2006年06月08日

ドミニカ移民訴訟

ドミニカ移民訴訟の判決が言い渡された。東京地裁は国の責任を認めながらも、除斥期間の経過を理由に原告の請求を退けたようだ。

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dominica02.jpg『ドミニカ移民訴訟 農地確保、国の責任認定』(link)

 昭和30年代に中米・ドミニカ共和国へ移住した日本人と遺族ら170人が「日本政府は優良な農地を無償譲渡する約束を守らず、劣悪な環境下で過酷な生活を強いられた」として、国に約32億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が7日、東京地裁であった。金井康雄裁判長は「国は農地を備えた移住先の確保に配慮する義務があった」と国の責任は認定。しかし、20年の除斥期間が経過したことにより賠償請求権は消滅したとして、原告側の請求を棄却した。
(以下略/産経新聞/2006年6月7日)
 
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この裁判は行政側の思惑通りに進められたのではないだろうか。判決が下されるまでの約6年の間に、原告のうち17人の方がこの世を去ったという。原告側は控訴をするようだが、控訴審にはどのくらいの月日がかかるのだろうか。行政は、原告が死に絶え、この問題が風化するのを待っている。そんな印象を受ける。

(関連記事:棄民の歴史と現状 ドミニカの場合/2006/02/13)


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2006年04月22日

「郷愁は夢のなかで」 ブラジルの龍宮

岡村淳監督『郷愁は夢のなかで』

晴れのち曇り。下高井戸シネマ。今日は『ドキュメンタリーセレクション〜山形・TOKYO・サンパウロ』(主催:優れたドキュメンタリー映画を観る会)と題された上映企画の初日。岡村淳監督の『郷愁は夢のなかで』という作品が劇場初上映されるということで、下高井戸へと足を運んだ。

06042201.jpg1992年、岡村監督は西佐市さんというブラジル移民の男性と遭遇する。西さんは当時、人目を避けるようにひっそりと暮らしながら、自作の浦島太郎物語を綴っていたという。監督は幾度も西さん宅を訪問し、親交を深めながら、その「”西版”浦島太郎」をカセットテープに吹き込んでもらう約束をとりつける。

その後、監督と西さんの約束は果たされたが、そのしばらく後に西さんは消息を絶ってしまう。監督は居所を探し当てたものの、その時すでに西さんは他界してしまっていた。

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西さんの浦島太郎は海底へと潜るのではなく、遠い異国の地へと飛び去っていく。そして新天地で充実した生活を送り、異国の女王から土産を授かって、また日本へと帰っていくのだった。しかし太郎が目にした祖国に昔の面影はなく、彼を大いに落胆させてしまう。

ここで語られている浦島太郎には、やはり西さん自身の姿が重ねられているのだろう。彼の半生と晩年に抱えていたであろう心情が、この物語の中に散りばめられているような気がする。ただし、西さんのブラジルにおける生活は、この”浦島太郎”とは違い、相当に苛酷なものであったようだ。岡村監督はブラジルと日本を往復しながら、西さんが送った人生の軌跡を辿り、その残像を映像として記録していく。

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戦前、日本は大不況に見舞われており、多くの若者たちが職にあぶれていたという。ブラジルへと渡った西さんもそのひとりである。彼は、この地球の裏側に広がる未知の大地に新しい楽園が築き上げられるものだと思っていた。ブラジルに龍宮があるのだと信じていたのだ。しかしそれは行政がつくりあげたフィクションに過ぎなかった。西さんを含めた移民の人たちは皆、口減らしのために祖国に棄てられていたのだ。西さんは棄民として苛酷な人生を送りながらも、祖国への郷愁を捨て去ることができず、その想いを改訂版の新しい「浦島太郎物語」として綴り続けていた。テープを再生しながら自作の物語に耳を傾ける西さんの姿は胸に迫るものがある。

この映像記録の魅力は、その内容に、いわゆる”社会派”と呼ばれるカテゴリーの中には収まりきれない”何か”が籠められているところにあると思う。「浦島太郎」という異界を繋ぐ想像上の人物を媒介としながら、この世とあの世、そして日本とブラジル(ここでブラジルは”もうひとつのあの世”だと考えることができるだろう)の間を行き来する西佐市さんと、何かにとり憑かれたようにその残像(あるいは亡霊のようなもの)を追いかける岡村淳さんの姿に、人を惹きつける何か不思議な力のようなものを感じてしまうのだ。
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2006年04月17日

ミュンヘン事件 黙殺される物語、テロとその報復の現場

BS世界のドキュメンタリー
『証言 イスラエル暗殺部隊 〜”ミュンヘン”の報復〜』

ミュンヘン五輪の選手村で発生したテロ事件(1972年)の報復として、イスラエル政府はモサドに命じ、パレスチナのテロ組織(ブラック・セプテンバー)に属する事件の関係者を次々に殺害した。

munich_olympic_terror02.jpgテロ事件の遺族、モサドやCIAの元高官、PLOの元メンバーなど、当時の関係者がテロ事件の様子や報復の経緯などをカメラの前で証言している。その内容は事件のあらましをなぞるようなもので、彼らの口からは、それほどショックを受けるような事実は明らかにされなかった。

何故それほどショックを受けなかったかというと、例えば、暗殺部隊の元メンバーの言葉から感じられたのは、彼らは属する組織から与えられた重い任務を遂行したに過ぎないということで、テロや暗殺の当事者には重い任務を背負うことによる強烈なストレスはかかるとしても、ターゲットに対する憎悪などの特別な心情を抱いているわけではなく、そのドライな殺戮の現場からは人間の心を動かすような物語は生まれないのではないか、という印象を受けたのだ。彼らは定められた標的に向かって引き金を引き、絶妙のタイミングで爆弾のスイッチを入れた。ただそれだけのことだ。たしかに、任務遂行の度に感情移入をしていたら精神的にもたないだろうし、プロの殺しの現場とはそういうものなのかもしれない。

ただ、違う意味でショックを感じてしまうのは、そのドライな職場としての殺戮の現場と、事件の遺族が語るテロの記憶との間には、やはり大きなギャップが横たわっているということだ。遺族たちは、それでもイスラエル国家と共有できる物語を抱き続けているのだろうか。
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2006年04月14日

雇用に関する日仏のあれこれ

先日、フランスのCPEをめぐる騒動について少し触れたのだけど、その直後に同法案が撤回され、代替法案が成立した。その関連記事を一部引用しておく。

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「フランス:新雇用策撤回 ドビルパン首相、打撃 大統領レースに影響」(link)

(前略)◇学生らの団結画期的−−日本の労働問題に詳しいポール・ジョバン仏パリ第7大学助教授の話
 CPEを撤回させたのは、大学を卒業しても安定した仕事に就けない状況に対する学生たちの怒りだったといえる。
 親の支援を受けてもアルバイトしないと生活できない中間層の学生たちは、不安定な雇用問題にとても敏感だった。
 当初、発表された段階ではCPEの内容が十分知らされず、国民の7割以上が賛成だった。その後、反対運動が盛り上がり、わずか1カ月で立場は逆転、反対が7割を超えた。若者を2年間も研修生扱いし理由もなく解雇できるというCPEの差別的な内容が明らかになったからだ。(以下略 / 2006年4月11日 毎日新聞)

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「仏の若者雇用促進策、代替法案が成立」(link)

【パリ=島崎雅夫】フランス上院は13日、前日の国民議会(下院)に続いて、政府が撤回した若者雇用促進策「初期雇用契約」(CPE)の代替法案を賛成多数で可決、同案は成立した。
 同案は、与党・民衆運動連合(UMP)が提案、学歴が低く、職業資格が不十分な若者を正社員として雇用した企業への補助金支給や職業訓練の強化などを盛り込んでいる。ただ、従来の政策の繰り返しに過ぎず、初期雇用契約のように、硬直した労働市場を抜本改革する内容とはなっていない(2006年4月14日 読売新聞)

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当初の法案が撤回されたからといって、フランスの雇用状況が好転するというわけではないのだろう。ただ、現状、労働者の権利が手厚く保護されていることが、若者の雇用に悪影響を及ぼしているという言説も、いかがなものかと思う。

一方、日本社会においては、雇用をめぐる規制緩和が粛々と進められていて、実際、統計上は雇用状況が好転しているともいわれている。ただ、雇用されたとしても、与えられる条件が劣悪な場合もあり、とくに派遣社員の雇用環境は悪化しているという指摘もある。

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koizumi05.jpg「縦並び社会・格差の源流に迫る:倒れるまで働け」(link)

(前略)労働時間規制と並ぶ労働分野の規制緩和の柱に労働者派遣事業の解禁がある。これも財界の圧力にさらされてきた。

 派遣労働の業種拡大に向け、派遣法の大幅改正の審議入りを控えた90年代半ば。旧労働省事務次官に旧日経連から電話があった。「今さらあの先生でもないでしょう」。審議を担当する旧中央職業安定審議会の会長を替えるよう迫った。

 名指しされたのは「業種をむやみに広げると労働者の低賃金化を招く」として規制緩和路線と一線を画す高梨昌・信州大名誉教授。結局、高梨氏は法改正には直接関与しない旧雇用審議会の会長に「棚上げ」される。改正論議は財界主導で進み、製造現場への派遣も04年に解禁された。

 85年に初めて法律で認められた派遣労働者は今、250万人。この元次官は「当初は派遣労働の分野が無秩序状態になるのを避けるため、法律が必要という発想だったが(派遣法の改正を経て)こんなに増えるとは想定していなかった」と打ち明ける。
(以下略 / 2006年4月4日 毎日新聞)

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「労働時間法制:ホワイトカラーにも残業代適用除外 厚労省」(link)

厚生労働省は11日、一定水準の年収があり、仕事の裁量幅も大きい「ホワイトカラー」について、残業代や休日手当の支払い対象から除外する新たな労働時間法制の「視点」を労働政策審議会(厚労相の諮問機関)に提出した。これを受け、来年の労働基準法などの改正をにらんだ審議がスタートした。
(以下略 / 2006年4月12日 毎日新聞)

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酒を飲みながら周囲の人たちと会話していても、ここ3-5年で、職場の環境が悪化したという話を聞くことは多い。業界の中で、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる企業においても、業績を維持するための圧力が年々増していて、それに耐えられずに、誰もが羨むポジションを捨てて会社を去る人も出てきている。業績が好調な企業においても、得られた利益が還元されるのは一握りの人たちに限られてきているようだ。企業の内部でも富の集中が起こり、職場環境の”イスとりゲーム”化が進んでいるような気がする。

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雇用といえば、私的にも約1ヵ月後に動きがある予定。その件についてはいろいろと考えることがあるので、来週にでも何か書き留めておこうと思っている。ぶらぶら生活も、もう少しで一段落といったところだ。
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2006年04月10日

フランスの移民暴動とこの社会の未来

地球特派員2006『フランス ”移民暴動”とその後の試練』

姜尚中氏がフランスに赴き、暴動を生み出すきっかけとなった低所得者用団地(シテ)などを訪ねて、現地の移民系住民が抱えている社会問題やその背景について報告をする。

paris_burning01.jpgフランスでは若者の失業率が20%台に達している。とくに移民系住民の雇用状況は酷く、その失業率は40%を超えているのだという。

第2次大戦後、旧植民地から労働者として受け入れられた移民とその2世、3世たちは、現在、シテと呼ばれる低所得者用団地に隔離されおり、今も苛酷な社会的差別を受け続けている。あらかじめ多くのものが奪われてしまっている移民系の若者たちは、その閉塞状況の中で、行き場のない鬱屈したものを抱えながらその人生を持て余しているのだ。

昨年10月、警察とのトラブルによってふたりの少年が死亡し、その事件が発火点となって、移民系の若者たちによる大規模な暴動事件が発生した。爆発した暴力のエネルギーはフランス国中に連鎖し、大きなうねりとなって、「自由・平等・友愛」という国家的フィクションを吹き飛ばし、フランス社会が隠蔽してきた深刻な社会問題を剥き出しにしてしまった。国家はCPEによって露呈した問題を国内の若者たちになすりつけようとしているが、それが新たな社会問題を引き起こしている。

「フランス:CPE反対 第2波デモに300万人参加 活性化か、使い捨てか」(link

◇新雇用策、若者ら反発
 【パリ福井聡】フランス政府の若年者雇用促進策「初期雇用契約」(CPE)の撤廃を求める労働組合、学生団体、野党は4日、全土で大規模ストライキとデモを実施した。3月28日に続く第2波。労組側によるとデモには前回並みの全国で約300万人が参加した。与党・国民運動連合は4日、労組・学生側との初の直接交渉を5日から行うと明らかにしたが、学生の全国組織は6、7の両日にも抗議行動を予定。2カ月に及ぶ混乱が収束するめどはたっていない。混乱の背景には、就職すれば手厚く保護される仏特有の硬直した雇用制度や、街頭行動で政策変更を迫る国民意識なども指摘されている。
(以下略/毎日新聞2006年4月5日)

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シテといえば、ジダンやアンリなど、フランス・サッカーのスター選手が生まれ育った場所である。彼らはあの絶望的な世界から脱出することに成功したのだ。しかし、それができるのはほんの一握りの男たちに限られている。シテの若者たちの中にはソルボンヌ大学卒などの高学歴者もいるが、それでも就職の機会が与えられることはないのだという。その出自が足枷となっているのだ。政府はエリート校であるパリ政治学院(シアンス・ポ)に移民系住民の優先枠を設けるなど、同化政策の強化をアピールしようとしているが、その効果は未知数である。

従来のフランス人と移民系フランス人の境界を仕切り、その格差から富を生み出すというこれまでのシステムは破綻しようとしている。そこで老人たちは若者との間にも境界線を引き、フランス人を世代で引き裂くことによって既得権益を維持しようとしているが、それもうまくいってはいないようだ。その背景には新自由経済がある。地球規模の格差を利用する方が経済効率がいいに決まっているのだ。低賃金労働者はアジア、アフリカ、中南米地域などに溢れている。企業はその拠点の多くを世界の”外側”へと移転、もしくはアウトソーシングさせ続けるだろう。ただし、そのあとにダブついてしまう移民系住民や若者たちをどう始末するかという問題が残る。邪魔者だととはいえ、一応は人間であるがために、その”処理”には膨大なコストがかかりそうだ。

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現地を歩く姜尚中氏の映像を眺めることで、この問題と日本社会の現状を重ねて感じることができたと思う。何の番組だったか、以前、彼が自身の出身地を訪ねている映像がTVで放送されていたことを思い出した。そこは熊本にある在日コリアン居住区跡で、当時はバラック街のようなつくりをしていたらしい。そこで暮らす人々はやはり苛酷な生活を強いられていたようだ。彼が在日コリアンであることは知っていたけれど、その映像を眺めることによって、それまで漠然と捉えていた情報とは違う、ある種の生々しさを感じることができた。

日本社会もまた、低賃金労働者として移住させられた人々とその2世、3世を数多く抱えている。さらに少子化問題に関連して、近い将来、新たな移民の受け入れを検討しなければならなくかもしれない。そのうえ、若者の雇用問題も未だ解決されたとは言い難い。程度やバランスは違うかもしれないけれど、日本もフランスと同じような状況に立たされているのだと思う。人口の減少と高齢化が急速に進むこれからの10年、20年の中で、その状況は一層深刻なものになるだろう。やがて訪れるであろう厳しい未来に向けて、我々はいったい何を準備すればいいのだろうか。

関連記事:格差社会の辺境 フランスの移民居住区/2006/03/03)
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2006年03月03日

格差社会の辺境 フランスの移民居住区

BS世界のドキュメンタリー
『移民社会 フランスの課題 〜貧困と差別の中で〜』(ベルギー/2003年)

西欧の都市は社会階層によって居住区が厳密に仕切られている。移民たちはその辺境に位置し、人種・宗教差別、失業、貧困、犯罪など、多くの問題を背負わされている。

prison02.jpgフランスの都市、アミアンとリヨンの例があげられている。工場が閉鎖され、多くの移民たちが職を失ったこともあって、移民居住区は閉塞状況に陥っている。行き場を失った人々は人材派遣会社に登録をしているが、就業の機会は稀にしかない。とくにイスラム教徒に対する企業の態度は厳しくなっている。

フランス社会に受け入れられるためにはサッカーの代表選手になるしかない、と街角でくすぶっている若者は皮肉まじりにいう。移民の子供として育った彼らの人生からは、あらかじめ多くのものが奪われているのだ。
職業訓練校で技術を習得し、低賃金の単純労働者として就職先を探す。下層階級で育った彼らに他の選択肢はない。職を得ることができたとしても、その地位は不安定なものである。彼らの中には、あらかじめ奪われているものを強引に奪い返そうとする者もいる。しかし法の境界の向こう側では、刑務所というこの世の果てが待ち受けている。

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所得格差が拡大していく中で、日本は移民の受け入れをどのようなかたちで進めていくのだろう。これからの20年でこの社会の風景は大きく変化していくはずだ。バブル世代は定年を迎え、現在ニート・フリーターと騒がれている世代は中高年になっている。その頃の企業は誰が支えているのだろう。移民はやはり単純労働者として組み込まれることになるのだろうか。その場合は、現在のフリーターやその子供たちと職を争うことになるのだろうか。それとも、移民の受け入れを拡大せず、労働人口を減少させる道を選ぶのだろうか。20年後の子供たちはどのような社会を生きることになるんだろう。
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2006年03月02日

ポーランド 民主化交渉の舞台裏

BS世界のドキュメンタリー
『ポーランド 民主化交渉の舞台裏 〜「連帯」対旧政権』

血を流さずに進められた、「連合」によるポーランドの民主化革命。その関係者の証言。

solidarnosc00.jpg1980年8月、港湾の町グダニスクで、レーニン造船所の労働者たちがストライキを起こした。カトリック教会の支持を受けたこともあって、この運動は大きなうねりとなり、これを受けたポーランド政府は、労働者グループとの協議の末、9月17日、自主管理労組「連帯」の発足を承認した。

しかし、ソ連がこの動きを嫌い、ポーランド政府に強い圧力をかけたために、政府は「連帯」の承認を撤回し、戒厳令によってその活動を弾圧した。その後、「連帯」と政府の対立は激化したが、1985年、ゴルバチョフがソ連の書記長に就任したことによって、事態は再び急変する。

政府と「連帯」は互いに歩み寄る姿勢をみせ始め、水面下で続けられた交渉の末、1989年、両者を交えた公式会議が開かれ、その結果、反体制派の議会における代表権が承認された。その直後に実施された総選挙で、反体制派は下院の議席数の35%を占め、さらに上院では1議席を除く全ての議席を獲得することに成功した。これによって、「連帯」のマゾビエツキを首相とする非共産政権が誕生し、旧体制を支えた統一労働党は解散するに至った。

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ワレサやマゾビエツキ、カチンスキなど、「連帯」の要人たちが代わるがわるインタビューに応えながらその業績を自画自賛する、という構成で制作されていて、内容が政権寄りに偏っていたので、あまり面白みは感じられなかった。当然のことながら、映画『灰とダイヤモンド』(過去記事)の面影も残されてはいなかった。

それでも面白いなと思ったのは、労働者のためにあるはずの共産政権が労働者と対立してしまうことだ。国内にカトリック教会を残したことからも、この国の共産党があまり”真面目”ではなかったことが伺える。”体制のための体制”に過ぎなかったのだろう。もっとも、”真面目な共産主義”というものが存在するのかどうかもよく判らないのだけど。

かといって、権力を手にした「連帯」が労働者たちに利益をもたらしたか、という点にも疑問は残る。新政権が進めた自由主義経済は労働者たちに”改革の痛み”を与えたけれど、その後、国民達の暮らしぶりがどう改善したのかはよく判らない。そこにカメラが向けられることはなかったのだ。労働者のための政権とは、集票のためのフィクションに過ぎないのかもしれない。
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2006年03月01日

ロシア周辺諸国民主化とアメリカの戦略

BS世界のドキュメンタリー
『ロシア周辺諸国民主化とアメリカの戦略』(フランス:CAPA)

2000年10月、旧ユーゴでミロシェビッチ政権が崩壊して以降、グルジア、ウクライナ、キルギスで次々に旧体制が転覆し、民主化を掲げる新政権が誕生した。「民主化ドミノ」と呼ばれるこの政治運動の連鎖は、いずれも学生を中心とした反政府運動によって突き動かされており、その運動はアメリカ政府の強力な援助によって支えられている。この番組では、ロシアとその周辺諸国で活動を続ける民主化グループと、その支援団体にカメラを向けている。

orange_revolution01.jpg2000年夏、ジョン・マケイン上院議員の依頼を受け、民主化運動コンサルタントのボブ・ヘルビーがセルビアに向かった。その僅か3ヶ月後、ミロシェビッチの独裁政権は崩壊する。この際、ヘルビーらは現地の反政府活動家たちを集め、旧体制転覆に向けた活動方法を指南している。体制の民主化に成功した活動家たちは、周辺の旧東側諸国に向かってそのネットワークを広げ、民主化運動の大きな流れをかたちづくっていく。

アメリカは旧体制転覆のための指導だけではなく、その活動のための資金援助も行っている。その額は、2004年のウクライナで年間6,000万ドル、2005年のキルギスでは5,000万ドルにのぼる。グルジアではジョージ・ソロスのオープンソサエティ財団が資金援助を行っている。
また、ジーン・シャープの著書「独裁制から民主制へ」を現地で出版し、活動グループを通じて学生を中心とした有権者に配布したり、旧ユーゴで行われた反政府活動の様子を収めたビデオ鑑賞会を開くなどの啓蒙活動も行なっている。

1950年代から70年代にかけて、アメリカは同様の活動をCIAによって進めようとした。しかし、諜報機関による活動は強い反発を受けたことから、現在では民間団体による支援活動に切り替えられ、大きな成果を挙げるようになった。この間、反政府運動のノウハウも蓄積され、2005年のキルギスでは、反政府デモが開始てから僅か2時間で大統領官邸を占拠している。当時のアカエフ大統領はその直後に失脚した。

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2005年2月、スロバキアの首都ブラチスラヴァで米ロ首脳会談が行われたが、この際、アメリカは単独で旧東側諸国の民主化運動リーダー達を集め、大統領を囲むパーティーを開いた。このパーティーそのものは非公開で行われたが、その周辺の様子は映像に収められていた。

これらの映像を通して、民主化運動の活動家たちが国境を越えて強く結びついていることがよく判った。また、民主化運動コンサルタントが新政権の大統領に寄り添い、その言動をチェックしていたり、旧政府に圧力をかけるジョン・マケインの様子が活動家たちに向けて中継されていたり、その関与のオープンぶりには少し驚かされた。


旧政権が独占していた既得利権は、このような運動を通して開放されていくのだろう。大切なのは、新たな富がどこに配分されるかという点にあると思う。強い利権を手にした民主化運動のリーダー達は、有力な実業家になったり、政治家になったりするのだろう。そこには戦後日本のゴタゴタが映し出されているようで興味深く感じられた。反独裁、反共産、反資本など、強固な組織による反○○運動すべてに通じる胡散臭さも十分に伝わった。これからの革命とは、そのエネルギーを他者に向けるのではなく、自己に向けるべきでははないか、という気もするのだけど、そんなキレイ事が軽く吹き飛ばされてしまうような状況が、この世界には溢れているのだろう。
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2006年02月13日

棄民の歴史と現状 ドミニカの場合

NNNドキュメント『楽園は 何処に… 祖国を訴えた日本人』

戦後、ドミニカ共和国に棄てられた日本人は1,319人にのぼる。その経緯と現状、行政を相手に起こされた訴訟の様子などにカメラが向けられる。

dominica01.jpg戦後の復興期、植民地からの引き揚げやベビーブームなどによる人口増加は政府の懸案事項であった。これを解消するため、政府は移民政策を推進する。

1956年、ドミニカ共和国への農業開拓移民が募集される。その際、農地300タレア(18ヘクタール)の無償譲渡という好条件が提示されたこともあって、多くの人々がこれに応じた。1959年までの3年間に249家族、1,319人の日本人がドミニカへと渡った。番組では、その移民のひとりである山本福槌さんとその家族を取材している。

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政府の約束は果たされなかった。山本さんとその家族は入植地であるダリボン(ハイチとの国境地域の町)に着いたが、約束されたはずの土地は80タレアのみしか与えられず、現地の植民法を理由に譲渡も拒否された。しかも土地には水が引かれておらず、水田をつくることは不可能であった。そのため、山本さんは国際協力機構(JICA)に借金をし、別の土地を購入した(しかし法的には登記されていない)。

他の入植者たちも同じような境遇に立たされていた。与えられた土地は約束の半分以下で、そのうえ塩が吹き、無数の石が転がるような場所であった。窮状を大使館に訴えても聴き入れられることはなかった。ある役人は、3年経てば石も砕けて肥料になると言い放った。追い込まれた移民の多くはその土地を去っていく。その行き先は日本や南米など様々だった。中には絶望のあまり自殺する人もいたという。当初の249家族は、6年後に49家族にまで減少した。

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現地にもカメラが入り、その様子を記録していた。入植以来、約40年間は電気もない生活を送っていたという。山本さんがJICAから借りた金額は24,000ドル。当時は11万ペソだったものが、ペソの暴落によって80万ペソにまで膨れあがった。JICAの督促は現在も続いている。

その暮らしを助けるため、山本さんの孫が日本に出稼ぎに来ていた。神奈川の自動車部品製造工場で時給1,200円の仕事に就き、ドミニカへ毎月10万円を送金していた。しかし孤独に耐えられなくなった彼は、その後ドミニカへと帰国してしまう。

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2000年、ドミニカ移民は政府を相手に訴訟を起こすが、外務省との主張は真っ向から対立している。2004年には小泉首相が非を認めたものの、外務省はその発言を否定している。その間、裁判は遅々として進まず、この5年間に15人の移民がこの世を去ってしまった。山本福槌さんもそのひとりである。判決はこの春に言い渡される。
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2006年02月12日

「ホストタウン エイブル2」 隔たりはどこにあるのか

小栗謙一監督『ホストタウン エイブル2 / HOST TOWN able 2』

2003年、スペシャルオリンピックスがアイルランドの首都ダブリンで開催された。ダブリン郊外で暮らすエイミー・パーセル(18)はパーセル家の9番目の子供である(パーセル家には子供が12人いる)。彼女はダウン症で、かつては養護学校に通っていたが、今は普通校に通っている。彼女には秘書になる夢があり、トレーニングセンターでその業務を学んでいる。

エイミーの住む町は日本人選手団のホストタウンであるので、町を挙げた準備が進められる。その過程とスペシャルオリンピックスの様子などを通して、知的障害を抱える子供たちやその家族の姿などにカメラが向けられている。

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このシリーズは画づくりにとても気を配っている。おそらく、撮る側から被写体への働きかけもあるのだと思う。その善し悪しは別として、映し出される映像に親近感のようなものを覚えるのは、その演出(?)の効果もあるのではないだろうか。眺めていると、自分もそこに身を置いているような、”向こう側”と自分との距離が縮まっていくような気がしてくる。そこから、”こちら”と”あちら”の違いとは何か?という素朴な疑問が頭の中に湧き出てくる。

hosttown_able02.jpgとはいっても、人物に魅力があるからこそ、その画づくりが活きているというのは分かる。この作品の軸であるエイミーも素敵な女の子だった。明るく、気丈で、周囲を和ませたり、チョコを食べ過ぎたり、涙を拭いながら電話応対を習ったりと、その魅力を周囲に振りまいていた。
彼女の兄は、エイミーみたいな人間が増えれば世界は平和になる、と語っていた。かつてはアルコール依存症で家庭を顧みることがなかった父親も、今ではその態度を改めている。エイミーと妹リンジーの存在が、彼の振る舞いを改めさせたのだ。

リンジーは脳性麻痺で、歩行に障害を抱えている。彼女はエイミーとは逆に、普通校から養護学校に編入した。周囲と馴染めず、思い悩むことが多かったようだ。それでも挫けることなく、彼女は夢に向かって生きている。
障害を抱える子供を持つことは不幸なことではない。むしろ家族を幸せにする可能性がある、と彼女は涙ながらに語る。その姿は強く印象に残るものだった。

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その他にも、スペシャルオリンピックスの規模が思いのほか大きいとか、参加者の横の繋がりがとても強そうだとか、アイルランドといえばやっぱりU2かとか、発見することが多々あった。障害者の問題に限らず、個人と社会の関わりなどについて少しは考えねば、と感じた。

(関連記事:「able エイブル」 機会と可能性について/2005/02/10)
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2006年02月10日

「able エイブル」 機会と可能性について

小栗謙一監督『able エイブル』。ドキュメンタリー・フィルム。

ふたりの少年がアメリカへ渡る。ひとりはダウン症で、もうひとりは自閉症という知的障害を抱えている。ふたりはホームステイをしながら、現地の福祉施設に通うとこになっている。
彼らを受け入れるホストファミリーは知的障害者と関わった経験がなく、少年たちは英語を理解することができない。この擬似家族は共に未知の領域へと踏み込み、新たな経験を積む。その過程が映像化されている。

able02.jpg健常者と障害者の垣根が消えていく。ホストファミリーと少年たちの関係だけではなく、その様子を眺める自分の意識の中でもそれが起きる。この作品の魅力はそこにあるのだと思う。

現地の施設や共同生活の中で、少年たちは様々な機会を得る。バスケットに興じたり、イルカに触ったり、ハイキングをしたり、料理をしたり、英語が話せるようになったり、職業訓練を受けたり、踊ってみたり。彼らはその全てを学びながら消化し、経験を積み重ね、自信をつけながらたくましさを増してゆく。そこで改めて気づかされたのは、その過程に健常者と障害者の違いはないということだった。

*****

障害者が得られる機会に関して、日米の違いや収入による格差など、その現状に関心を持った。この作品で取り上げられたケースは経済的にも恵まれたものなのだろうし、カメラの存在が影響を与えた部分もあるように思う。

また、障害者という枠組みを越えて、一般的な教育や職業についても考えさせられた。機会を得る、あるいは与えるということについて、自分のことを振り返ったり、これからを考えてみたり。できれば、これからは様々な機会を生み出せる仕事に関わりたい。ここ数年はその逆に流されていたような気がする。とても難しい課題だとは思うけれど。

(関連記事:「ホストタウン エイブル2」 隔たりはどこにあるのか/2005/02/12)
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2006年01月31日

無知と忘却の果て 血塗られたペルーの20年

BS世界のドキュメンタリー
『ペルー 流血の20年 〜ゲリラと政府のはざまで〜』

1980年頃から約20年間、ペルー政府と反政府武装組織センデロ・ルミノソとの間で激しい武力闘争が繰り広げられた。その間、拉致や殺害などの凶悪犯罪が横行し、約7万人のペルー国民が殺害されたという。フジモリ政権崩壊後の2001年に設立された人権団体「真実と和解委員会」が、ペルーの血塗られた20年の実態を明かす。

peru04.jpg1970年代、ペルー社会は近代化を遂げ、その結果、都市と地方の経済格差が拡大した。首都リマの都市化が進む一方で、山間部の農村は深刻な貧困に陥ってしまったのだ。

その頃、アンデスの山岳地帯、アヤクーチョで教鞭をとっていたアビマエル・グスマン教授は、中国共産党の影響を受け、新しい政治体制を目指す「センデロ・ルミノソ(輝く星)」を組織した。
新しい楽園建設のため、今ある世界は破壊されなければならない。センデロ・ルミノソは農民たちに武装を強要し、従わない者は殺害するという強い姿勢で組織への忠誠を求めた。過激さを増す武装組織は急速に拡大し、その勢力は政権の脅威となった。

1982年、ペルー軍によるセンデロ・ルミノソの弾圧が始まる。以降、軍の行動は国民の人権侵害という痛みを伴ないながら進められるが、政府は軍の犯罪を黙認し、反政府組織の壊滅を目指す。
85年、軍は国土の大半を制圧することに成功する。暴力的な体質が農村部から敬遠されるようになったこともあって、センデロ・ルミノソ勢力は縮小を余儀なくされる。
90年、テロとの戦いを掲げるフジモリ政権が誕生すると、議会の解散、憲法停止などの非常事態措置がとられ、絶対的な大統領令の下で反政府組織解体のための活動は強化された。そして92年、グスマンは逮捕され、センドロ・ルミノソは解体される。
しかし、その後もフジモリは強大な権力を維持し、反政府勢力の根絶を目指した。軍や国家情報局には大きな権限が与えられ、多くの国民が拉致された。当時の行方不明者の数は世界最多ともいわれている。

2000年にフジモリ大統領が失脚すると、翌2001年に「真実と和解委員会」という人権団体が設立され、その後2年間に渡って約17,000人の国民から人権侵害の被害状況が聴取された。

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被害者へのインタビューを眺めていて強く印象に残ったのは、大学進学と同時に軍に拉致されたという女性の証言だった。
この女性は拉致されると軍の施設に監禁され、学生運動に関する証言を強要された。軍人たちは証言できずにいる彼女に暴力をふるい、レイプを繰り返したという。彼女は獄中で妊娠し、娘を出産した。6年間の獄中生活の後に、彼女は釈放され、娘との再会を果たしている。

まだ幼い娘に全ての事情が伝えられている。政府に未来を奪われたと主張する母親の言葉は重い。しかし今後何かしらの補償を得られたとしても、過去に奪われたものが彼女のもとに戻されることはない。母と娘は悲惨な過去を受け入れ、それを乗り越えながら、厳しい現実の中を生き延びていかなければならないのだ。

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政府と反政府組織はある種の共犯関係にある。貧富の格差による社会の軋轢を利用しながら、指導者たちは支持する人々を食い物にしている。指導者が振り回す扇動的な言動には注意を払わなければならない。

2001年に誕生したトレド政権は、貧困の解消と先住民排除の社会体質改善を志向したが、未だ十分な成果をあげることができずにいる。フジモリ陣営が巻き返しを図る中で、この春に予定される大統領選挙はどのような結果を出すのだろうか。
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