2005年08月30日

「レヴィ=ストロース講義」 野性的思考によって乗り越えるべきもの

C.レヴィ=ストロース著「レヴィ=ストロース講義 現代世界と人類学」を読了。

levi_strauss01.jpg1986年4月。文化人類学者のレヴィ=ストロース博士が東京で行った三回にわたる講演と質疑応答の内容を収録した講演録。三回の講演内容がそれぞれ第一〜三講となって収録されている。それぞれの講演の表題は以下の通り。

第1講 西洋文明至上主義の終焉 ― 人類学の役割
第2講 現代の三つの問題 ― 性・開発・神話的思考
第3講 文化の多様性の認識へ ― 日本から学ぶもの

西欧文明が自らを進歩の文明と規定して約二世紀が経過した。が、進歩の先にあるはずの夢の世界は未だ実現されてはいない。しかしその一方で、強引に進められる世界の均質化により様々な歪みが露呈してしまっている。現在、僕が身を置くこの社会もある種の閉塞状態にあり、誰もが構造の変化を望んでいるのだけれど、しかし進むべき方向が定まっているかというとそういうわけでもなく、未だ出口は見えない。さらに、大人たちはこの現実から目を背け、限界がみえつつあるこの世界の中に引きこもろうとさえしている。

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崩壊しつつあるこの西欧型文明において、人類学が果たせる役割とはなにか。レヴィ=ストロース氏は、人類学という第三の人文主義により人類にいくらかの謙虚さと叡智が授けられるはずだと語っている。我々の生き方、信じている価値観がすべてではないこと、我々とは異なった価値体系により幸福を実現した共同体がかつて存在していたことを明らかにすることができるのだと。我々が身を置くこの世界とはかけ離れた価値体系を知り、それを鏡として自分自身を振り返ることで、わたしたちは新たな道の手がかりを掴めるのかもしれない。

では、我々とは異なった価値体系を持つ社会とはなにか。ここでは、人類学が主な研究対象としてきた、「未開」状態とされる小さな社会のことが語られている。人類の歴史の約99%に当たる期間、地理的には地球上で人類が住む空間の3/4で営まれた社会は、「未開」状態だった。その暮らしぶりを理解するための唯一のモデルが、今も僅かに残されたいわゆる「未開社会」である。

人類の進化に取り残された野蛮な存在だと見做されがちな「未開社会」。しかし、我々の世界から見捨てられ、いずれは消滅する運命にあるこの集団は、独自の社会体系を持っていて、外部から脅かされない限り、完全に存続可能なものであるとレヴィ=ストロースはいう。

その「未開社会」は、しきたりや信仰に支えられながら自然資源を保全する。また、多様な食物が安定して供給されることにより、人々の健康が維持され、病気の発生率も低く抑えられる。人口増加も抑制されていて、人口はほぼ変動することがない。その一方で、稼動人口が1日当たり2-4時間働くことで社会全体を養うことができる。つまり、そこでは真に低コストな社会が実現されているのだ。

レヴィ=ストロース氏は、そうした社会のあり方を「ぜんまい仕掛けの機械」的だと表現する。最初に機械に与えたエネルギーを用いて作動し、その機械が摩擦も熱も生じないよう完璧に作られている限り、理論的には果てしなく作動しうる仕組み。その特徴は、「未開社会」の持つそれと通じていると。しかし「ぜんまい仕掛け」的社会は、はてしなく初期状態を保持しようとする傾向を持っているため、外部から見ると、歴史も進歩もない社会のように見えてしまう。

一方、この「未開社会」の外部である近代社会は「熱力学的機械」的であると表現される。この社会は蒸気機関のように加熱器とコンデンサーの温度差によって作動し、大量の仕事をこなすのだが、同時に大量のエネルギーを消費し、破壊してしまうという欠陥を持つ。また、この社会は蒸気機関における熱源と冷却器の対立にも比べられるものが存在しなければならないため、ポテンシャルの差異、つまり奴隷制、農奴制、階級分化などと呼ばれる社会的位階秩序を必要としてきた。そして、「進歩」することを運命づけられている。

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これらふたつのタイプの社会の差異を通して、我々は教訓を得ることができる、とレヴィ=ストロース氏は語る(その詳細は省略)。ここで、レヴィ=ストロース氏に対して、「未開社会」の営みを未来の社会にとり入れるとするならば、どのようなかたちの実践があるのかという質問があった。氏はそれに答えて、ピカソの言葉を引用している。そのやりとりはとても興味深く感じられた。

当時、ピカソは莫大なアフリカ彫刻のコレクションを持っていて、そうした彫刻に何の意味があるのかという質問に対して、「これはモデルではなく、実例なのだ」と彼は答えている。つまりピカソは、アフリカ彫刻を模倣すべき対象としてではなく、むしろ西欧の伝統とは異なったやりかたで美的な表現の可能性を探ってゆくときの手がかりとしているのだと言いたかったのではないか。そうレヴィ=ストロース氏は述べている。

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「未開社会」という実例。僕に身近なところでは、中沢新一氏や生前の岡本太郎氏がとりあげた「縄文」も、注目すべき実例のひとつだといえるのかもしれない。

20年近く昔に行われた講演内容が、とても新鮮に感じられながら心に響いてくる。それは、当時直面していた諸問題が解決されないまま現在に至っているということなのだと思う。いまだ具体的な新たな道、オルタナティヴな社会モデルは見えてはいない。しかし、レヴィ=ストロース氏が言うように、まずは問うべきを問うことに希望があると考えるべきなのだろう。あらためてその問いを立て直すところからすべてが始まるのだと信じたい。

目を向けたくない物事に目を向け、受け入れ難い事実を受け入れるように努力する。そうした些細なことの積み重ねも大切であるような気がしてきた。まずは「野蛮」を探り、眠ったままになっている野性を目覚めさせることから。そうして得た力を駆使しながら、様々なレベルで直面している大きな問題を乗り越えていく必要がある。


追記:今日から「LINKS」に「芸術人類学研究所」を追加した。


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2005年06月03日

購入予定の新刊で東京を剥いてみる

earthdiver.jpg中沢新一さんの新刊が発売されたようだ。早速買いにいかなきゃ。タイトルは「アースダイバー」。紹介文を引用してみると、

東京の無意識を探るスピリチュアルな旅へ!
縄文の夢、江戸の記憶……。太古の聖地にはタワーが聳え、沼は歓楽街へと姿を変えた。地下を流動するエネルギーとこの街の見えない構造を探る神話的精神の冒険!



週刊誌の連載が単行本化されたらしい。以前「群像」で読んだ東京タワーの話も収録されてるような気がする。あれは面白かった。縄文時代のあの近辺は海で、東京タワーの立ってる場所は海に突き出した岬だった。そこで死者を祭ったりしてたんだっけ。そういう歴史があって、古代からあのあたりはあの世と繋がるための霊的な場所だった。そこに電波塔が立つっていうのは興味深いとかいう話だったと思う。それに、テレビ局の電波塔の位置と古代の岬の位置が近いとか。

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中沢さんは宗教から宗教を解放しようとしてるんだろうということを以前書いた。この本の場合は、東京をひと皮剥くというか、東京の底に抜け穴をつくって、その先に潜んでるエネルギーを剥き出しにするって感じなんだろう。勝手に予想すると。

インドのように剥き出しではないけれども、この国の中にもインドはあるってことだろう。「悪党的思考」の解説にもそんな感じのことが書いてあった。で、東京の中のインドを感じるために東京を剥いてみたということか。でも東京というか、そもそも人間は脳の中にインドを抱えてるんだと思うけど。脳科学者が書いてたこともそう読めるし...
まあ「痛い」感じになるからこのくらいでやめとこう。それこそ「電波」受信中みたいに思われてしまうw

(関連記事:「アースダイバー」 表層を剥いた東京を潜る/2005/06/16)

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このまえ飲んでたら、ぼくはいつインドに行くんだって訊くやつがいた。行くとは言ってないって。しばらくの間は、あそこやここを剥いたりめくったりしながら身近にあるインドを感じるくらいにしておこうと思ってる。
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2005年05月09日

場違いなところに身を置いてみた

mogi_ken-ichiro.jpg今日も昼に大量の鼻水ドロリ。夕方から外出。神保町の三省堂へ。茂木健一郎氏の講演を聞きに行く(講演のMP3)。

入場者は約50名弱。やっぱりぼくとは接点なさげな人たちばかり。ちょっとした場違い感を受ける。しかしそれはお互い様ということらしかった。それはしばらくして証明された。でもまあ立食パーティーでもなし、おとなしく座ってれば問題ない。静かに腰を下ろしながら、どういう世界の人達が集まったのか、などと考えつつ講演のスタートを待った。
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2005年05月02日

「脳と創造性」 不確実性の海へ

茂木健一郎著 『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』

mogi_ken-ichiro.jpg茂木氏は創造性と脳の働きを結びつけながら、創造を神話的な世界から解き放とうとしている。創造性とは、突出する才能を持った人間のみにもたらされるものではなく、あらゆる人々に備わった能力であるというのだ。それは誰もが持っている脳の働きと密接に関係している。ただここでいう脳の働きとは、人間が意識することのできる領域のみを指すのではない。なぜなら、創造性とは脳の無意識の領域からもたらされるものであるからだ。脳は、人間の意識とは関係なく、絶えず自発的に活動をしている。人間がコントロールできる領域は脳の中の氷山の一角に過ぎないのだ。そのカオス的に活動する無意識の領域から意識の側へと情報が越境するときの、その情報のジャンプこそが創造のプロセスの源になっているのだ。そしてそのプロセスを支えているのは、人間の「感情」というシステムなのだという。

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脳内における「創造性」の働きをイメージしていると、脳の無意識の領域と、古代から人間がイメージしてきた超越的世界が重なってみえてくる。カオス的に活動する脳の領域は、まさに体内に存在する超越的世界だといえるのではないだろうか。創造性が意識の領域内へと運ばれるプロセスと、人間の感情の働きが密接に関わっていることを考えると、境界の向こう側からもたらされるなにかが心を高揚させるというのも納得がいく。

茂木氏は創造性を神話から解放しようとしているけれど、創造性を神話から解放するということは、科学が神話に近づいていく、ということを意味しているのかもしれない。そう考えていたら、中沢新一氏の「カイエ・ソバージュ」シリーズのことを思い浮かべてしまった。というのも、中沢氏は宗教から宗教を解放しようとしているのではないか、という印象を常々持っているからだ。

宗教が宗教から解放され、科学が科学から解放されて、互いに歩み寄り、交じり合うというイメージは官能的で刺激に満ち満ちている。相容れないと思われていたもの同士が受け入れあい、混ざり合うことのできる時代。21世紀が新たな争いの時代ではなく、調和の時代、創造の時代になればと願いたい。
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2005年05月01日

テオティワカン遺跡 太陽に奉げる生贄の儀式

teotihuacan.jpgNHK世界遺産の旅
「新大陸・謎のピラミッド文明〜メキシコ・テオティワカン」

昨日がジャマイカだったからというわけじゃないけど、録画してたのを思い出したので、今日はメキシコへ。メキシコシティーから約50Kmのところにあるテオティワカン遺跡を取材した番組。紀元前2世紀に築かれたといわれるテオティワカンは、その後約800年にわたって栄えたとされる。この人工都市には文字による記録がないため、その由来や目的は謎とされている。

テオティワカンには太陽のピラミッドと月のピラミッドという大規模なピラミッドがあり、発掘調査によってその役割が解明されつつある。テオティワカンのピラミッドは特定の人物の墓などではなく、神殿の台座として築かれたようだ。ピラミッドの上に築かれた神殿では宗教的な儀式がおこなわれていた。儀式では人間を首を切り落とし、流れ出る血を体に塗りながら、生贄を太陽に捧げてらしい。月のピラミッドからは切り落とされた頭蓋骨が発掘されていた。また腕を後ろ手に縛られた、首のない胴体も見つかっているらしい。

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生贄の儀式の背景には、太陽に対する畏怖の念のようなものがあったようだ。当時の人々は、日蝕の時にパニックに陥り、太陽がもとの姿には戻らないのではないかと畏れた。また、西に沈んだ太陽が、もう昇ってこないのではないかという不安を抱えていた。心臓や血は太陽に活力を与えると信じられていたため、生贄の儀式によって太陽の恵みを維持しようと考えていたようだ。そこには、自分にとって最も大切なものを、身を切って奉げるという意味が含まれている。

今から約2,200年前の文明の姿。そこに見られる生と死の距離感、そして人間と自然との繋がりかたが、現代とは全く異なっていることを再認識させられる。死は人々の日常のすぐ近くにあった。死に対する恐怖はあったと思うが、その感情の質は我々のものとは異質なものなんだと思う。
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2005年04月11日

現代に残る対称的世界 狩猟民マタギ

matagi04.jpgNHKアーカイブス「奥羽山系 マタギの世界」('87)

秋田県の阿仁町で狩猟民として生きるマタギの世界を取材した番組。マタギのリーダー、松橋金蔵氏(81)の最後の熊狩りの様子を追っているとても貴重なドキュメンタリー。

秋田県の阿仁町は人口が約5,000人。切り立った山々が迫り、半年は雪に埋もれる町。昔は人々を寄せ付けない、マタギだけが住む集落だった。取材当時では、狩りだけで暮らすマタギは4人まで減っている。松橋金蔵氏はシカリと呼ばれるマタギのリーダーで、集団で狩りをするマタギを統率している。15歳の時からマタギとして生きている。

マタギの狩りや生活様式は、古くから伝わる伝統や作法に則っている。その狩猟の様子や山の神との関わりの一部が映像化されいて、とても興味深く見ることができた。
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2005年04月04日

悪党の変遷

yakuzatonihonjin.jpg猪野健治「やくざと日本人」読了。

戦国末期から現代に至るまでのやくざの歴史を辿り、日本社会の「進化」を社会の裏側から捉え直している。中世における悪党の世界は、戦国期に現れた武家社会によって解体された。そしてその一部の人々は「仕切られた社会」の内側へと取り込まれ、その他の人々は外側へと排除された。その後の悪党的世界の変遷を、自分なりに捉えられればと思って読み進めた。

この本の内容については松岡正剛氏の「千夜千冊」で紹介されている。

(関連記事:「中世の非人と遊女」 柔らかな社会の姿/2005/02/22)
(関連記事:「悪党的思考」 悪党的感性の魅力/2005/02/10)
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2005年03月08日

書くこと、私的に祈ること

NHKクローズアップ現代「ブンガクに異変アリ!? 〜台頭する若手作家たち〜」

去年くらいから10代後半から20代前半の若者を中心にした文学ビッグバンらしい。高橋源一郎さんによると、ネットを背景に書くという行為が日常化したことで、書き手が増えたということが大きいらしい。それにバブル以降の世代として、生きることの難しさが小説へ向かわせていると。明治以来、約100年ぶりの革命的な変化だとおっしゃってた。

確かに文学って可能性があるんじゃないかという気がする。自分も1年半くらい前から小説を少し読むようになったこともあるけど。様々な娯楽が過度に商業化しまう中で、文学はその流れに取り残されていたのが逆に良かったのか。でもこれから文学のカジュアル化が進んでいくんだろうな。

あと、ブログでついリピートして読むのはやはり20代前半とか半ば位の人達が書いたものが多い。といっても読んでるブログはとても少ないけど。若さが持つ魅力というのもあるのかもしれないけど、やはり生き抜いている時代背景というのも大きいんだろう。自分と向き合って書いた文章に触れると、やはり伝わるものがあると感じるし、影響を受ける。中高年には難しいのかも。

歳はとったがぼくもすっかり書くことにハマってしまっている。これは予想外だったな。夏休みの読書感想文すら提出しなかったのに。
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2005年02月22日

「中世の非人と遊女」 柔らかな社会の姿

網野善彦著 『中世の非人と遊女』 (講談社学術文庫)

本書は、中沢新一氏の『悪党的思考』(過去記事)で描かれた中世日本の姿を、より具体的な事例に基づいた史実の積み重ねによって解説したものである。

hinnin_yujo.jpg中世の非人

本書では、非人≒職人と捉えられている。中世の職人とは、漁民、狩猟民、商工業者、芸能民、呪術師、博打などの職能民(非農業民)のことで、つまり自然界と人間界の間の境界的領域に生きる人々のことを指している。

現代のわれわれが、職人の見事な腕前に「神技」を感ずるのと同様、このころの人々はそれ以上に、職能民の駆使する技術、その演ずる芸能、さらには呪術に、人ならぬものの力を見出し、職能民自身、自らの「芸能」の背後に神仏の力を感じとっていたに相違ない。それはまさしく、「聖」と「俗」との境界に働く力であり、自然の底知れぬ力を人間の社会に導き入れる懸け橋であった。こうした力を身につけた職能民が天皇、神仏などの「聖なるもの」に直属して、その「芸能」の初尾を捧げ、自らを「聖別」された存在とした理由のひとつは、ここに求められる。

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自由に一人旅をする中世の女性たち

中世の女性たちは想像以上に自由で、社会的にも力を持っていたという史実には驚かされる。女性たちは、夫や両親に断りなく幾日でも旅に出ることができた。そこには家出も含まれている。処女の純潔は重んじられず、離婚によって不名誉を被ることもなく、再婚することもできた。さらに、妻の側から離婚を申し出る場合もあった。平仮名を駆使し、高い知的水準を持っていた、等々...

こうした柔らかな社会の中で活躍する女性たち、とくに女商人たちは、非人と同様、聖なるものとの繋がりを持つ高貴な存在として認識されていたという。さらに、性的技芸を職能とする遊女たちの社会的地位も同様であった。また、遊女は女房や巫女、尼とも近しい存在であったという。

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硬質な社会への転換

中世の後期以降、神仏や天皇の権威の衰退とともに、これらの人々の社会的地位は著しく低下する。聖なるものへの畏怖の感覚が、穢れの意識へと変わるのだ。武士による王権は、遊郭や被差別部落にこれらの人々を閉じ込めようとする。その結果、穢れ多き者と見做された人々は、社会的賤視の下に固定されてしまう。これと並行して、家父長制による「家」という概念が社会の中に定着する。

非人や遊女の社会的地位が低下するとともに、彼らの救済の役割を担ったのが仏教である。親鸞の「悪人正機」が指す「悪人」とは、社会的に差別されるようになった悪党的人々と深い繋がりがある。また、親鸞が妻帯を積極的に肯定したのも、賤視されるようになった女性を救済するためであったと考えられる。


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ぼくにとっては、「悪党的思考」ではあまり描かれていなかった中世の女性像がとても新鮮で印象に残った。当時、女性の移動はとても活発で、九州から関東まで往来する場合も多かったようだ。当時の女性たちは、その旅の過程で、性的なものも含めて多くの人生経験を積んだという。しかし、女性の自由を許容する柔らかな社会は、神仏や天皇といった、人間を超越した「聖なるもの」に対する強い畏怖の念を基盤とすることによって成立することができたのである。

しかし、中世後期以降、近代に至るまでの間に、社会の硬質化は強化し尽くされ、神仏に対する畏怖の念は消失し、宗教は無効となった。と同時に、その一方で、近代に対する信頼も揺らいでしまっている。そうした揺らぐ時代だからこそ、未来のための新しい価値観が求められるようになるのだろう。
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2005年02月14日

辺境へ 〜 創造と「穴」「闇」

hole00.jpg確か「ミスティック・リバー」についてのエントリーの最後に、「闇」や「穴」と創造について書くといってたのを思い出した。このブログを始めて以来、「闇」や「穴」などの要素は創造的な作品にとってとても大切な要素だと感じている。そのあたりのことを断片的に...

「闇」や「穴」は、このブログでとりあげた映画や小説の中で超越した世界への通路的な役割をもっていた。この世とあの世の間にある境界的な役割。ここでいうあの世とは死後の世界だけではなくて、人間の自我が及ばない不合理な世界というか人間の力を超越した世界。
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