとする科学によって(ただし、その科学の内部にはキリスト教的な価値観が保存されている)性の抑圧がなされるようになった。この頃から、都市部では娼婦が激増し(同時にイギリスではSMが流行する)、女性たちは貞淑な妻と穢れた娼婦という両極の存在に引き裂かれる。男性は妻と娼婦の双方と交わることが許されたが、その一方で、マスターベーションや同性間のアナル・セックスは刑罰の対象となった。又、夫婦間であってもオーラルセックスなどの「倒錯的行為」は禁じられた。これらの性的快楽に対する抑圧は、20世紀の半ばまで続く。

60年代の性の解放以降、ヨーロッパ社会は性的快楽に対して寛容になり、とくに女性は、避妊技術の発達により生殖と性愛が切り離されたことによって、数世紀にわたる禁欲の呪縛から解き放たれた、と著者は指摘する。現在のヨーロッパはある種のオルガスム革命の只中にあり、人は性愛の平等を得ることが可能となって、幸福のために愛と快楽を追求するための権利を獲得するに至ったというのだ。

*****

書き記されている様々な歴史的事実の積み重ねによって明らかにされるのは、極私的な経験であるはずの肉体的快楽も、属する社会と切り離して考えることは不可能であるという事実である。また、西洋社会における性の抑圧が想像以上に強く、かつ長期間に渡って西洋の人々の心を支配していたという事実には驚かされる。少なくとも、18世紀までの性の歴史を考えると、西洋より日本社会の方がはるかに性的快楽に関して寛容であったのだろうと思う。

ただし、いくつかの理由から、本書の現代の快楽をめぐる叙述に違和感を覚えるところがあった。そのひとつは、著者の社会の現状に対する認識があまりに楽観的すぎる点である。それは、彼がベビーブーマーであることと関係があるのかもしれない。その点では、著者と自分との間に多少のジェネレーション・ギャップを感じた。

そしてもうひとつは、本書でいう「西洋」が、キリスト教社会の内部に限定されているという点である。アフリカや中東などから流入してきた別の文化を持つ「西洋人」の存在を本書は無視してしまっている。著者が現代社会に対して楽観的でいられるのは、キリスト教社会の外部に対する意識が薄いせいもあるのかもしれない。

さらにもうひとつ挙げると、自分が属しているこの社会の現状と、著者がいう快楽的な社会のあり方に大きなギャップを感じてしまったという点である。現在の日本社会はむしろ抑圧的で、今後、その傾向は強まるのではないかとぼくは感じているのだけど、その社会に対する実感と、著者がいう快楽に向かう社会のあり方との間に果てしない距離を感じてしまったのだ。おそらく、日本社会はヨーロッパよりも、アメリカ社会に近い傾向を持っているのだろう。

*****

そのアメリカ合衆国は、いまだに厚い信仰心を維持し続けている。そしてその精神は、男性優位(マッチョ)主義的、神経症、分裂症的、ナルシスト的等々、ある種の病的な状態にあるのではないかと思われる。性に関しても病的に抑圧的だが、その一方で、その実態は自己の厳しい規範から乖離してしまっている。さらに、強烈に自由を主張する勢力も存在しているため、その相反するふたつの勢力が内部で激しく衝突し続けているのだ。また、その激しい衝突は、あらゆるレベルで、アメリカ社会のいたるところに見受けられる。この「引き裂かれたふたつのものの対立」、そして対立の中のある種の合意こそがアメリカ合衆国という共同体の秘密ではないか、という著者の指摘はとても興味深い。

『善悪のあいだの対立は、必然的に終わりがないということが、解釈の中心的な鍵なのではないだろうか。(p.342)』

永遠なるものを追い求めるアメリカ社会は、必然的に善と悪との激しい対立を必要とするのかもしれない。
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2006年11月19日

「脳と無意識」 幻想のシナリオが紡ぐ世界の中で

フランソワ・アンセルメ/ピエール・マジストレッティ著
『脳と無意識 −ニューロンと可塑性』 (青土社)

原題:『A Chacun Son Cerveau: Plasticite Neuronale et Inconscient』

a_chacun_son_cerveau00.jpg経験は脳に刻印を押す。知覚を通して経験される外的現実の情報は記憶というかたちで脳内に蓄積されており、その働きはニューロンの持つ可塑性と深く結びついている。また、我々が認識できる記憶の範囲は限られているが、実際は、我々自身が把握している以上の膨大な記憶の痕跡が脳内に残されているという。この経験によって刻まれる記憶の痕跡は、新たな経験によって常に追加、更新されており、さらに脳の無意識の領域内でその記憶の輪郭は解体され、他の記憶の断片と結びつきながら再構築されていく。その新たに再構築された内的現実は、当初経験された外的現実とはすでに切り離されており、これが人間の抱える幻想の源泉になるという。

さらに、この内的現実(幻想)は知覚を通して活性化される。つまり、人間が知覚を通して外的現実に触れるときに、脳内ではある内的現実(幻想)が立ち上がるようにできているのだ。その時、人間は外的現実を認識しながら、内部で湧き上がる内的現実(幻想)の干渉を受ける。我々は目の前に広がる世界を正確に捉えることはできない。外的世界と我々の間には、絶えず幻想というフィルターが横たわっているのだ。そしてその幻想世界は我々の身体状態とも強く結びついているため、生み出された幻想はしばしばネガティヴな情動(苦悩、不安など)を突き動かし、その情動が我々に誤った行動をとらせてしまう。現生人類の脳の構造が変わらぬ限り、人間はこの幻想のシナリオから逃れることはできないだろう。

*****

本書はまた、脳の可塑性が遺伝子的決定論の抜け道をつくることも示唆している。

遺伝子の働きには、遺伝プログラムが達成されるにあたって、経験に一定の余地をのこすように定められているメカニズムがある。要するに各人は、遺伝的に決定されないように遺伝的に決定されているということが、わかってきたかのような具合だ。(p.18)

そしてもうひとつ。幻想から生み出される情動に対して、それを軽減するための行動がとれない主体は自己破壊に向かうという点も指摘されている。

くり返せば、幻想のシナリオの表象との連合で生じてくる欲動の軽減の可能性によって道をつけられていない身体状態は、主体の破壊に行きつくだろう。(中略)これは組織解体と、したがって死に向かう経路を意味している。生の原理そのものが死であるのかもしれない。無意識と、とくに幻想のシナリオは、生者が解体の過程のもとで回復してゆくこの自然な傾向に、道をつける。(中略)つまり生者は、死と消尽とエントロピーに向かう傾向、したがって自己破壊に向かう自然な傾向をもつのだが、欲動が内的環境とホメオスタシスの維持を目指す生理学的システムのもとで作用することによって、無意識は身体状態の組織構成化を可能にしているのだといえるだろう。(p.150)

人間が無意識の領域を過度に抑圧することと、自己破壊的な行動をとる事の間には深いつながりがあるということをここから読みとることができる。

*****

本書の主題は、神経科学と精神分析という異なる知の領域を脳の可塑性という接点を通して結びつけるところにあるらしいのだが、残念なことに、ぼくはその両分野に関する知識を持ち合わせてはいないので、その主題については消化不良にならざるをえなかった。ただし、冒頭、それぞれの分野が「北極熊」と「鯨」に喩えられているところに著者の意図とは別の意味で面白みを感じることができた。この表現は、著者の同僚が、本書の試みは北極に棲む熊と南海の鯨を交配させるようなものだと揶揄したことからきているらしいのだが、この「熊」と「鯨」という全く異なる動物は、神話的な思考によると、神の化身(あるいは自然界の王)という意味で同じ存在だと捉えることもできる。という意味では、この同僚の批判は批判になっておらず、むしろこのふたつの分野が互いに通じていることを暗に示していたとさえ妄想することができる。これもやはり、無意識の干渉による創造的な言い間違いということなのだろうか。
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2006年09月12日

「二十一世紀の資本主義論」 格差を求める資本主義の未来 <追記>

岩井克人著『二十一世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)

時代を遠く遡ると、中国語の「買」と、日本語の「買ふ」という言葉は、現在とは異なり、あるモノをほかのモノに交換するという意味しか持たなかった。さらにその「買」「買ふ」の語根を辿ると、「与える」という意味と、「受け取る」という意味の相反するふたつの意味を持つインド=ヨーロッパ語に行き着くのだという。貨幣が生み出される以前の世界では、「与える」と「受け取る」という行為は一体のものであり、当然のことながら、そこには「売買」という概念も、それにあたる言葉も存在することはなかった。

21century's_capitalism00.jpgその「売買」誕生以前の世界では、贈与によって人々の生活は維持されていた。無限に繰り返される贈与の連鎖を通して、モノが増殖し、その共同体が維持されるのだと当時の人々は考えていたようだ。このような古代の贈与的な社会では、売り買いによる「商業」という概念も、それに相当する言葉もやはり存在することはなかった。ではいったい、「商業」とはどこで生まれたのだろうか。ここで岩井氏は、マルクスの言葉を引く、

「商品交換とは、共同体の果てるところで、共同体がほかの共同体またはその成員と接触する点ではじまった」(p.129-130)

商業とは、古代的な共同体の外部の人間により、共同体と共同体の間を仲介することによって成立した活動なのだと岩井氏は説明する。共同体の間に存在する価値の”差異”を利用ながら利潤を生み出すという「ヴェニスの商人」的ないわゆる商業資本主義の誕生である。さらに、アダム・スミスの「国富論」の時代に入ると、大量生産を可能にする工場制度を背景として、労働者が生産しうる商品の価値(労働生産性)と消費財の価値(実質賃金率)の間に大きな”差異”が生み出されるようになり、資本家の視線は共同体の外部から内部へと向けられるようになる。つまり、農村から流入する余剰人口を利用し、工場労働者の賃金を低く抑えながら工場を拡大することによって、その膨張する”差異”から莫大な富を生み出そうとしてきたのが産業革命以降の産業資本主義である。資本主義は、これらの”差異”を飲み込み、均質化して、さらに新たな”差異”を要求しながら膨張を続けようとしている。

だが、差異とはなんの実体ももっておらず、いつでも消え去る運命にある。そして事実、アダム・スミスの時代から二百年、先進資本主義国の内部において産業資本主義的な利潤の源泉は消えつつある。(中略)
それゆえ、現代の資本主義が資本主義であり続けるためには、差異そのものを意識的に創りだしていくほかはない。(p.314)


*****

新たな差異の創出とは、今まさに我々が直面している問題である。無限の富を追求する世界は、グローバル化する資本主義のさらなる成長のために、その外部の存在を許さず、貨幣や兵器の力によってその外部を破壊し、新たな”差異”の源泉としてそれを内部に取り込もうとしている。あるいは、時計の針を逆転させるかのように、富める世界の内部に新たな格差を生み出すことによって、かつて存在していた”差異”を取り戻そうという動きも目立つようになってきている。これらの運動は、これまで多くの富を生み出してきた資本主義の持つ野蛮な側面を剥き出しにしながら、かつその限界をも露わにしているようにみえる。

我々が本当につくりださなければならないものは、いま目の当たりにしている野蛮な差異の創出とは異なる、この絶望の先にあるはずの、新たな価値の創造であると思いたい。
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2006年09月10日

「二十一世紀の資本主義論」 貨幣の悪と資本主義の未来

岩井克人著『二十一世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)

投機とはやっかいなものだ。投機家たちが動かす莫大な資金は瞬時にして市場の中を駆けめぐり、企業を、そして人間を振り回して、ときにはその命をも奪ってしまう。初めての転職以来、ぼくは非上場企業でばかり働いているけれど、それは、PCの前でカチカチやりながら多くの富を得ようとする顔の見えない人たちのためにあくせく働きたくはない、という理由もある。会社を辞めてぶらぶらしている時に、ぼくがデイトレードで食っていると思っている人が意外に多くて驚いたが、それはとんでもない話だ。働かずして富を得る人間が存在するためには、奴隷のように扱われる労働者が必要となる。ぼくはそのどちらにもなりたくはない。けれど、その一方で、現実はそう甘くはないということも薄々わかってはいるつもりだ。

21century's_capitalism00.jpg「投機」とはいったい何なのか?
「投機」とは、これから見ていくように、市場経済にとってもっとも本質的な活動である。市場経済のなかでは、モノを生産することも、モノを消費することも、必然的に投機の要素をはらんでいる。いや、それだけではない。じつは、市場経済のなかでは、貨幣を媒介としてモノを売り買いすること自体が、無限の将来に向けての投機そのものなのである。投機家とは、生産者や消費者に対立する異質な人種であるのではない。市場経済のなかで生産し交換し消費するすべての人間が、すでに全面的に投機家なのである。真の「悪人」はまさにわれわれ自身なのである。(p.20-p.21)


なにも投機家だけが悪いというわけではなさそうだ。彼らは必要とされている役割をこなしているに過ぎない。高度な進化を遂げた資本主義が、彼らを必要としているのだ。そして、その資本主義をつき動かしているのは、まぎれもなく我々自身の果てしのない欲望である。さらに、その我々の欲望と資本主義を結び付けているのは、貨幣という媒介するモノの存在である。岩井氏は、市場経済の中で、貨幣を媒介として売買を行うこと自体がすでに投機的であるのだと指摘している。では、市場経済の中をめまぐるしく流動しながら人々を投機へと導く貨幣とは、いったいなにものなのだろうか。

貨幣には、モノとしての価値を大きく上回る価値が備わっている。この過剰なモノである貨幣という存在自体が、「投機」という行為と深く結びついているのだ。岩井氏は、人々がその永遠の価値を予想しているからこそ、貨幣が貨幣として成立しえているのだという。無限に増殖する富を求める人々の総意が、貨幣という過剰をはらんだモノを生み出したということなのかもしれない。ただし、逆にいうと、その「予想の無限の連鎖」が潰えたときに、貨幣は貨幣としての価値を失ってしまうのだ。過剰なモノである貨幣の足元は、意外に、というか、過剰なモノであるがゆえに脆弱なのである。

これにたいして、貨幣の場合は、モノとして消費されることも、モノとして生産に投入されることもなく、ひとからひとへと永遠に受け渡されていくだけである。いや、ひとびとの欲望とは永遠に触れあうことなく、その欲望をたんに媒介していくだけだからこそ、モノとしてはたんなる金属片や紙切れや電磁波でしかない貨幣が、モノとしての価値をはるかに上回る価値を持つことができるのである。貨幣の貨幣としての価値を支えているのは、まさに「予想の無限の連鎖」そのものなのである。(p.51)

*****

資本主義―それは、資本の無限の増殖を目的とし、利潤を永続的に追求していく経済活動の総称である。(p.80)

貨幣の価値は、モノから離れ、ひとり歩きをしながら資本として増殖を続けるけている。それが、資本主義というものなのだろう。資本主義の発展と共に、その力は、人々の生活をリアルなモノから引き離し、ヴァーチャル化し、この世界を地上から浮き立たせようとしている。我々は、この浮世の中を生き延びていくしかないのかもしれない。

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長くなりそうなので、このエントリーは一旦、ここで区切ることにする。本書については、資本主義が必要とする格差など、もう少し書き留めておきたいことがあるので、改めてエントリーを追加するつもりでいる。あと、無限の富の増殖に向かう人間の心については、もう1冊だけ本を読んでいるので、それについても何かしら書き留めておこうと思っている。

(関連記事:「二十一世紀の資本主義論」 格差を求める資本主義の未来 <追記>/2006/09/12)
posted by Ken-U at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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