2006年08月05日

「エロスの涙」 われらの狂気を生き延びるためには

ジョルジュ・バタイユ著『エロスの涙』

ここ最近、この世界のあり様をぼんやりと眺めている時に、人間の心が抱える”過剰なもの”について考えをめぐらすことが多くなった。社会が閉塞感に覆われ、そこに暮らす人々の心が抑圧的な方向に大きく傾く時には、その心の奥底に閉じ込められようとするある種の”激しさ”が、人々の意識とは別のかたちで、とても醜い姿となり果てて剥き出しにされるものなのかもしれない。人間は、自身が抱える悪魔とどう対峙し、付き合っていけばいいのだろうか。

les_labmes_d'eros.jpgエロティシズムと涙を繋ぐもの。それは、人間の心の奥底から溢れ出るある種の”激しさ”である、とバタイユは言う。人間を”小さな死”へと駆り立てるエロティシズムと、究極の死に対する戦慄によって流される涙は、互いに混ざり合い、一体となって、人間が人間であるための根源的な部分、つまり、悪魔的な領域を露わにする。

本書は、バタイユが綴る文章と、その内容に沿った多くの図版によって構成されている。その前半、多くのページを割かれているのは、ラスコーの洞窟に描かれた壁画に関する叙述である。その洞窟の最も奥深い闇の中に描かれているのは、ペニスを勃起させたまま死亡し、横たわっているひとりの男と、そのすぐ傍に立つ、裂けた腹から内臓を垂れ下げた野牛の姿であった。バタイユは、野牛と男が死の近接の中で結び合わされている原初の芸術の中から、死とエロティシズムの合致を見い出すのだった。他の動物とは異なり、自らが死ぬであろうことを認識する人間は、その心の根源的な部分に、死の暗闇に対する畏怖の念と、そこから溢れ出る悪魔的な感情を抱えてしまう。現生人類の祖先は、その根源的な心の動きを抽象的な絵画に表し、そして洞窟の暗闇の中に隠したのだ。

*****

以降、国家と戦争の誕生や、キリスト教による断罪などによって、人間とエロティシズムの関係は大きく変化し、そして現代に至る。バタイユは、その変遷を辿りながら、それでも変わることのない人間の本性について、とめどなく溢れ続けるエロティシズムについて、その荒々しさと結びつくサディズムについて、そして究極の死がもたらす苦痛と恍惚について、その究極の姿を中国の「百刻みの刑」の受刑者に求めながら、人間の抱える悪魔的な心の闇の存在を、この世界に強く訴えかけようとしている。

確かに、阿片による恍惚の中で身を切り刻まれる受刑者や、羽毛や羊の血にまみれながら宗教的恍惚に浸るブードゥー教の信者の姿からは強い印象を受ける。さらに、その後に掲載されている2枚の図版がぼくにはとても印象深く感じられた。

「恐怖の伝統」と題された図版の1枚目は、アステカ族の人間の供犠を描いたもので、生贄となった人間の体を数人の男たちが押さえつけ、その胸を切り裂く様子が描写されている。その次に、”アステカ族の供犠の後では、<征服>による暴行”とコメントが加えられた、侵略者による殺戮の様子を描いた挿絵が載せられている。この2枚の絵を眺めながら、野蛮を排除するための野蛮について、様々な想いが頭の中をめぐった。

(関連記事:その図版の一部/2006/08/07)


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2006年07月03日

「河童駒引考」 家畜と交わる水の神とは

石田英一郎著『河童駒引考』(岩波文庫)

この列島には、古くから河童という化け物が棲みついていて、人間に悪戯をしたり、ときにはその命を奪うこともあったという。本書は、当時まだ国内のいたるところに残されていた「河童駒引」という伝承を扱い、それを水界と人間の世界を繋ぐ物語と捉えて、同類の物語を辿りながら、時空を超えてユーラシア全域を旅するように綴られている。

kappa00.jpg「河童駒引」とは、河童が水辺に放たれている馬を襲い、水界に引きずり込もうとして失敗してしまうという物語で、これに似たような話は、古代からユーラシア全域に残されていたという。といっても、河童とは日本独自の表象であり、他の地域では、女神エポナやギリシャの海神ポセイドンなど、別のかたちをして人間界に姿を現していた。それらは皆、水界の神の化身である。

馬と水神の物語を遡ると、牛と水神の物語にその姿は変わっていく。それは、牛の方が家畜としての歴史が古いからである。さらにその起源にまで遡ると、家畜は神に捧げるための贄であった。人々は月蝕の時などに牛を屠り、神に豊穣を祈ったという。牛は、月、大地、女性、豊穣、そして水と深く結びつけられていたのだ。南フランスからロシアに渡る広い地域では、性的な特徴を誇張したヴィーナス像(過去記事)とともに、牛を模った塑像も多く発掘されている。

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ぼくには書かれている日本語が難しくて、なかなか読み進むことができなかったけれど、それでも読了したかったので、かなりナナメに読んでしまった。だから、内容についてはあまり把握できてはいない。でもなんとなく、イメージとしては掴める部分があった。

石器時代は人間にとってたいへん苛酷な環境であっただろうから、豊穣や生殖についての願いは、今では考えられないくらいに切実なものであったのだろう。だから、人間はその知恵を駆使して、自然界との共生を図ろうとしていたのだ。しかし、人間が生きる社会のあり方が変わり、その思考が変化するに従って、水神と人間、あるいは、水神と家畜との関係も変化していったのではないだろうか。

水界と人間界との距離が広がるとともに、人間は水神に対する畏怖の念を忘れ、贄を捧げることを怠るようになった。そして、貢物を得られずに衰えた水の神は、やがて河童へと姿を変え、人間界に姿を現しては、かつては贄であったはずの馬を自らの手で奪い返そうとしたのだ。しかし、その企ては失敗に終わってしまった。そして人間界はさらに高度化し、河童の皿が一瞬にして干上がるほどに乾き切り、水の神が身を潜めるための場所さえ見出すことができなくなってしまった。

*****

多摩美のシンポジウム(過去記事)で話題になっていた、なぜ馬が牛に取って代わったのか、という問題については、本書を読む限りではよくわからなかった。けれど、馬が鉄や戦争と結びついていること、そして、人間が高速で移動するための乗り物であることから、国家の誕生となにかしらの関係があるのだと感じた。そのあたりは、また別の機会にでも。
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2006年06月28日

徒歩圏内のアジール

このブログからリンクしている『対抗文化専門古書 気流舎』(link)が、この週末、『Typhoon Books』と題したイベントを、まだ工事中の店舗において開催するそうだ。以下に、その情報の一部を引用しておく。

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これは論文ではない。
アクチュアルな運動でもない。
現実である。
都市のなかに
“オルタナティヴな公共圏”(ギルロイ)を
ブック・カフェとして創出する。
その過程すべてを共有したいと思う。
施工中の店舗にゲストを迎え、
ラディカルなイベントが開催される。


Tyhoon Books ! は、
Cultural Typhoon 2006
公式参加イベントです。


日時:
2006年7月1日(土)、2日(日)

会場:
気流舎(下北沢駅南口徒歩5分)
世田谷区代沢5-29-17 飯田ハイツ1F (MAP
TEL/FAX: 03-3410-0024(当日のみ)
Mail: info@kiryuusha.com
URL: http://www.kiryuusha.com

***

この気流舎、うちから徒歩約15分というとても便利なところにある。多摩美はとても遠いので、近所にこのような面白い場所ができるのはとても喜ばしい。この世の抜け穴のような空間になることを、密かに期待している。

あと、最近リンクに加えた『GAFFLING TOKYO』(link)でもこのイベントの告知がされていて、その偶然の一致に少し驚いた。たしか、気流舎のオーナーは元グラフィック・デザイナーかなにかだったと思うので、その繋がりなのかもしれない。ぼくはデザイナーでも職人でもないけれど、デザインはこの世界を変えることができると思っている。ということもあって、『GAFFLING TOKYO』をリンクに加えてみた。これは無断リンクなんだけど。
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2006年05月27日

「オシムの言葉」 消失した母国への想い

木村元彦著『オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える』

J1リーグ、ジェフ千葉の現監督であるイビチャ・オシム氏(本書では”イビツァ・オシム”と表記されている)とその関係者の言葉を交えながら、オシム監督の半生やそのサッカー観などが紹介されている。

oshim01.jpgジェフ千葉の”走るサッカー”は観ていてとても気持ちがいい。全選手が労を惜しまずボールを追い、そして次々にボール・ホルダー追い越し、得点機にはあらゆる選手がゴール前へとなだれ込んでいく。与えられた厳しい制約の中で、オシム監督はサッカーの持つ”スペクタクル性”をチームから最大限に引き出そうとしている。サポーターが喜ぶスペクタクルなサッカーをするためにはリスクを負わなければならない、とオシム監督は語る。たしかに、これはサッカーに限らないことだけれど、心が躍るような経験をするためには相応のリスクを冒す必要があるというのはその通りだと思う。

イビチャ・オシム氏は旧ユーゴスラビアのサラエボで生まれた。家庭は貧しかったが、得意の数学で卓越した能力を発揮し、サラエボ大学の教授になる機会を得たという。しかし、彼は教授の道を選ばず、将来を約束されたわけでもないサッカーの世界へと進んだ。おそらく、オシム氏はサッカーに数学を超える強い魅力を感じていたのだろう。きっとその魅力は何物にも代え難かったはずだ。不確実な道を選択して以来、彼は一貫してそのサッカーの魅力に奉仕し続けているのだ。

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オシム氏のもとには、今でも旧ユーゴ諸国のクラブチームから監督就任のオファーが届くようだけれど、彼はその全てのオファーを断り続けている。そんなニュースを目にすると、オシム氏の故郷に対する深い想いについて考えずにはいられない。オシム氏の母国はすでに解体されており、彼が生まれ育った土地であるサラエボにしても、かつてのサラエボとは異なる街に生まれ変わっているのだ。彼が愛したのは”融和の土地”としてのサラエボであり、ユーゴスラビアであるのだろう。

旧ユーゴを襲った悲劇の渦中、オシム氏はそのナショナル・チームの監督を務めていた。その代表監督の職を自ら辞すまでの間、彼がどのような事に遭遇し、そこで何を感じたのかは計り知ることができない。ただ、分断された母国のクラブ・チームにみせる彼の頑なな態度から察するばかりである。その悲劇の果てにオシム氏が辿り着いたこの日本が、新たな融和のための土地として彼の記憶に残ってくれればいいのだけど。

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『モンテネグロ88年ぶり独立回復、投票結果が確定』(link)

【ポドゴリツァ(モンテネグロ共和国)=石黒穣】セルビア共和国との国家連合解消の是非をめぐって21日に行われた国民投票について、モンテネグロ共和国の投票管理委員会は23日、全体集計の結果を公式に発表した。

 賛成票は有効投票の55・5%に達し、欧州連合(EU)の仲介で定められた可決基準55%を越え、独立派の勝利が確定した。

 これによって、モンテネグロは1918年にセルビアに併合されて以来、88年ぶりに独立を回復。第2次大戦後、両共和国を含む6共和国で発足した旧ユーゴスラビア連邦は完全に解体する。

 有権者は48万4718人、投票率は86・5%だった。

(2006年5月23日/読売新聞)
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2006年02月08日

サンカ 近代社会の境界域を生きた人々

沖浦和光著『幻の漂泊民・サンカ』

この列島の山間部に、サンカと呼ばれる漂泊民がいた。定まった住居は持たず、戸籍もなく、山中を移動しながら、川魚漁や竹細工で暮らしを立てていた。1940年代頃まで、各地でその姿が見られたという。著者は資料の分析と聞き取り調査によって、漂泊民サンカの実像に迫ろうとする。

sanka01.jpg先月、ここからリンクしている「岡村淳のオフレコ日記」でサンカのことを知り、仰天してしまった。今からつい60年ほど前まで、この列島にそのような人々がいるなどとは思いもよらなかった。山岳地帯で暮らす漂泊民。そのイメージは縄文人と繋がってしまう。サンカとは近代まで続いた縄文人の末裔ではないか、そんな妄想を膨らませて本書を手にした。

柳田國男もそう考えていたらしい。稲作を基盤とするこの国の王権から逃れ、古来から伝わる狩猟採集を生業としながら生き延びた人々がサンカとなった。柳田はそう考え、サンカ研究に取り組んだようだ。しかしはっきりとしたことは分からなかった。資料があまりにも少なかったのだ。サンカは文字を持たず、限られた人々の前にしか姿を現さないために、その調査は難航し、結局、十分な成果を得ることはできなかったようだ。

そのサンカの実像に迫る前半部分。残された数少ない資料の分析や聞き取り調査によって謎の漂泊民の暮らしぶりが浮き彫りにされていくのだけど、その営みがとても興味深く感じられた。
サンカは瀬振り(セブリ:テントのような簡易住居)を河原に構えながら、家族単位で移動していた。春になると、山間の農家の集落に姿を見せ、灰小屋などに留まることもあったという。男は川魚や亀などを獲り、女がそれを捌いて売り歩いた。サンカが姿を現すと、農家の人々は壊れた箕などを軒先に出しておいた。そうすると、いつのまにかサンカが修理しておいてくれるのだ。冬には竹細工で箕や籠などを作り、それを売り歩いた。女は瀬振りで子供を産んだ。産後は産湯ではなく、川の水をつかって子供を洗い清めたという。

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サンカの起源はどこにあるのか。結局のところ、それはよく判らなかった。近世末期、飢饉の際に田畑を捨てた農民の一部が山に入り、サンカとなったのではないかと著者は唱えていたけれども、それももうひとつ腑に落ちなかった。ぼくとしては、やはりサンカの背景に漂う縄文の匂いを断ち切ることができなかったのだ。というか、そもそも”サンカ”という呼称はこの世界の内側の人間が勝手につけた名前であって、当の本人たちは”サンカ”などという呼び名に縛られることなく生きていたはずだ。だからサンカという言葉の定義やその起源には拘りすぎないほうがいいのかもしれない。

サンカと呼ばれる人々が存在した時期は意外に短い。江戸末期の公文書にその呼称が見られるようになるが、それ以前の実態は全く掴むことができない。そして明治維新以降、新たに制定された戸籍制度によって、サンカの多くは被差別部落に吸収され、徐々にその姿を消していく。その後、第2次大戦が終わる頃になると、その姿は全くといっていいほど見られなくなる。

*****

この世界の境界領域を生きた人々。中世以降の非農民や非人、悪党たちの風俗などと同じように、サンカと呼ばれた人々の暮らしぶりにも惹かれるものがある。なにより、このような人々がつい60年ほど前のこの列島に存在していたという事実に衝撃を受ける。この列島は思いのほかに広く、多様な人々が暮らしていて、その営みが混ざり合いながら複雑な世界を築き上げている。その背景を垣間見ることで、目の前の風景が少し変わって見えてくる。この均質な世界の壁の向こう側にはさらに多くの物語が隠されているのだろう。
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2006年01月11日

「発情装置」 近代社会の鏡として

上野千鶴子著『発情装置 エロスのシナリオ』を読了。

30歳を過ぎたあたりから、ぼくの周囲は女性ばかりになった。彼女たちとは恋愛、性愛の相手というより、友人として、あるいは飲み食いの仲間として付き合うケースがほとんどだ。いつのまにかそうなってしまった。理由はいろいろとあるのだとは思う。男性が企業活動の中に埋没し、均質化されたオヤジになるのとは違って、女性の多くは組織の中核から外れた場所に配置されるせいもあって、均質化から逃れ、私的な領域を残すことができている、ということもあるのかもしれない。持っている情報も豊富だし、やはり自分とは違う視点で物事を見てるから、女性と話しをするのは面白い。極々一部の女性以外は、ぼくのことを「オトコ」として見做しておらず、「オンナではない生き物」としか見ていない。「男女間の友情は成立しない」という信仰を超えた関係は、それはそれで心地いいものだと思っている。そんな日常を過ごしながら、彼女たちの悩みや愚痴などを聞いていると、いろいろと問題があるんだなあ、と思えてくる。

the_erotic_apparatus.jpgフェミニズムの本を読むのは初めてだった。本書を選ぶきっかけになったのは、上野氏による『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(過去記事)の解説がとても面白かったということと、女性の立場からも近代社会の性の問題を眺めてみたい、と思ったからだ。TVでわあきゃあ騒がれると、毛嫌いしたくもなるのだけど、文章を通して触れることで、その印象もかわるのでは、とも考えた。

結果として、この本を読んだのは正解だった。概ね、面白く読めた。予想以上に同意できる点が多かったし、これまでの考えを更新しようと思ったところもあった。そうではないところも、もちろんあった。

近代は女性の性を引き裂いてきた。妻や妾、娼婦という枠の中に、女性たちは押し込まれてきたのだ。それを支えてきたのが、家父長制による男性本位社会であることは間違いない。そのうえ、この女性の性を搾取する制度は今もなお残っている。
フェミニズムはその社会的・性的抑圧から女性を解放するための運動だということは理解ができたのだけど、男女の性の非対称を解消するということはとても難しいなあ、ということを感じた。それは上野氏自身も語っている。

それがどんな未来なのかを、わたしに聞かないでください。マルクス流に言うなら、「ありうるべき社会における理想の関係についてわたしは語ることができない。なぜならわたしはこの性差別社会ですでに性別社会化を受けてきたせいで、わたしの想像力はこの地平を超えることがないから」とでも答えましょう。(p.28)

*****

「発情装置」というタイトルには、「エロスとは発情のための文化装置である」という意味が込められているようだけれども、それはつまり、性は本能・自然にはよらず、文化によって形づくられるということで、性を自然界から切り離すことが可能であるという考えかたに基づいている。それは、近代の男が神仏(あるいは自然)の領域を解体し、遠ざけるのであれば、女性も同様であるべきだ、ということなのだと思う。

ぼくは、そこには無理があると思う。近代の文脈の中で男女の性の対称性が求められると、人間と自然との非対称は加速してしまう。女性がいつまでも自然と強く結び付けられてきた背景には、例えば出産という問題もあるのだから、女性が自然から離れていくにしたがって、出生率は低下する。それに、近代がつくりあげた共同体の崩壊も加速するのではないだろうか。

しかし、それはフェミニズムの問題ではない。フェミニズムは近代社会が生み出した運動であるのだから、問題があるのだとすれば、それは近代の仕組みそのものの中にあるのだと思う。男性の側にも、その責任があるのは明らかだ。これからの男性と女性の関係、そして子供との関係について、男性の側が考えなければならないことは多い。フェミニズムはこの社会の鏡なのだということを、この本を通して感じることができた。

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最後にもうひとつ書き留めておく。これは同意できなかった点。性は自然ではなく、文化と繋がっているという考え方に基づき、本書ではフロイト批判がされている。「無意識」の領域とは、非科学的ないかがわしい概念であるかのように捉えられているのだ。しかし、それは間違いなのではないだろうか。

無意識の領域は、「本能」や「自然」と結びつけられるものなので、これを否定することで、「性とは文化的なもの」と見做しているのだと思うけれども、無意識の領域は確かに存在していて、自我とは無関係に自律的な活動をしているのだから(過去記事)、そこから生まれる本能は、やはり、人間の性の領域とも繋がっているのだと思う。本書の後半部分を読んでいると堂々巡りをしているようでやや退屈に感じてしまうのは、この不自然さのせいなのではないだろうか。

<女>についてありとあらゆる問いが立てられ、解けるはずの問題がすべて解かれたあと、解くに解けない問題だけが残った。それが、性愛と孤独の問題である。二つは同じことの両面と言っていいかもしれない。振り出しに戻った思いである。(p.122)

*****

どこまでも「ワタシ」を突き詰めるだけでは限界がある。結局のところ、滅びてしまうだけなのだと思う。人間が営む社会だけではなく、自然も含めた課題として、対称性の回復は考えられなければならないのではないだろうか。ぼくとしては、これからも現場の生の声を聞きながら、いろいろと想いをみぐらせてみようと思う。
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2005年12月12日

「夜這いの性愛論」 日本の性の近代史

赤松啓介著『夜這いの性愛論』を読了。

とても面白く読むことができた。ここで語られている性の話のほとんどは、赤松氏自身の体験にもとづくものだ。彼は関西の山村で生まれ育ち、その後、町に出て丁稚奉公をした。戦後は行商として関西の山村を回りながら、住人たちに聞き取り調査をしたそうだ。調査といっても、実体験が伴なうものだったそうだが。まあそのくらい深く入り込まないと、性にまつわる話をよそ者に披露することはないのだろう。そうやって体験したり見聞きしてきた日本人の性の営みが、軽妙な語り口によって綴られている。猥談混じりの思い出話というか、エッセイのような雰囲気も漂っていて、それが本書を魅力的なものにしているような気がする。

yobai.jpgこの『夜這いの性愛論』で興味深かったのは、『夜這いの民俗学』では割愛されていた、都市部の性の実態に触れられているところだ。ここでは、主にマチの下層民の風俗が紹介されている。

社会の近代化に伴ない、山村から人々が流出し、都市部へ集まっていく。成人は場末に溜まり、廉売市場群を形成する。子供たちは、この廉売市場、もしくは大商店の丁稚、女中として働くようになる。商店に住み込みで働く彼らは、山村で培った夜這いの慣行を都市部へ持ち込んでいく。

表向きには、マチで夜這いはないものとされていたようだけれど、実際は、丁稚、女中に限らず、番頭、女将、旦那も巻き込んだ夜這いが広く行われていたようだ。年末の大掃除の後には丁稚と女中が入り乱れ、乱交まがいの宴会が開かれたりもしていたらしい。
ただし、伝統的な商人の世界では明治政府が推進する一夫一婦制が浸透していたため、旦那たちはカネをかけて妾を囲ったり、遊女たちと遊んだりすることのほうが多かったようだ。

ムラの共同体では住人たちの性が混然一体となっていたのとは対照的に、マチの性のあり方は一夫一婦制とその外側(妾、遊女)に切り離されていった。それを強く推進したのが明治政府で、夜這いに対する行政の弾圧はかなり強いものだったらしい。その弾圧が山村部に及ぶと、ムラの若者の中には「夜這いがなくなると誰と結婚したらわからなくなる」と困惑する者も多かったようだ。
夜這いの衰退と共に、日本人の性や結婚に対する価値観は変わった。処女であることが重んじられるようになり、見合いによる結婚が増加した。現在「伝統的」だと見做されている日本人の結婚様式は、この頃に確立した。こう整理すると、その歴史はとても浅いものだということがわかる。

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社会学者の上野千鶴子氏の解説も面白かった。赤松氏の研究は90年代に入ってからブレイクし、宮台真司氏のフィールド・ワークにも影響を与えているのだそうだ。たしかに、現代人が抱える性の問題と、この夜這いの歴史には繋がりがあるのだと思う。考えてみると、自由恋愛を追及してきた現代人が営む性の実態は、とても不自由なもののようにも感じられる。

現代の恋愛や結婚から、出産、主婦や女子中高生の売春、児童買春と権力の関係など、現代社会が抱える性の問題について、あれやこれやと思いをめぐらすことができた。また、夜這いに中世の性の営みの名残りを感じるとともに、さらに時代を遡らせて、弥生と縄文の結婚、天皇家の成り立ちのことなども連想してしまった(過去記事)。解説にもあるように、人間の性とは本能ではなく、文化なのだということを思い知らされたような気がした。とても刺激的な一冊だった。

(関連記事:「夜這いの民俗学」 柔らかな性の世界を覗く/2005/11/29)
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2005年11月29日

「夜這いの民俗学」 柔らかな性の世界を覗く

赤松啓介著『夜這いの民俗学』を読了。ちくま学芸文庫。この『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』は、94年に刊行された『夜這いの民俗学』と『夜這いの性愛論』をあわせたもの。その前半部分を読み終えた。

yobai.jpg夜這いとは、村落共同体を維持するための慣行だった。その規則は住民たちによって細かく決められていて、その取り決めはムラごとに異なる。その差異は、ムラの規模や性格によるものだとされている。
夜這いが解禁される基準も、ムラによって異なるけれど、13歳から15歳という年齢がひとつの目安となっている。

ムラの男は13歳でフンドシ祝い、15歳で若衆入りという通過儀礼がある。13歳で初めてフンドシを締める。その後、15歳で成人と見做され、若衆という成人男子の集団への参加が許される。この若衆入りを果たすと、筆下しといって、ムラの女がセックスを教えてくれる。その相手は、後家、嬶(かかあ)、娘、尼僧と様々で、くじ引きなどで決められることが多かった。場合によっては実の母親や肉親がその相手になることもあったけれども、その場合でも、相手の変更は禁じられた。それは、筆下しが宗教的儀礼だったからで、神社や寺院の堂がその舞台となった。この筆下しがすむと、夜這いをすることが許されるようになる。

女性の場合は初潮、あるいは13歳を節目として成人と見做され、おはぐろ祝い、またはコシマキ祝いが開かれた。その後、しばらくすると水揚げとなる。親がその相手を探し、依頼することが多かった。水揚げはムラの年長者で、セックスがうまいのはもちろんのこと、人柄がよく、その後も娘の相談相手になることができるような男性が選ばれた。その水揚げを経ることによって、その娘に対する夜這いが解禁となった。

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ただし、これは一部の例であって、それもムラの公式な手続きに過ぎず、実際のところは男女を問わず、こういった儀礼を待たずにセックスを経験することが多かったようだ。
夜這いを仕掛ける相手も未婚の娘とは限らず、婆、後家、嬶、嫁でも夜這いが許されるムラも多かった。その場合は、夫もそれを受け入れなければならなかった。夜這いによって妊娠し、子供が生まれることもあったけれど、夫はその子供を自分の子として育てるのがあたりまえだった。

村落共同体における性はとても解放的で、一夫一婦制はあくまでも建前的なものにしかすぎなかったようだ。結婚したからといって、その相手を性的に独占できるわけではなく、離婚も簡単だった。風呂敷包みひとつ持って家を出れば済むようなことだったらしい。それで女性の名誉が傷つくことも無く、三婚、四婚も珍しくはなかったようだ。この結婚のあり方は、網野義彦氏の著書で引用されていた、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』の内容を思い出させる。

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夜這いの世界を覗き見ていると、、近親性交も含めて、ムラの中の男女はほぼ全員が自由に交わっていたんじゃないかと思えてくる。近世から近代にかけて、社会の硬質化が進められ、主に平野部がその制度に染められていったのとは違って、山間部(や漁村)は昔ながらの「未開」の領域をその制度の中に残していたということだろう。少なくとも、1930年代までは夜這いがほぼ全国で行われていたようだ。解説の上野千鶴子氏によると、1950年代までは、漁村を中心としてこの慣行が残されていたらしい。しかし、高度経済成長期の村落共同体の崩壊と共に全滅したとされている。

夜這いの起源については諸説あるようだけれども、赤松氏は、中世の末期、南北朝の戦乱期における村落共同体の変容が、夜這いの成立と深く関わっているのではないかと述べている。村落に限らず、この時期は大きな社会構造の変革期に当たるのだろう。

ムラでは、中世からの柔らかい性のあり方が保存されたのとは対照的に、マチの性は大きく変容した。近世に入り、家父長制、一夫一婦制が社会に浸透していくのと同時に、マチには遊郭がつくられ、カオス的な性は隔離されるようになり、行政に管理される。ムラでは神聖な儀式であったセックスが、マチの中で産業化され、大きな富を生む。この流れは、近代に入ってさらに加速していく。やがてムラの女性たちはマチへと流れ、女工、女中、あるいは娼婦として働くようになり、村落の弱体化へと繋がっていく。

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本書を通して、夜這いの実態というか、はるか昔からつい最近まで残されていた日本人の「未開」な性のあり方を垣間見ることができた。これで、夜這いに関する自分の認識を改めることもそうなんだけれども、性のあり方そのものに関する価値観をも揺るがされたような気がした。

現代は、社会の硬質化を極限まで進めようとしている。その運動によって経済的な豊かさやある種の自由が手に入るようになった。現代人は、その恩恵を受ける一方で、未婚や少子化、あるいは、少女や主婦の売春などの問題を抱えてしまっている。結婚制度の崩壊や、女性の性のあり方については、狭い価値観の中では解決することができないかもしれない。深遠な夜這いの世界を覗き見ながら、そんなことを考えた。

さて、残りの『夜這いの性愛論』を読了したら、またその雑感を書き留めてみることにしよう。

(関連記事:「夜這いの性愛論」 日本の性の近代史/2005/12/12)
(関連記事:「中世の非人と遊女」 柔らかな社会の姿/2005/02/22)
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2005年11月14日

「続・日本の歴史をよみなおす」 日本史の表層を引き剥がす

網野善彦著『続・日本の歴史をよみなおす』を読了。これで『日本の歴史をよみなおす(全)』をひと通り読み終えたことになる。本著には93年から94年にかけて行われた講演の内容がまとめられていて、その中で網野氏は、日本の社会が稲作を中心とする農業社会だったという常識を、詳細な史実の積み重ねによって問い直そうとしている。

aminoyoshihiko_nihon.jpgまず、百姓が農民を意味する言葉ではないという指摘がされている。百姓という言葉には本来、「一般の人民」という意味しかない。しかし、水田を基礎に置いた律令制度が中国から導入されたことがきっかけとなって、国家は国内のすべての百姓を稲作民と捉えようとした。そのために、古くから残る公的な文書を辿ると、百姓がみな農民であるように思えてしまうのだ。そうした誤解を解き、近世の人口の大半が農民によって占められていたとする従来の常識を覆すような史実が紹介されていく。百姓と呼ばれる人たちの多くは、漁業や林業、鉱工業などの農業以外の仕事にもたずさわっていて、土地を持たない水呑百姓にも経済的に裕福な人たちがいたようだ。彼らは列島内外の広い範囲で交易を行いながら、多くの富を得ていた。それを支えていたのは列島に張り巡らされた水路のネットワークである。

その水路のネットワークは列島内にとどまらず、朝鮮半島や中国大陸はもちろんのこと、沖縄や東南アジアなどの南方諸国とも繋がりを持っていた。また、こういった水路は列島の西側でのみ発達したのではなく、東側にも存在していて、独自に北東アジアとの交易を行っていたのだという。歴史を遡ると、縄文期には水路を利用した交易が始まっていて、中世になると、商業や金融業が社会的に大きな影響力を持つようになった。この頃から、このような非農業者が集まった都市型の村落が目立つようになったようだ。また、都市型の村落は湾岸部に限らず、山間部にも存在していたらしい。

稲作と陸路による交易で列島を支配しようとした国家の枠組みを超えて、非農業民とそのネットワークは規模を増していく。こうした勢力は国家の脅威となり、国家側から悪党、あるいは海賊と呼ばれるようになった。13世紀から14世紀になると、鎌倉幕府は悪党・海賊禁圧令を繰り返し発するようになる。貨幣の魔力にとりつかれて利潤や利子を追求する商人や金融業者、あるいは狩猟民、博打などの人々は、農本主義的な権力側にとっては「悪」そのものであるように感じられたのだ。そして「悪」とは、超越的世界と繋がりを持つ穢れたものだと見做されるようになった。

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日本社会は古来から平板なものではなく、人々は海や山を広く移動しながら躍動的な社会を築いていた。本書を通して、そうした古くて新しい社会像が実例とともに伝わってくる。そして社会の躍動を支える悪党たちの社会的、経済的影響力の大きさが強く印象に残った。

そして、これまでも明治維新礼賛主義には違和感を感じていたけれども、維新による西洋型社会モデルの導入によってこの国の商工業化が進められたとする考え方は、やはり怪しいものだと再認識させられた。明治維新と悪党の関係については、今後、もう少し理解を進めたい。また、近隣諸国との歴史観の相違が巷では話題になっているけれども、まず自分たちの足元から見つめ直す必要があるように思われた。

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話はそれてしまうけれど、本書を眺めながら先日の北斎展のことを思い返してみた(過去記事)。葛飾北斎が描いた浮世絵の世界は、当時の社会でどう扱われていたのだろうか。描かれていたのは賤視されていた非農民の世界だったわけで、そうした絵画が当時の人々から広く支持されていたという事実はとても興味深く感じられる。それに北斎の暮らしぶり。彼は裕福だったのか、それとも貧しかったのかという点などにも興味をひかれてしまう。

浮世絵に限らず、歌舞伎や遊郭のような悪所にしても、賤視されていた一方で、広く人々の人気を集めていた。その背景にある、人間の思考や社会の構造はとても興味深い。これからも「悪」の世界には触れていきたいと思う。

(関連記事:「日本の歴史をよみなおす」 人間が抱える畏怖の変遷を読む/2005/10/28)
posted by Ken-U at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月28日

「日本の歴史をよみなおす」 人間が抱える畏怖の変遷を読む

網野善彦著「日本の歴史をよみなおす」を読了。

aminoyoshihiko_nihon.jpgこの「日本の歴史をよみなおす(全)」は、91年刊行の「日本の歴史をよみなおす」と、96年の「続・日本の歴史をよみなおす」を併せて1冊にしたもの。その前半部分を読み終えた。講演の内容をまとめた文章なので、表現も比較的平易で読みやすかった。

まず「はじめに」の内容が面白い。網野氏と今の若者との間には大きな世代の隔たりがあるのだけれど、その中でも、人間と自然との関係、そして人間が抱える恐怖の対象が、この世代間で全くといっていいほど異なっているという点が指摘されている。
例えばトイレの問題。網野氏の世代に属する人々とは違い、現代しか知らない人々はトイレの臭さとは無縁の暮らしを送っていて、さらに、家の中に暗闇がなくなってしまったことで便所に行くのが怖いという経験も持たなくなっている。身近なところに恐怖の対象となるような暗闇が存在しなくなっているのだ。この例に限らず、得体の知れない怖いモノは、現在も我々の日常から排除され続けている。

この「怖いモノ」は、人智の届かない超越的世界と深く繋がっている。古来から、人間はこの恐怖の対象を、神仏に対する畏怖の念と重ねて考えてきた。つまり、怖いモノは、神仏の領域に属していたり、あるいはその領域と深い繋がりを持っていると見做されていたのだ。
しかし、そういった人間と神仏の関係は、時代が進むにつれて変化していく。神仏に対する畏怖の念が、時代とともに後退していくのだ。その一方で、人間がかつては神仏のものだった領域に侵入するようになる。そして社会の世俗化が進む。そうした、聖なるモノを神仏の領域から「開放」する動きは、近世から加速し始め、今ではその極限まで推し進められようとしている。「自由化」の流れは、数百年も前に始まっているのだ。その大きな転換点は14世紀の南北朝の動乱期であると網野氏は指摘している。

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本書で語られているのは、日本人と、あるいは日本女性と文字の関係や、文字と神仏の繋がり、そして片仮名と平仮名や、口頭と文字との違い。さらに女性や貨幣、市場や金融と神仏との繋がりの歴史など。
そして天皇。さらに天皇の直属民である、ある種の職人としての非人や遊女の存在と、その社会的位置づけの変遷について。

14世紀に起こった大転換の後、神仏の力が後退するとともに、「聖なるもの」への畏怖の念は薄れ、「穢れたもの」への賤視へと変わる。非人や遊女は差別の対象となる。そして社会の構造は硬質化しながら世俗化の道を辿る。

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こういった社会の変容は、共同体や政治のあり方に影響を及ぼすだけではなく、個人の精神活動にも深い繋がりを持つのだと思う。というのも、神仏の領域とは、人間の脳内で自活的に活動している無意識の領域の表象でもあるからだ。社会の硬質化・均質化の動きは、このカオス的に活動をしている無意識の領域を抑圧してしまうことと密接に繋がっている。だから抑圧的な社会の中では創造性が後退していくのだろう。

これからさらに進められるのであろう社会の均質化とどう関わりながら生き延びていくのか。ただ乾いた現実を受け入れながら無為に過ごすのか、それとも拒絶し滅びてしまうのか。あるいはそのどちらとも違う、オルタナティブな道を開くことができるのか。答えはどこにも見当たらないが、その問題を考えるためのよい刺激を受けることができた。

(関連記事:「続・日本の歴史をよみなおす」 日本史の表層を引き剥がす/2005/11/14)
posted by Ken-U at 16:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月25日

飛礫 石を投げるという行為

韓国の映画監督、キム・ギドクの作品を観ると、「石」の扱われ方がとても印象に残る。

「サマリア」(過去記事)では、父親が、娘のからだを買った男に向かって石を投げたり、石で相手を殴り殺してしまう。ラスト近くでは、山に入った父親が、河原の石の中に娘を埋めるという、死と再生の儀式のようにみえる幻想的なショットもつかわれている。

「春夏秋冬そして春」でも、石が重要な役割を果たしている。寺で育てられている子供が、動物の身体に石を結び付けて殺してしまった罰として、僧侶から石を身体に結び付けられてしまう。その罰をきっかけに、彼の人生には何か重いものが圧しかかってしまったようにみえる。

これらの作品を観ていると、「石」から放たれる不思議な力が感じられる。人間の業や情動、またはそれを超えるような力というか。太古の昔から現在に至るまで、人間は石に超越的な力を感じてきた。昨秋、「春夏秋冬…」を観て以来、「石」の持つイメージが頭の中をいつまでもぼんやりと漂っている。

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ikei_no_oken.jpg人間と石との不思議な関係といえば、中沢新一氏の「精霊の王」を読み返すと面白いのかもしれない。しかし、ここのところ読書の時間がとれてないので、まずは網野善彦氏の「異形の王権」、その「中世の飛礫について」の章だけをつまんで読んでみた。

石を投げる、飛礫を打つ。この単純きわまる人間の行動は、それが単純であるだけに、人間の本源と深く関わっており、飛礫・石打ちにまつわる習俗は、民族をこえて人類の社会に広く根をはり、無視し難い大きな役割を果してきた。

この章では、日本の中世から残る飛礫の記録を通して、神事としての飛礫とその背景、とくに、飛礫と悪党・非人の結びつきについて多くの指摘がされている。
さらに、飛礫の記録を遡ると、武器として現れるのが弥生時代であることや、その後、飛礫の記録が西日本に集中して残されていることなどから、この国の飛礫と朝鮮半島との繋がりについても触れられている。

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飛礫とは少しずれるけれど、成年戒を受ける若い男を河原に多い小石の中に埋めるという儀式もあったそうだ。この儀式は「サマリア」における埋められた娘のショットとイメージが重なる。ギドク監督がそれを意識したのかどうかはわからないけど。

飛礫に限らず、石と人間の繋がりはとても深く、その歴史も古いものなんだと思う。人間が人間になった時からの深い付き合いがあるんだろう。また、石をめぐるこの国と朝鮮半島の古い歴史があるというのも興味深い。また少し時間をとって、人間と「石」の歴史を眺めてみたい。

キム・ギドクの次作に「石」は出てくるんだろうか。劇場公開はいつなんだろう?来年になるんだっけ。
posted by Ken-U at 10:27| Comment(4) | TrackBack(1) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

「ファッションの世紀」 時代の鏡としてのモード

深井晃子著「ファッションの世紀 共振する20世紀のファッションとアート」を読了。20世紀は、ファッションが最も独創的で創造性に満ちていた時代だった。深井氏は20世紀をそう捉え、「ファッションの世紀」の変遷をまとめた。あるいは、「ファッションの世紀」の変遷を辿りながら、20世紀という時代が顧みられているようにも感じられる。それは服飾というものが、個人と社会、あるいは個人と個人の境界に存在する鏡のようなものだからだろう。ファッションには常にその時代が映し出されている。

fukai_akiko.jpgファッションの中心都市であるパリ。そこで生み出されるパリモードは、他国の都市から湧き出る、様々な分野の産業、文化に影響を受けながら、変化していく。

19世紀のファッションは、産業革命に伴う鋼鉄技術の発展の影響も手伝って、コルセットによる身体造形が主流だった。20世紀に入ると、女性の身体を縛りつけるコルセットが批判されるようになり、当時流行したジャポニスムをはじめとする東洋趣味の影響もあって、ドレスのシルエットは変化し、女性の身体はコルセットの呪縛から解放される。

イギリスではブルームズベリーの文化運動が発生する。ウィーンでは、クリムトが設立した「ウィーン分離派」の周辺から新たなデザインの流れが生まれる。ロシアではロシア・アヴァンギャルドを土台として、テキスタイル・デザインの変革がなされる。ドイツではバウハウスが誕生する。それらのあらゆる運動がパリに繋がり、影響を与えていく。あるいは亡命者と共に、パリの中へ直接流れ込んでいく。パリの内部ではシュルレアリスムが誕生し、ファッションに対する既成概念に揺さぶりがかけられる。そういった様々な運動をとり入れながら、ファッションのあり方は劇的に変化する。

20世紀前半の動きの中で興味深いのは、それぞれの都市に新しい工房が生まれること。ウィーンでは「ウィーン工房」、イギリスでは「オメガ工房」、パリでは「マルティーヌ」が誕生する。新世紀に対応する新しい価値観を、目に見えるかたちに変容させ、職人の手仕事や、進歩した工業技術を駆使しながら具現化する。思想や美術の領域で生まれる観念的な運動が、デザインを通してかたちとなりモノとなって、身体と結びついていく。その繋がりにとても魅力を感じてしまう。

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第二次世界大戦をきっかけに、あらゆる文化においてアメリカの影響力が強まっていく。それが文化の大衆化に拍車をかける。その象徴がポップアートということになるんだろう。ファッションの大衆化も究極まで進み、現在にまで至っている。デザイナーはストリートを参照し、咀嚼しながら、あるいはそのままコピーすることで、新しいスタイルをつくり出すようになった。

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posted by Ken-U at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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